チタは現在、住所不定無職である。眠りたければスラムの少し人が 入りにくい所を選んで寝床としていた。   (どうしようかな…)    しばらく寝床だった場所が、跡形もなく粉砕されてしまったのだ。 異能者同士の喧嘩のせいらしい、この街では稀によくあることだ。    ちょっとした洞窟みたいな空間をビルの谷間の中に見つけた。  その、建物にできた凹み部分がなんのための空間かは知らないが、 雨風を凌ぐのによさそうだから、ちょっと覗いてみた。   ……ごめんなさい。    先客がおられて、ダンボールとか新聞とかビニールシートのミノムシ となって眠っておられて。  覗きこんだチタを、まったく苛立たしそうに睨んだので、チタは大 人しく引き下がる。   どうしよう……。  夜の路地裏で彼女はつぶやく。    たまたま、そういう気分であっただけだ。今日はせんべいが売れて気分が 良くて、たまにはちょっとした"善行"を積むことも悪くはないのではないか。 いつもより、ほんのちょっと違うことをしてみるのも悪くない) 「いやあ、今日は良い日だ。明日は晴れに違いないね」 だから、普段通らぬ道を通っていた。白衣のポケットに手を突っ込んで、上 機嫌に歩いて行く。そして――彼女がいた。 「おや」 相手の風体を見て、その身分に当たりをつける。ふむ、と心のなかでは思案 しながらも。 「こんな夜更けに夜歩きとは。いくらなんでも最近は物騒じゃないかな?」 などと、口火を切った。そう、今日は少し違うことをしてみたかっただけ。    チタは、まったく動かずに、耳と鼻で周囲を探った。  狭い路地に、男の声が反響するのを聞いて。声の主と、さっきの浮浪者の 放つ生物の臭い以外が周囲に無いのを知覚した。  (間違いなく、私に話しかけてる)  そもそも、思いっきりこっちを見ながら言ってるのだから。自明であるが。 勘違いで合ってくれた方が嬉しかったので、人間以上の知覚を動員して確か めたのだ。 「……」    その上で、あえて無視して、細身で白衣の男の横を通りすぎようとした。 (知らない相手に、気軽に話しかける人間には裏がある)  それが、チタの経験から学習している生存術である。   「……おや。無視されてしまった。つれないなあ。いや、別にいいんだけど、 ただ気になっただけだから」 大きくため息をついて、しかし余裕そうな表情は変わらなかった。ただひた すらに喋りたてるのは彼の性か。 「随分と警戒しているみたいだけれども、別段このシチュエーションで話しか けるのはそんなにおかしいことじゃないんじゃないかな?」    夜の危ない路地に、うら若い女の子が一人ぶらついているのだから。 親切心から声をかけたとして、おかしくないし、下心があってもまったくお かしくないのである。  しかし、並の女の子でも、並の人間でもないチタにとって、そんな親切も 下心も不要ではあるが。  なぜだろうか、ただのちょっかいならば、すぐに無視して立ち去るだけな のに。白衣の男の言葉が、妙にチタの頭の中にひっかかる。  男は、チタを呼び止めようとしている。  その意思が、まるで見えない手となって、腕を掴むようにチタの体を重く する。  イラッとした。  というか、チタはいつだって不機嫌なのである。  自分の行動を、邪魔する意図が相手にあったのかどうか。そんなのは知ら ないが。  (邪魔をされた)    そう思った瞬間に、彼女は、足を止めて振り向いた。   極力争い事は避ける。それが男の信条だ。 しかし、今日という日は気分が高揚していたといっても過言ではなかった。 いつも通り、用心深さはそのままに。ただ、喋る。ただ喋るというだけで彼の 異能は力を溜める故に どうやら聞こえないというわけじゃなかったらしい。機嫌でも損ねていたの かな?  なに、会話のきっかけが欲しかっただけさ。ここは狭いだろう?  通り過ぎるにも声をかけたほうが事故は少ない」   半分冗談で半分は本当だ。確かに路地裏は狭いし、会話のきっかけがほしかっ たのは間違いない。 ただ、その二つの言葉が、互いに関わりあっては居なかっただけ   「何か、用ですか」  チタがこの島に来てから、彼女に、声を掛けてきたのは、物売りかあるいは 邪な考えを持つ人間だけである。  白衣のポケットに手を突っ込んだままの男を、この間合と彼我の体制から どう襲撃して、無力化させるか。  それを、考えながらチタは言った。。   「大きな用があったわけじゃないさ。別にね」 伊達に今までこの学園都市を生きてきたわけではない。 戦いを避けてきた彼は、相手が自分の両の手に一瞬意識が向けたことは理解 しているようであり 「この辺りは物騒だし、声ぐらいはかけておいたほうがいいかと思っただけ だよ。言っただろう?  会話のきっかけがほしかっただけだってさ」   自然な仕草で両手をポケットから出す。