灰色の雲に蓋をされた街並みが目の前に広がっていた。見た目は、他の街 と対して変わらない。  世界中の街を転々として、世界のどこにも居場所が無いチタが、巡って来た 他の街と同じだ。ただ、他の街よりも少し無秩序で、流れ者が隠れ住むのに 良さそうだったから、ここへやって来ただけ。  風が吹いて、チタの青みがかった長いポニーテイルが揺れる。風に弄ばれた 髪が、首輪を撫でて微かな音を立てた。  首輪に、手をやる。  魔術で動作する物らしい、機械式より信頼できるものだとか。つけた者の首 を吹き飛ばす道具なのだから。誤作動しない事だけはいい事だ。  いい事はそれだけである。    着古した迷彩服のポケットで、デフォルト設定のままの着信が鳴った。   『俺だ、すぐにオフィスに来い』   「……了解」    端的に答えると、チタは通話を一方的に終了する。  首輪を、彼女に嵌めた聞きたくもない声の相手。  誰とも関わりたくないと思っていたのに、何にも巻き込まれたくないと隠 れ続けてきた筈なのに。何を間違えたのか、考えうる最悪な人間に捕まって しまった。  彼女を、道具として、兵器として見る人間。  人の中に紛れていようとしたのが、そもそも間違いだったのかもしれない。  獣のように、隠れ棲んでいればよかったのだ。  チタは、首輪に指を掛ける。引きちぎる事は容易い。後の保証はない。  生きている事自体が、間違いだったとしたら?  不機嫌に塗りつぶされた頭の中を、そんな考えがよぎる。指に力が篭もって 金属の首輪が音を上げ始め……。   「……ッ」    指を離して、代わりに強くギリッ、と歯噛みした。  生きる事を、止めにする権利なんて。チタには、無かった。  ビルの屋上の縁に立ち。そのまま落下する。大きな音を立ててアスファル トを歪ませて着地した。  灰色の蓋をする空が、ビルの渓谷の上にある。その下を、ただ歩いた。   「うちは絶賛売り出し中の組織でな。大小色々と商売敵が多い」  ショールームのように何台も高級車が並べられたビルのフロアで、ラルフは 言った。  チタと、ラルフの間に、辛うじて息をしている男が、椅子に縛り上げられて 置かれていた。  チタが、ここへ来る前に周りの手下共に、色々聞かれたのだろう。   「ちょいと、始末してきて欲しい」    相変わらず、街のチンピラのようなラルフは、大物ぶった口ぶりでニヤつ いている。   「報酬も出す、お前を縛っている俺のシガラミの力は、取引の上に成り立つ ものだ。信用していいぞ」   「……首輪」   嵌められた首輪を指で小突ながら、チタはそれだけ言った。   「ああ、それも外してやるさ。十分に働いてくれたらな」    車のキーのような物を、見せびらかすようにラルフは弄ぶ。チタの目が一瞬 鋭くなって。   「安心しろ、間違って押したりしない。鍵は大事にしまっておいてやる。  ただし、俺以外が解除できるとは思うなよ?可愛い頭が無くなる」    ラルフは、鍵を、アンティークな棚に据えられた金庫に放りこんだ。それを 見ると、チタはすぐに戸口へ向かって歩き出し。   「おい、まだ説明終わってないぞ」   「必要ない、標的だけ指定して」   「ハッ!いいねぇ、そういうの……。まさに、都市伝説の無敵の兵隊らしい」   「私は、もう兵士じゃない」    獣の目で睨むチタを、ラルフはニヤついたまま見送った。    夜半、車に分乗したチタと、ラルフの手下共は、歓楽街の中心部から離れた 裏寂れた場所にあるビルの側で降りた。  雲に隠れて月の明かりは一筋も無く。ビルの窓にも明かりはない。シャッ ターの降りたビルの前の広場に、街頭が一つだけ点いている。   「お前達は裏口を抑えろ、2人ここに残って援護だ。それから……オイッどこ に行く気だ」    指示を出していた、大柄な黒人の男が、一人でビルの方へ歩くチタの肩を つかむ。   「私一人で十分」   「フザケルな、このガキが。異能者ってのはみんな自信過剰だな……ッ」    肩を掴んだ手を、チタに掴み返されて男は思わず身をすくめる。