チタは走っていた。足音は、彼女のブーツが立てる一つだけ。  不意に彼女は進路を変えて直角に曲がる。今まで彼女が走っていた 路地の先に、人影が通り過ぎた。    入り込んだのは、右はコンクリートのビルで、左はレンガのビル。 その間にできた人工の渓谷で、チタは、宙返りで飛び上がりると。 ブーツのつま先を非常階段の手すりに引っ掛けた。高さは優に3mを超 える。    そのまま、垂直腹筋の要領で上体を起こし、手すりを掴む。そして、 体を2つに折り曲げた状態で、手すりを蹴って逆立ちの状態まで体を伸 ばした。  鉄棒の大車輪のような動きである、その回転が最頂に達したところで 手を離し、さらに上の階へと飛び込んだ。    上階の踊り場へ着地すると、階段へは向かわずに、また跳躍して 外階段の外側へ飛び出す。  ビルの壁面に据えられた室外機に音も無く足をつけ、ジャンプして さらに上階の手すりへと跳んだ。    まるで、絶壁を駆ける野生のヤギのような動きであった。  あっという間に、屋上まで登り切ると、そこで彼女は足を止めた。    屋上で、ペットボトルを取り出して、蓋を開けた。  この界隈ではお馴染みの清涼飲料のラベルだったが、空の容器を拾って洗 いだだけのそれは、見た目はほぼゴミ同然である。  そして、中身は容器を洗いだ川の水だ。  それを、チタは飲んだ。  彼女の体には、その程度の不衛生は問題ではなかった。    チタは、腰を下ろして休憩することにした。  別に何かから逃げていたわけではない。ただ、訓練していただけだ。    別に義務があるわけでも目的があるわけでもない。ただ単に落ち着かなか ったのだ  ここは、食料も水も確保が容易い環境なのだから。生存するために何もせず じっとしている必要は無い。  そうすると、彼女は、余剰した時間を訓練に費やさずには居られなかった。    満足するまで、と言うより。なんとなく、自分の中でこれならば問題は無い と思うレベルまで、意味もなく走り、体に負荷をかけて鍛える。  終わった後、チタの心の中には達成感や爽快感等、微塵も無い。  ただ、いつもの不機嫌があるだけだ。   (あっちが中心部、学園地区っていう所)    屋上の縁に座りながら、空気遠近法的に青く霞む建物の群れを眺める。  この島へ上陸してから数日、ある程度この島のシステムも分かってきた。 どう、生き抜けばいいかも目星が付いている。  遠くに、立派な学園施設の建物群を見ながら。ふと、チタは思い出した。 『娘に異能が宿れば、私達もあの島で暮らす事ができる』  常世島へやってくる時に乗った、密航船の中で聞いた言葉だ。    ここへくれば、異能を発現する事ができるという。そんな噂も誠しやかに 囁かれていた。  そして、その噂は、外側の世界で行き場を失った人達の、最後の拠り所にも なっていたのだ。    チタには、異能と呼ばれる力がある。  『君たちの力は、異能や魔術などというオカルトではない、人工進化による 新たなる生物的特性だ』  そう、チタとその兄弟達に言っていた男の顔も思い出した。  不機嫌は強まって。チタは立ち上がった。    密航船の中で、『私が異能を持てたら、お母さん達を助けてあげられる』 そう言っていた少女に、この力をくれてやれると言ったら。彼女は喜んだだ ろうか。  そして、迷う事なく、このスラムから向こう側の街へ行ったのだろうか。 (行かない理由がないね)  チタは、そう思った。  それが間違いなく、あの少女にとっての生き抜く術というものなのだから。    屋上の縁に立つと、チタは、虚空へ足を踏み出すようにして落ちた。  タンッタンッ、と音がして。  それから、遥か下の道を、駆けていく足音が遠ざかった。