2016/02/01 のログ
ヨキ > 顔を紅潮させる理沙の様子に、可笑しそうにくつくつと肩を揺らす。
囃し立てる女子学生たちにも、優雅に手を振って応える。

「あっはは!ヨキは本当のことを口にしているに過ぎんよ。
 口説かれたい者はあとでヨキのところまで来るがいいぞ。
 みなの美点を余さず見つけてやるでな」

全く臆する様子もない。言い慣れている。
理沙の後について椅子に座り、冴え冴えと澄んだ冬空を一瞥する。
心地よさそうにひとたび目を細めて開く様子は、犬に似ていた。

「そうだな……思えば、落ち着いて話をしたこともなかった。
 君の普段のことだとか、ヨキはまだ何も知らない。
 持って来いの時間が出来たな」

頬を擦って、画材の支度をする学生たちに目配せして挨拶。

「モデルをやるのは、君も初めてか?
 ヨキもあまり、描かれる方は経験がなくてな」

日下部 理沙 > ヨキの口説き文句に黄色い声を上げながらも、スケッチの準備を始める生徒達。
中には数人、本当に顔を紅潮させたまま目を潤ませている女子もいる。
流石は数多の浮名を流す伊達男にして美形教師、ヨキといったところか。
しかし、男の癖にその艶に中てられた理沙がそれに気付くはずもない。
ただ素直に恩師と語る機会を得られたことを喜び、軽く笑みを浮かべる。
以前は、そう浮かべもしなかった笑みを。

「はい、モデルをやるのは私も今日が初めてで……文化系の部活のパンフレット見ていたら誘われたんです。
私、少しだけ……演劇をやってみたいと思っていたので……」
 
「えー、ずっとうちのモデルやりなよー」などと冗談交じりに女子に言われて、また照れ笑いを漏らす。
 
「飛べない翼でも、あるだけで目立つらしいですから……それを上手く使って、何かできないかなって。
……いや、それで、演劇が良さそうと思うのは、ちょっと自意識過剰なのかもしれませんけど」

ヨキ > 軽重なく、誰しも平等に口説くのがこのヨキという男であるらしい。
その姿勢が、ある者には喜ばれ、ある者には疎んじられるものと知って尚、一貫して崩れることはない。

理沙の表情が、以前よりも自然な柔らかさを得ていることに、満足して笑みを返す。
彼と女子たちのやり取りを、穏やかに眺めていた。

「ほう、演劇を?良いではないか。
 舞台にはさぞ映えるだろうし……それに演劇は体力勝負だ。
 身体は丈夫になるし、声の通りも良くなる。
 絵のモデルと併せて、みなの前に出てゆくことはきっと良い経験になるのではないか」

学生たちに座る位置の指示を仰いで、理沙と並び描きやすい位置に身体を向ける。
理沙に半身を向けた格好で肘をゆったりと突き、「照れるものだ」と密かに笑い掛ける。
言いつつ、普段通りの顔にしか見えないのだったが。

「ヨキは賛成だな、演劇。やってみようと思い立つ分には、何も悪くない。
 例え過剰だとしたって、実際にやってみれば見事に折ってもらえるだろうさ。
 程よく残った自意識で、その後もやってゆけばよい」

日下部 理沙 > どんなポーズをさせても様になるヨキと違って、理沙はどこかおっかなびっくり。
何度も注文をつけられながら、最終的には羽根を広げたまま座る形に収まる。
こうしたほうが実は理沙も翼が背凭れに引っ掛からない分、楽だったりする。
ヨキと軽く向き合いながら、手を膝に置く。
とりあえず、暫くはこのポーズ。
「キツいポーズじゃなくてよかった」と内心で思ったところで、ヨキからの肯定を得て、破顔する。
 
「ヨキ先生からそう太鼓判を戴けるのなら、尚の事、やってみたいと思います。
雄君や、真乃先輩からも……仮装や演劇をやってみるといいって言われていたので、そういう期待に応えられるなら……それもいいかなって。
でも、正直に言えば、新しい事に挑戦することは恐ろしいです。
『昔』みたいに何かでポッキリ折れてしまうかもしれないと考えると……膝が笑います。
そんな臆病者でも……今は、やってみたいって思うんです。
それが、自分に出来る事なら。自分に求められている事なら。
その役割を……全うしてみたいって」