とても、 細身の少女が出せるような握力では無かった。   「援護も要らない、背中から撃たれるのは嫌」    不機嫌そうに言ったチタの目は、闇の中で獣の目のように光っていた。    チタは、いつだって不機嫌だ。  苛立ちが頭の中で渦を巻いて、どうしようもない焦燥感に駆られ続けてい るのだから。その心は、満杯の火薬が詰まっているのと同じで。  どんなに小さな火花でも、散ってしまえば……。    トラックの出入りできそうな、ビルのシャッターに手を掛けて、チタは思 い切り上へ引き上げた。  シャッターは、暖簾でもかき分けるように、ひしゃげて宙を舞う。  鉄さびと薬品の臭いが充満する倉庫の中に居た奴らが、一斉にチタを見て。  相手の動き出す前に、チタは、一番近くに居た奴を殴った。    2m近くはあった体が、車に跳ね飛ばされたごとく舞って、落ちた。  銃声が、耳を劈く程に鳴り響く。  チタに狙いをつけていた者達が、銃口の向いた先に誰も居ないのに気づい た時には、2人が、胸ぐらを掴まれて、ぶん投げられた。  投げられた男も、投げつけられた方も床に転がって、ただ、呻く。    その時点で、やっと相手の反応が追いついたようで。1人の男を除いて、 発砲しながら物陰へ飛び込む。  隠れなかった男へ、チタが飛びかかった時。机を飛び越えようとした チタは、そのまま机に叩きつけられた。   「ぐっ……っ」   「なんだ、ガキじゃねぇか……軽く押しつぶしてやんよ」    異能者だ。  重みに耐えかねて、机の方が潰れた。体が地面に吸いこまれる重圧。 体の軋む音がする程に、重たい。凄まじく、体が重い……。  が、それだけだ。  チタは、足に力を込めて立ち上がった。   「おっ……おお!?」    異能者の男が、かざしていた片手を両手に変える。それでも、動きを封じ られない。背後から、仲間がショットガンを撃った瞬間、チタは弾かれる ように、コンテナの影へ飛び込んだ。    チタの体から、重圧が消え。散弾で穴の開いた迷彩服に手をやると、腹 からボロボロと弾が落ちる。  金属質に硬化していた、表皮が元の肌色へもどっていく。   (相手が見えてないと使えない奴かもしれない)    近づいてくる足音を聞きながら、チタは手榴弾のようなものを取り出した。  ピンを抜き、間近に迫った足音の方へ目を瞑って転がした。瞬間、凄まじい 光が周囲を包み込み、その場の全員の視界を奪った。    閃光は、一瞬にとどまらず光を放ち続け。溶接の火花を、間近に覗きこん でしまったような眩しさに思わず上がる悲鳴を、声を、吐息、足音、そして、 それらが混ざり合ってぶつかり合う反響もすべて。チタは、聞き取る。  目を閉じたまま、立って飛び出す。  視覚を奪われ、手を振り回す男を、身を傾けて簡単に回避。  チタの聴覚は、反射音をソナーのごとく捉え、音を視ることのできるコウモリ の知覚と同等に変化していたのだ。音波によって描き出される映像を見る事 ができるのは、この場に彼女だけで。  あとは、右往左往するだけの獲物を、無力化させるだけだった。  そして、光が収まった時には、すでに終わっていた。    呻いて、芋虫のようにもがく人間の側から、チタは、銃を蹴って引き離し ていく。ついでに、異能者の奴は念入りに気絶させておいた。  すべて片付いてから、やっと表の、ラルフの手下共がドカドカと踏み込んで 来て。   「私の仕事は、これで終わりでいいね」    呆気に取られて、だだっ広い倉庫の中を見回す、黒人の男にチタはそう言 った。  そのまま、背を向けて倉庫を去ろうととした時。  乾いた銃声が、鳴った。  振り返ったチタの前、手下共は、無抵抗な相手に止めを刺す。  薄暗い洞穴のような倉庫の中で、軽い音が何度か反響して、離れた繁華 街の気配が、真闇に感じられるほどに、あたりはまた静まる。   「ボスは始末して来いと命令した」    睨むチタに、男は言った。  チタは、何も言わず、背を向ける。  獣のように牙を剥いたまま、一つだけ灯った街頭の向こうの闇へ、消えた。