落第街三番区、壊れた雀荘の看板が三階についている五階建てビル。  以前、怪しい白衣の男に、言われた通り。1階は空家で潜り込むのに ちょうど良さそうだった。  裏口を施錠するグルグル巻のチェーンを、チタは素手で引きちぎり、中へ 入る。  一見、細身の少女に見える彼女だが、容易いことであった。  廃屋の臭いがする。  狭い廊下の先は、裏通りに面したガランとした店舗部分である。ゴ ミの一つすら無く、床にはうっすら砂埃のみがある。  正面の戸は鉄格子とシャッターが降ろされて、小さな鉄格子の嵌っ た窓にだけ明かりがあった。  一つだけ、ネオンの明かりに照らされ、壊れたソファーが、片隅に置 かれていた。  皮が破けている以上に、乾いた血がべったり付着しているのが持っ て行かれなかった理由かもしれない。  チタは、ソファーに寝転がる。  電灯の外された穴を見上げながら、しばらく目を開けたままでいた。  着ている迷彩服から、ほんのり洗剤の匂いがして暗闇で、彼女の鋭 敏な嗅覚をくすぐる。  『おねえちゃん、服洗った方がいいよ、臭いよ……』  今日、いつもの通りにスラムを徘徊していたら。洗濯屋の少女に言 われたのだ。  地味にショックであった。  そういえば、チタの臭いを嗅いだ野良犬がくしゃみを連発した事も 思い出した。  洗って貰わざるを得なかった……。だって、ショックだった。  少女の生業は、手洗いによるスラム路上の洗濯屋で。ついでに洗って あげる、と言われて洗濯場で洗われた。  同業のおばさんたちに、半笑いで見られて軽くイラッとしたが。チタ の不機嫌はいつものことである。  しかしまぁ、服が薄汚い迷彩服から、着古した迷彩服になり。久々に 身もさっぱりすると。野良犬やカラスの、餌漁りに交じる気にもなれず に、ちゃんと金を使って久々に人間の餌を食ったりもして。  珍しく人間らしい事をすると、寝床も豪華な所を選びたくなる。  しかし、少女や飯への支払いは、先日チンピラから巻き上げた幾ば くかの札であった。スラムにも安宿はあったが、ココにした。   (この街の人間は、思ったより人同士の距離が近い)    ぼんやりと、そんな事を思う。  もっと、互いに警戒しあって殺伐としていると、来る前は想像した。  しかし、洗濯屋の少女も、スラムの住人も、この寝床をチタに教えた男も、 あるいは、夜中に路地裏を散歩していた妙な女も。無関心とは縁遠いようで。   (物騒な事件の発生率は、今まで見たスラムの比じゃないけど)    人目を避け、人混みにまぎれようとしていたチタにとって、少々予想外で もあるのだが。  逃げ隠れるだけなら、人里離れた山にでも棲めばよかったのだ。しかし、 彼女は、常に人の中へ潜伏しようとして。  チタは、目を閉じた。  いつもの不機嫌が、ぶり返して、思考を止めた。    真夜中を過ぎた頃、チタは気配を察して目を覚ました。  少なくない人数が、建物の回りを囲んで居る。その時点で、チタは、裏口 から音も無く入ってきたのが男3人で、銃を携帯していることまで知覚して いる。  通り側、ガラス戸横のドアが、弾かれるように開いて、足音が雪崩れ込む。 暗視装置をつけた侵入者は、空のテナントビルとソファーを見て、困惑した。 「あれ、居なくね?どこイッどぅぁああ!?」  一人、蹴り飛ばされて壁に叩きつけられた。 「動くな!撃つぞ!」 「やめてバカ!俺の方跳んできた!」  暗い室内に、銃声と重たい打撲音と男共の悲鳴が連鎖して。 「居た!俺の前!おら!手をあげろ頭ふっとばされてぇのか!」  襲撃犯の一人の暗視装置画面にチタの後ろ姿が映る。  獣のような目が、灰色と緑の画面に一瞬映って、視界は暗闇に閉ざされた。   顎をチタの掌底に突き上げられて、男の頭から暗視装置が落ちる。  銃声と、悲鳴が同時に上がった。   「ああっ足!ッアッくっそてめぇ!!」    銃を奪ったチタに、最後に立っていた男は足を撃たれて悶た。  暗闇に、うめき声だけが残る。  その一瞬の静寂を引き裂き、エンジン音が唸をあげ。  シャッターごと、ガラス戸をぶち破り、車が突っ込んできた。床に転がっ ていた男が、慌てて立ち上がり逃げ出そうとして。ドリフトした車にケツを 蹴られて壁に叩きつけられた。  チタを、隅に追い詰めるように迫るヘッドライト。踏み台にしてそのまま、 屋外まで転がりこんでしまえばいい。   (足が重い!?)    チタを、違和感が襲った。ピューマのような敏捷を誇った足が、縛り上げ られたように動かないのだ。  彼女は、拳を構えた。車は直前で急停止して威嚇するような唸りをあげる、 生暖かい排気が、チタの太ももに吐きかけられた。   「壊さないでくれよ、高いんだ」    助手席から、明らかに回りの男とは雰囲気の違う、細身の男が降りる。  自分でシャッターぶち破らせておいてよく言う奴である。  バラバラと、新たな手勢が駆け込んで来て、チタを取り囲んだ。   「とりあえず、ここは長話をする場所じゃない。一緒に来てもらおう。  ああ、そんな気は微塵も無いって顔だ。  でもな、俺の能力が効いたってことは、君と俺は無関係じゃあないんだ」    男が、ボンネットをノックすると、運転席から短髪を逆立てたアゴヒゲが 降りてきた。   (!)    見覚えがある。先日、チタが、ボコしたチンピラだ。捻り折ってやった手 首にはギプスを嵌めている。  もういちど、男がノックをした。  とり囲んだ男共が一斉にチタに手を伸ばす。   「がぁッ!」    チタは獣のように唸り、払いのけようとしたが、手の動きも鈍い。  首に、何か重たい輪をはめられた。首輪は、アゴヒゲの首にもはめられて。  「えっ?ボスぅ?」    炸裂音が響いて、アゴヒゲの頭の中にあった血が、天井へ飛び散った。   「君と俺の、分かりやすいシガラミだ。行こうか」    頬についた血を指で拭い取って、男は言った。