6月。 ジワリと、ぬめりと。じとりと、じめりとした。 しとしととした空気で、多くの人がどうにも憂鬱になる季節。 そんな季節であるのにひどく楽しげに、学生通りを歩く影があった。 白いパーカーを、頭から着込み、右手には傘を持って。 まるで今から降る、雨を楽しみに散歩に来たかのように、機嫌よさげに街を歩く。 何をするわけでもない。ただ、そういう気分だったのだと、そういいたげな顔で。 鼻歌が漏れ、ハミングかのようにもなったとき。 その二つの瞳は、楽しげに何かを見つけたよう見開く。 一人旅もいいけど。華があってもいい。 それはきっと、どちらも……同じぐらいに楽しいだろう。 「やぁ、“お嬢さん。”暇なら一緒に、散歩でもどーです」 その声が向けられた先にいるものは、気だるげに欠伸をして。 鬱陶しそうに、少年を見遣った――一匹の三毛猫であった。 その三毛猫は、興味がない、気が向かない、そもそもあんたと歩く気はない。 とでも言うかのように、その身体を起こし、背を向け。 あっさりとその場を立ち去った。 「――残念。……一人の散歩もいいものだけどね」 至極ちっとも残念そうじゃない声音で、とても。逆にうれしそうにそう独り言をもらす。 それから、一度。右手の傘を回すと、再び。機嫌よさげに歩き始める。 何処へ行くわけでもなくただ歩き。なにを見ていてるのか。 一つ、二つ。三つと歩を進めるたびに、変わっていく景色。 何を思うのか。その楽しげな顔には、どんな意味があるのか。 その奥を、ただ。表面だけしか感じさせない風に、ただひたすら楽しげに歩いている。 そして。 一つ、二つ。三つと時計の針が進んだころ。 少年の双眸は、またしても。 先程の“お嬢さん”を見つけた。 先程同じように。実に気だるげに地面にその体を横たえ。 楽しそうな少年を鬱陶しそうに見遣る。 「……あや、奇遇だね。どうだい今度こそ―――――――――」 そう言い終る前に。その“お嬢さん”は背を向ける。 相手にする気もなく、出直してきな。 そう、その尻尾は語っているようで。 「…………つれないねぇ」 どこまで行っても。その少年の楽しげな雰囲気は崩れることはない。 一度、立ち止まると。 不意に空を眺めた。 人によっては、どんよりとした、とでも形容するような曇り空。 だが。 「……いい天気だ」 今にも雨を降らしそうなその空は。 まるでその声にこたえるかのように、少年の頬に一粒。 冷たい感触を残す。 少年は、少しだけ驚いたかのような顔をした後。 指先でその感触を確かめるように人撫ですると。もう一度。 「いい天気、だ」 傘を、先程と同じように回すと、まるで大道芸かのように鮮やかに傘を開き。 頭上に掲げた。そうして、それの期待に応える様に。 とつとつ。しとしと。 本格的に降り出した雨が、傘に触れる。一つの曲のようなそれに合わせて。 下手くそな鼻歌を鳴らし始めると。再び、いくあてもなく、歩き始めた。 雨粒が、傘の上で跳ねるたびに、鼻歌が震え。一つのコーラスかのように。 そうして、その気分のまま歩き続けた先に。 ふと、路地へ向かう先へ。曲がったその先に。 またしても“お嬢さん”はいた。 雨から逃げ遅れ、諦めた様に、雨の中を悠々と歩く姿。 少年は、にんまりと笑った。 「――へい。そこな“お嬢さん。”雨宿り、どーです?」 そう言って、傘を一つ揺らした。 こっちへおいで、そういうかのように、少年の傘の下は。 紛れもなく、雨など降っていないからだ。 三毛猫は、再び鬱陶しそうに振り向くと。 まるで何かを思案するように、少年の顔を見つめ。 諦めた様に、嘆息したかのように、一声鳴くと。 それはまるで、少年のしつこさに諦めたのか。 それとも、ただ、雨宿りできる場所が欲しかったのか。 恐らく後者であろうが、少年にとってはどちらでもよかったのだ。 自らの足元に入り込んだ三毛猫へ。 まるでどちらが猫かわからなくなるような、ひどく猫じみた笑みを浮かべて「いらっしゃい」と嘯く。 雨の静けさが、一人と一匹を包み込んで覆い隠す。 雨の色が、街を覆った。 ただ、なにをするわけでもなく。 雨の中、その一人と一匹。 一匹と、一人。 一人と一人、一匹と一匹。 まるで、何もかもがまじりあうかのような甘美な時間。 少年はそれを、赴くまま堪能していた。 時間の感覚がなくなるくらい。 雨は、時間すら覆っていく。 そうして。気づけば、雨の色は、色をなくして。 透明になって、無音になって。 気づけば、それらが消え去って、晴れ間がのぞく空に目を細め。そっと。 傘を閉じた。 「さぁて。逢引の時間は、おわり」 そう楽しげに、その“お嬢さん”へ話しかけると。 傘を一つ払って。もう一度だけ、回すと。 「じゃあ。……またね」 振り返ることもせず、後ろ手で手を振り。 そうやって別れを告げた。 あいもかわらず、その三毛猫は。実に鬱陶しそうな様子だったのは言わずもがな、であるが。 ―――――――――――そんなこともあったな、と。 時計塔の屋上で、傘を差し。痛みが残る右手を気にしながら。 雨の世界に浸っている。 あの時とまるで同じ。 雨の静けさが、覆い隠し。 雨の色が、世界を覆った。 何も変わらない。あの時から、何も変わっていない自分。 唯一、変わったことといえば――自分が浮かべている表情ぐらいであろう。 (――あの猫。……どうしてるかな) まるで一つのランデブーのような、あの日。 そして、自分が今に至る前の日々を思い起こして。 一人ぼっちの甘い日々を思い。 ほう、と吐息を漏らした。 それすら。雨の静けさは、全て覆い隠していったのだけれど。