2015/08/29 - 22:28~03:59 のログ
ご案内:「半円形映画館『フラヴィウス』」に梧桐律さんが現れました。<補足:古色蒼然たるヴァイオリンを持つ赤髪の少年。その瞳は焔のように蒼く燃えて。>
梧桐律 > その昔、北米都市部のあちこちに「ドライブインシアター」という施設があった。
「ドライブイン」の「シアター」とは何か。
自家用車で乗り付けてフロントガラス越しに巨大スクリーンで映画を見るのだ。
似たような施設が本土の方にもあったが、流行り廃りで多くのものが消えている。
『フラヴィウス』は駐車場のかわりに円形劇場のような座席が置かれた開放型の映画館だ。
上映される映画はちょっと前の作品だったり、古典といわれるような名作だったりする。
財団の出資もあり、格安でカジュアルに映画が楽しめるとあって、客の入りはなかなかだ。
もっとも、観客の大半は映画史の輝かしい遺産より隣のパートナーが気になる様だが。
待ち合わせの場所で亜麻色の髪の乙女の姿を探す。
あの夜から何度かやりとりをして、映画を見ようと誘ったのはつい数日前のことだ。
チケット売り場のガラス窓に映る、赤い髪の少年。
この姿で会うのは初めてだった。
ご案内:「半円形映画館『フラヴィウス』」に三枝あかりさんが現れました。<補足:女子学生服。>
三枝あかり > いつもの格好、というか女子学生服以外の洒落た服装なんてあまり持ち合わせも自信もないのだけれど。
とにかく学生服で映画を見に来た私。
「あ、先輩。今日はお誘いありがとうございます」
チケット売り場にやってきて軽く手を上げた。
本当に男性の姿だ。
「先輩、その姿の人には眠らされて拉致された記憶しかないので身構えるんですが…」
「今日は楽しい記憶で上書きしてくださいね」
にっこり笑ってみせた。
なんか引っかかるところもあるけど、なんだろう。
梧桐律 > 「出会いは最悪。上等じゃないか」
いつもどおりの制服姿だ。冒険はしない主義らしい。
軽口を叩いて笑い、すこしだけ表情を引き締める。
「大丈夫。後にも先にも本物は一人だけだ」
「あいつの親父さんと話をつけてきた。その結果がこれだ」
自分の身体が一番馴染む。しっくり来るに決まってる。
新しい服でも披露するみたいに腕を広げて見せた。
「飲み物は何がいい? ポップコーンは大きめのがひとつあればいいよな」
「フレーバーはキャラメルとストロベリー…甘いやつだな」
上映直前とあって、そこかしこでざわざわと話し込んでる声がする。
暗室みたいに締め切られた映画館とは大きく違う点のひとつだ。
余所のお楽しみさえ邪魔しなければ、楽しみかたは人それぞれでいい。
今日の上映作品は『It's a Wonderful Life』。
年の瀬にはおなじみの、オールタイムベストの傑作だ。
三枝あかり > 「……奇神先輩の頃からしたら出会いは順当というか、良い印象なんですけどね…」
相手は赤髪の少年。
ちゃんと見るのは初めてかも知れないけれど、整った顔立ちをしていた。
「それじゃこれからは梧桐先輩と呼んだほうがいいですか?」
小首を傾げる。
「なんだか不思議な気分ですね……ずっと知り合いだったのに、初対面みたいな…?」
「あ、飲み物はコーラで、ポップコーンはキャラメルにしましょう。定番ですからね」
定番は大事だ。これでポップコーンが塩味だったらお約束とも言えるコンボ。
今まであまり、映画館などにも行ったことがなかったので定番などを大事にしたい。
横目で彼の顔を見る。やっぱりまだ慣れない。
「古い映画なんですね、楽しみです」
見たことのない映画だった。定番は大事にしているけど、古典の知識はない。
梧桐律 > 「お前もある日突然男になったりしてな。リスになるならまだわかるんだが…」
「そうだな。じゃ、改めて―――はじめまして。梧桐律だ。ヴァイオリンをやってる」
明るく名乗りなおして、自分の飲みものも一緒に買いにいく。