肩をすくめようにして、柔和な笑み を浮かべた    笑みに対して、会釈を返すという程の愛想を、チタは持ちあわせていない。 「わかりました。 話しを聞きます、どうぞ」。 「なるほど。いや、ただ興味が湧いた、というのが率直な感想でね。 君はあれだろう、真っ当な学生ではないよね?」 そこまでいうと、おっと! と大仰に後ろにのけぞると だからといって仕掛けないでくれよ。僕は争い事が苦手でさ。単に話死相手 が欲しいだけなんだ。ここじゃ、君みたいな手合は珍しくはないしね。僕の 住まいだって落第街、スラムも同然の場所さ」 ただ言葉をまくしたてる。よく回る舌だ。それは彼にとって意識的なもので もあるが、ある種の癖のようなものでもある。会話が好きだという言葉に 嘘偽りはない。今回だってただの気まぐれだ 「君がそんなところでホームレスの寝床を覗いてるものだから、何をしてい るのか気になっただけなんだよ」   「寝床を探していました」    よく喋る男に対して、チタは端的に答える。  簡潔に、短く。それが、彼女に染み付いた会話の癖である。  しかし、普段の彼女からすれば、この返答も喋り過ぎである。何故、今声を かけられただけの見知らぬ男に、自分が何をしているのか報告せねばならぬ のか?  そんな疑問は、チタの中に無い。。   「なるほど。寝床を探して。女子寮にも登録できていないのかな」 相手の言葉を受け止めると、指を立てて。 「もしかして、学生証も持っていないのかな」 学生証。それさえあればここで暮らすには最低限、困ることはあるまい。 なにせ、多くの違法学生には"親"がいる。奴隷のような扱いを耐えれば、 屋根の下で眠ることぐらいはできるだろう 「それとも、逃げてきたのかな」  逃げてきたのか。男の言葉に、チタはギリッ、と歯を噛んだ。  そして、答えた。 「所持していません。……はい、私は逃げたのです」    何故、こんな事まで答えてしまっているのだろうか。チタの中で、記憶と 後悔が、ごちゃまぜになって渦を巻く。  チタは、いつだって不機嫌なのだ。  その苛立ちがさらに、身の内を焦がすように高まっていく。。   「なるほどね。それじゃあ風紀にも頼れないわけだ」 事情は概ね理解してきた。なおも彼の舌は回る。不穏当な、望まぬ事態が起 きても対処出来る程度には"温まってきた" 「ここじゃ学生証がなければ始まらないな。そのカッコじゃあお金も持って ないだろうしね。あ。安心して欲しいのは、別に僕は君を売ったりしないっ てことかな。ははは、なんの得もないしね」 笑いつつ、思いついたように紙袋を取り出した。こういったことは信条では ないのだが、まあ捨てたりするよりは幾分かマシだ 「お腹、減っているだろう? それは既に冷めてしまったけど、この学園で 一番おいしかった食べ物だ。焼きたてでないのがショック死してしまいそう だけど」 紙袋に入っているのはせんべいであった。 それを、彼女に向かって放り投げた。    放られた紙袋を、チタは受け止めはせず。ザッ、と一歩引いて身構えた。  しかし、中身はせんべいなのだから、爆発するはずもなく、危険な臭いなど もしないのだから。  彼女は、袋を拾い上げた。  そして、中身を取り出して、臭いを嗅いで一口かじり。 「目的が、わかりません。  何がしたいのですか」    紙袋を抱えて、そう言った。   「さて。さっきも言ったとおり僕は会話が好きなだけ。君を見かけて話しか けただけ。それだけさ」 ひらり、と手を振って。男は笑みを崩さぬままに背を向ける。 今日はよく喋った。幸いにしてせんべいの引き取りても見つかったことだし、 実に楽しいことばかりであった 「まあ、強いていうなら打算かな。君の懐が潤った頃、ぼくのせんべいの美 味しさに心打たれて常連になってくれたら僕が幸せだ」 言いながら、ゆっくりとそちらへ向かっていく。 だが、それはあくまでも彼女とすれ違い、向こうの道へと出るための。 「落第街三番区、壊れた雀荘の看板が三階についている五階建てのビル。 あそこの一階は今テナント募集中。裏から入れば風雨ぐらいはしのげるよ。 信じるか信じないかは君の好きにするといい」   「私の質問への解答は、不明瞭です」    そう、チタは言った。  男の背中は、すでに路地の出口、明るいネオン看板と街頭の近くにある。 「損にならないのなら、得にならないことをしたっていいと思わないかい?」 そんな話が通じる相手だとは思ってはいない。だが、男は心の底からそう 思っている。そうでなければ、手焼きせんべい屋などやってはいない 「まあ、思わないだろうね。なら、」 一拍、間をおいた。顔だけで振り返り、 「目的はこう。未来の投資だ。長期的な得があるのさ。そのために、君へ声 をかけた。なぜ得になるのかは企業秘密。こうして話すのも、その布石さ」 (そういって、ネオンの光に紛れて、白衣がどこかへ消えていく――) チタは、立ち止まったまま、去っていく男の後ろ姿を睨んでいた。