「呼び方は任せるよ。好きに呼んでくれ」
入り口をくぐってすぐに視界が開ける。
眼下に広がるのは古代ローマの円形闘技場を半分に切ったような開放空間だ。
大きな公園のように中心に向かって降りていく段差が続いている。
フレーバーの甘い香りを振りまき、空いた方の手で子リスの手を引いていく。
数段下りただけで上段の端に近い場所に陣取った。
この辺りは客もまばらだ。話をするにも都合がいい。
「あっちにいた頃…前に話したか? 一時期、東海岸の方にいたんだが」
「クリスマスの夜には決まってこれが放送されてた。だからセリフも覚えてる」
予告編が終わり、クリスマスカード風のクレジットが流れはじめる。
テーマ曲にはヴァイオリンの音色が入ってる。ポップコーンをすすめて、膝の上に抱えさせた。
物語はしんしんと雪振る街並みのシーンから始まる。
ジョージという男の危機をささやきあう声が聞こえる。
そして天上に瞬く銀河が彼のさだめをめぐって話しあう。悩める男。哀れなジョージに愛の手を。
誰か助けを送り込もうか。二級天使のクラレンスはどうだ。それはいい―――。
三枝あかり > 「……男になったらお兄ちゃんそっくりになるんでしょうか?」
「これはどうもご丁寧に。三枝あかりです、あなたの後輩の」
二人で入場、中は未知の世界。
こんな場所があるなんて、不思議。
手を引かれながら思う。
男の人にエスコートされるなんて、初めてだって。
ちょっと前まで相手は女性だったのにね。
「じゃあ、外国じゃ聖夜の定番だったんですね」
そこまで話して、引っかかるところに思い至った。
あ、この男の人、私の裸の記憶持ってる。
なんか死にたくなった。相手の言葉の後半が思い出せない。
でもその時には先輩は女性だったのだから責めるのは筋違い。
それに今更蒸し返して恥ずかしい思いをするのは私のほう。
猛烈に死にたい。
頭を軽く振って妄想を振り払い、映画を見る。
膝の上のポップコーンを食べる。甘い。美味しい。
人類の歴史とはポップコーンの進化の歴史なのかも知れないと思った。
天使と人間の物語。シティ・オブ・エンジェルを思い出したけど、あれより古い映画。
ジョージの今までの人生は決して良い人生ではなかった?
いや、それを決めるのはきっと私じゃない。
ストーリーを見ていればわかることなのだろうか。
梧桐律 > 二級天使クラレンスの派遣が決まった。
駄天使は駄天使なりに、ジョージのことを知っておく必要がある。
クラレンスの視点からジョージの半生をたどり、物語は進んでいく。
ジョージ・ベイリーは銀行家だ。
ベッドフォード・フォールズの街の住宅貸付組合を切り盛りしている。
回想は少年時代のささやかな事件から始まる。ジョージは川で溺れる弟を救った。
そして幼馴染のメアリーがいる青春時代。高潔なる父の死と、運命の変転。
街の人々のために進学を諦めながらも、彼は家業の銀行を継いでメアリーとの生活を始める。
凶報はハネムーンに発とうとした矢先に訪れた。
大恐慌のあおりを受けて銀行は封鎖。取り付け騒ぎが起きたのだ。
これは乗っ取りを企む悪党ポッターの仕掛けた罠だったことが仄めかされる。
ジョージとメアリーは大切な旅行資金を取り崩して、騒ぎの収拾に成功するのだった。
銀行業は前途多難だ。
ポップコーンをつまむついでに隣を見ると、子リスの様子が変だった。
「あかり、何だ。どうした? 大丈夫か? 顔色が……赤いな」
「男に免疫ができてないタイプか。お前なら案外平気そうかと思ってたんだが」
手を引いたのを気にしてるんだろうか。できれば慣れてもらいたいところだ。
三枝あかり > 「いえ……もっと深刻な問題がありまして…」
「え、映画に集中しましょう……」
相手は神秘も見飽きていると言った。
きっと気にしてはいない。気にしてはいけない。
ジョージ・ベイリーは善人だった。
善人だけど、運に恵まれているほうではない。
人生が素晴らしいものでないなら。
どうすればいいのだろう?
ただ頭を垂れて生きるには、人生は長すぎる。
彼はメアリーを支え、メアリーに支えられて生きていく。
その人生の中でも荒波となって難事は襲い掛かる。
はらはらしながら登場人物の動向を見守った。
梧桐律 > 降りしきる雨の中、騒ぎを鎮めたジョージはメアリーの待つ新居に帰る。
その物件はどう見てもボロ屋敷だったが、二人が子供だった頃に憧れた家だった。
ボロ屋敷に新婚の二人を迎える支度を手伝う警官バートと運転手のニール。
ここで二人の歌が入る。
帰り着いたジョージは大ごちそうと立派な蓄音機、そして幼馴染の若奥様に出迎えられる。
仕事は大変かもしれないが、ジョージは幸せな家庭を手にしていたのだ。
「その、何だ。気分が悪くなったら言ってくれ」
「ジョージとメアリー。どこぞのロイヤルファミリーみたいだな」
悪党ポッターは街の全てを手中に収めようとジョージの懐柔を図る。
だが、ジョージはカネのために働いてるわけじゃない。彼はその話を断ってしまう。
ジョージは街の人々のため、住宅貸付組合ベイリー・パークの経営に身を粉にして働いた。
子供は四人も生まれた。世界を焼き尽くした戦争の混迷さえも乗り切った。
そしてある年のクリスマスイヴ。
金融検査官の査察中に途方もない大金が紛失する大事件が起こる。
その金がなければ銀行は破産を免れない。ジョージは獄中の人となり、家族は路頭に迷うことになる。
苦悩に荒れて家族に当たってしまうジョージ。だが末娘の一言で自分を取りもどす。
ジョージは最後の手段と信じてポッターに借金を申し込む。大金をこの悪党が盗んだとも知らずに。
ポッターはジョージの苦境を嘲笑うばかり。生命保険を当てにして死ねとまで仄めかす。
それどころか、横領の疑いで通報しようとした。もうそんな場所にはいられない。
逃げ出して、川にかかった橋の上。
飛び込もうとした矢先、ジョージは溺れる男を見つける。彼は先客を助けるために飛び込んだ。
この男こそ二級天使のクラレンス。天使は男の絶望を聞く。
ジョージは呟く。死んだ方がマシかもしれない、と。
三枝あかり > ジョージとメアリーの物語。
悪党ポッターの物語。
二級天使クラレンスの、物語。
「いえ、大丈夫です、ポップコーン美味しいですし」
「ふふ、そうですねぇ……」
クリスマスイヴに起こる大事件。
背後には悪党の影、悔しい。
悪党が笑う世界。この映画は表題のような結末を迎えられるのだろうか。
……バッドエンドにこんなタイトルをつけないとは思うけれど。
ジョージより先に川に飛び込んだクラレンス。
ここから話はどう動くのだろう。
この展開で本当にハッピーエンドなんてあるのかな。
梧桐律 > ならばと天使は思いつく。ジョージはもうひとつの世界を垣間見ることになった。
―――もしも自分がいなかったら?
迷い込んだ世界はベッドフォード・フォールズ…ではなくポッターズヴィル。
友達の酒場は別人がやってることになっている。
知り合いもいるにはいるが、同じなのは見かけだけ。中身はまるっきり別人だ。
何よりも大切な我が家はポッターズヴィルの歓楽街に変わっていた。
ベイリー家の住宅貸付組合はとっくの昔に潰れてしまったという。
ジョージとメアリーを祝福した親切な警官バートも自分のことを知らない様子。
ベイリーパークは墓場になっていた。そこでジョージは弟ハリーの墓を見つける。
誰も助けず、幼い弟の命は永遠に失われてしまっていたのだ。
最後にジョージはオールドミスとして孤独に暮らすメアリーを見つける。
四人の子供たちはそもそも存在すらしなかったのだ。
メアリーを追ってたどり着いた橋の上。ついにジョージは理解する。
絶望の果てに捨てようとしていたものを。
そして、自分は何のために生きてきたのか―――。
自分の無力を責めることは簡単だ。挫折は手を伸ばせば届いてしまう場所にある。
ジョージには失ってはじめて気づくものがあった。おそらくは、この俺や子リスにだって。
彼女は何を思うだろうか。受け止め方は人それぞれだ。
三枝あかり > 自分が存在しない世界。
それは残酷な現実が広がっていた。
死ぬより惨い自分が存在しなかったらのIF。
悪党が幅をきかせて、愛する人は孤独。
そんなもしもを、認めてはいけない。
天使が教えてくれるのは、当たり前のこと。
この映画を見れてよかった。
まだ終わっていないのに、そう思った。
ずっと自分なんかいなければいいと思っていた。
生まれなかったことになりたいと願っていた。
だけど、違う。
自分も世界なんだ。この手が、この足が、この髪が、この爪が。
世界なんだ。
涙が滲んだ。でも我慢する。
この映画が終わるまで泣く気はない。
ふと、隣の先輩の顔を見た。
不思議と、違和感は薄れていた。
梧桐律 > ジョージは自殺を決意した場所と同じ、橋の欄干につかまって絶叫する。
帰してくれ! 帰してくれ、私はどうなったっていい!
Get me back! Get me back, I don't care what happens to me!
家族のもとに帰してくれ! 助けてくれクラレンス、お願いだ! お願いだ!!
Get me back to my wife and kids! Help me Clarence, please! Please!
もう一度生きたい。生き直したいんだ。ああ神よ、どうか私に生きるチャンスを。
I wanna live again. I wanna live again. Please, God, let me live again.
―――そして、世界の理が開かれる。
すべてがあるべき姿へ戻る。
天使の幻影は去り、ポケットには末娘に託された薔薇の花びらが入っていた。
娘の名を叫んで、ジョージは走り出す。愛する家族が待つボロ屋敷へと。
「メリー・クリスマス!」と狂ったように叫びつづけて雪降る街を駆け抜ける男。
この一幕こそが、オールタイムベストに揚げられる所以。
文句のつけようがない名場面だ。何度見てもいい。歓喜の叫びに心が震える。
ボロ屋敷にはメアリーと子供たち、弟のハリーとパーティに集まった友人知人たちが待っていた。
クリスマスイヴの夜だった。メアリーはジョージに素晴らしい出来事があったと告げる。
クリスマスツリーの前で、叔父が大金のつまったバスケットを積み上げていく。
その金は街の人々がジョージのために集めた贈り物だった。
ご都合主義だって? いいじゃないか。これはそういう物語なんだから。
娘の伴奏で賛美歌98番『天にはさかえ』と『オールド・ラング・サイン』を歌う人々。
ジョージはプレゼントの中にクラレンスが持っていた本をみつける。
ツリーのベルが一斉に揺れて、末娘が言う。―――天使が羽根を貰ったの、と。
「良かっただろ?」
短く問いかけて、ヴァイオリンケースを開く。
たっぷりと余韻に浸っていたい気分だが、ここでだらけたら台無しだ。
「原曲を書いたのはロシア生まれの音楽家ディミトリ・ティオムキン」
「映画音楽の大家として、ハリウッドでも指折りの仕事を遺した偉大な男だ」
「編曲は俺…ってのも小っ恥ずかしいんだけどな」
「―――『It's a Wonderful Life』」
軽快なエンドロールのあとに待つもの。
スピーカーから流れだす歌にあわせて、弓を落とす。
三枝あかり > ハラハラしながら物語の結末までを見守る。
生きること。生き直すということ。生きるチャンスをもらうということ。
どれも言葉は違うけれど、本質は同じ。
天使は去った。
けれど、奇跡は起こる。
生きることは辛いことだけではない。
喜びに満ちた側面だってある。
ジョージが街中を走るその瞬間を目に焼き付けた。
祈りを捧げる。どうか、彼が無事に愛する家族の待つ我が家に辿り着けますように。
そして迎えるハッピーエンド。
それは掛け値なしに良い話だった。
「……とっても良い話でした、先輩」
「今日はありがとうございます」
コーラを一口。興奮したから喉がからからだ。
そしてヴァイオリンを持ち出す彼に驚く。まさかここで?
でもいい。きっと最高の余韻が訪れるはずだから。
梧桐律 > ディミトリ・ティオムキンはサンクトペテルブルクの音楽院出身だ。
元々は東欧やスラヴ色のある音楽的ルーツを持つが、彼の才能はアメリカ映画で大きく花開いた。
ティオムキンはクラシック音楽の豊かな素養から多くの名作に刺激的な音楽を提供した。
フレッド・ジンネマン監督の西部劇『真昼の決闘』ではアカデミー作曲賞・歌曲賞を受けている。
代表的な仕事といえば、『It's a Wonderful Life』もそのひとつだ。
原曲からしてヴァイオリンが入ってる。譜面に落として違和感がないことに驚かされた。
映画音楽らしい圧倒的な声量とこちらの音が響きあう。
立ち去りかけていた観客たちが目を丸くして足を止めていた。
モノクロームの物語に音楽の彩りを添える。円形劇場には音がよく響いた。
余韻とともに弓を放し、片付けにかかった後になってようやくざわめきが戻ってきた。
「この映画、どうも他人事には思えなくてね。ポップコーンは食ったか?」
今にして思えば惜しい事をした。もっとよく見ておくべきだった。
ポップコーンをほお張る彼女はさぞかしリスっぽかっただろうなと思いつつ、口には出さずに。
三枝あかり > やっぱり、先輩の演奏は素晴らしい。
私の心に響くそれは、本物だと思う。
いつまでも聴いていたい。そう感じられた。
スタッフロールと共に流れるヴァイオリンの旋律。
自分の心の中にある綺麗なものを、磨いてそっと元に戻すようなイメージ。
日常を愛する人を讃えるかのように。
「え、はい、ポップコーン残り三分の一です」
「……他人事に思えないというのは?」
コーラの残りを口にする。氷が溶けて少し薄い。
梧桐律 > 「ああ。最後らへんのシーンな、橋の上で叫んでただろ?」
「俺には叫ぶ相手がいなかった。俺がいなくなる前に世界が巻き戻ることもなかった」
「守護天使は自分でみつけるしかなかった」
ジョージ・ベイリーとは違うところだ。
幸い、それはそれで実を結んでいる。そして世界は回っていくのだ。
「天使がいないやつの末路は知ってのとおりだ」
「……見つからなかった場合のことは、なるべく考えないようにした」
ジョージの絶叫がまだ耳に残っている。
それまで「絶望」と呼んでいた境遇すら易々と越えていく本当の恐怖。
その地獄から連れ出してくれる救いの手を―――天使を求めた。
「俺の天使はここにいる。お前のことだ。三枝あかり」
髪の色とよく似た瞳を見つめて。手のひらを上に、右手を向ける。
三枝あかり > 相手の言葉に。表情に。仕草に。胸が高鳴る。
それでも、ちょっとだけ意地悪を言いたくなった。
「ダメです、それじゃダメですよ、先輩」
相手の差し出した右手に左手を添える。
「私、頭が悪いんですから。もっとはっきり言ってくれないとダメです、伝わりません」
薄く微笑んで。
「……なんで私なんですか?」
「私、世界で一番可愛い女の子じゃあないですよ?」
相手の右手をとって、自分の頬に当てる。きっと熱は伝わる。
「異能も便利じゃないですし……」
梧桐律 > 思いがけない反撃に遭って、口の端が吊り上がる。
動揺と呼びたいならそれでも構わない。目を見開く。嬉しい驚きだった。
「シラフじゃ言えない様なセリフを吐いたばかりだぞ」
おっかなびっくり生きてる様で、この子リス、内面はわりとしたたかだ。
いくら中身がいい性格をしていたって、表に出すかどうかは別の話。
子リス? あれは外見の話だ。中身はまるで違ってる。
「はは。楽器を鳴らすしか能のない人間にそれを言うのか?」
「外見はどうでも…よくはないが、理由は前にも話したはずだ。お前は俺を知っている」
「お前にはありのままを見る力がある。理想も偏見も、等しく俺を歪めるだけだ」
「奏者には聴衆がいる。幽霊にも同じく。観測者がいると言ったよな」
驚くほど熱を帯びた頬。その肌は柔らかく。
「……何より、お前は俺を連れ出してくれた。それが全てだ」
「それで、何が足りないって?」
先に折れるのは構わない。というか、こういう時は先に折れるのが正解だ。
とはいえ、ここで言わされるばかりじゃこの先も尻に敷かれそうな気がする。
それは嫌だ。何より面白味がない。答えを知りつつ水を向けた。
三枝あかり > 「いえ、何も足りてなくなんかないですよっ」
人目も気にせずその胸に飛び込んだ。抱きついた。
彼の熱と匂いを感じて、頬を摺り寄せた。
「いつだって連れ出しますよ、あなたを……私の世界に」
嬉しかった。自分が言っていた「でも」とか「だけど」を全部否定してくれる人。
彼と一緒に見る星空を、何より楽しみにできる。
そんな人ができた。
梧桐律 > 衝撃があった。抱きつかれていて、その肩を、背中を支える。
亜麻色の髪に撫でて、ちょうどいい位置にあったデコに口付けをした。
「あかり、お前変わったよな」
俺もこいつが変わるきっかけになれただろうか。
だとすれば、オールタイムベストの主人公並みのお手柄だ。
「……お前が世界一だとか、愛してるとか言わなくていいのか?」
「よかった。その手の言い回しは身体が受け付けなくてな」
歯の浮くようなことを言うつもりはなかった。
天使云々と言ってる時点で大概だが、これは素直にありがたいことだ。
「俺にはお前が必要だ。天使は一人いればいい」
スクリーンの光も消えて、残っているのはあと数組だけだ。
『フラヴィウス』の巨大な半円が静けさに包まれていた。
スタッフに追い出されるまで、今しばらくこのままでいようと思う。
かけがえのないこの瞬間を、少しでも長く味わうために。
ご案内:「半円形映画館『フラヴィウス』」から三枝あかりさんが去りました。<補足:女子学生服。>
ご案内:「半円形映画館『フラヴィウス』」から梧桐律さんが去りました。<補足:古色蒼然たるヴァイオリンを持つ赤髪の少年。その瞳は焔のように蒼く燃えて。>