ヨキ > 「授業でモデルを呼んだことはあったが、こうして自分でやってみるのも良いな。
 どんな風に見られているのか、わくわくする」

やがて学生たちが作業に取り掛かれば、声のトーンを一段落とす。
鉛筆を走らせる音に、二人の穏やかな話し声が交じる。

「日下部君のその気持ちを、ヨキは応援するよ。
 演劇、というのは、派手で華やかなようでいて、すごく冷静だ。
 自分と、舞台の上と、観客らと、そのすべてに気を配らねばならんからな。

 だがその分、何かを演じるということには、自分自身にも、他人についてもよくよく観察が必要になる。
 演じるもの、演じられるもの、その中へ斬り込んでゆこうとしているのだから、それは恐ろしくもなるさ。

 役柄に心からなりきって、感情ごと没入するだけが演劇ではない。
 その強さが得られたら、君はどこまでも成長してゆけるとヨキは思うね」

日下部 理沙 > 穏やかな囁くような声色でも、風の遮断されたこのベランダでは会話に不都合はない。
鉛筆が紙面に踊る微かな擦過音を背景に、理沙はヨキと会話する。
驚くほど穏やかで、満ち足りた気持ちで。

「本当に先生は、いつでも先回りするような教示をくれるんですね。
一人ではなく……皆を気遣う。
演者だけでなく、観客をみる。
自分の事だけじゃなくて……他人の目も気にして。
誰かの期待に応えるって……そういうことなんでしょうね」

一人で出来ることなどない。
一人で分かることなどない。
何度でも悩んで。何度でも見直して。
そうやって、少しずつ前に歩いていく。
少しずつでいい。きっと。

「ヨキ先生。私は、誰かの為に……今度こそ、この翼を生かせるでしょうか」

ヨキ > 「自分のことで躓く経験がするのは、誰しも同じさ。
 ヨキの場合、それが君よりも早かったというだけでな。教示というほどではないさ」

自然光を含んでゆったりと照り返す翼の白を見ながら、言葉を続ける。

「そう。それは決して、やろうとしてやるものではない。
 舞台の上ではより神経を鋭化するというだけで、演者としての日下部君も、
 日常の日下部君も、人に対してやってゆくことは何も変わらないんだ。

 『人からどう思われるか怖い』ではなく、『こう思われたときにはこうしよう』とな。
 人のことを知れば知るだけ、どんなところでも生きてゆけるようになる」

理沙の問いに、何ということもないように軽く肩を竦め、冗談めかして片眉を上げる。

「勿論。今だって、十分すぎるほど活かせているではないかね?
 描いている彼女らが君に声を掛けてくれたように、君と君の翼は、外に出てゆけばそれだけ活きるさ。きっとな」

日下部 理沙 > その言葉に。
理沙は……瞠目する。
いつか、教示を受けた時のように。
いつか、己の行く先に迷った時のように。
あの時は昼の日差しの元で。
今は紅に染まる夕日の元で。

しかし、今はあの時のように揺れるのではなく。

「そうですね。
どう思われるか怖いではなく……何かを願われた時……思われた時に……できるように。
自分を、偽らないために」
 
確固たる、確信を持って。
ただ、思った事を真っ直ぐに。
己の信じた人々の言葉を胸に。
 
そうしているうちに、写生の時間も終わる。
絵を描いていた生徒達から労いの言葉を受けながら、理沙は笑い。
その上で、またヨキに向き直って……しっかりと、その言葉を紡いだ。

「本当に……ありがとうございました、ヨキ先生。
先生と……そして、友人たちのお陰で、やっと自分のやるべきことが分かった気がします」
 

ヨキ > 「思いがけない場面に直面したときこそ、人間が見えてくる。
 そういうときに、逃げたり、怖気づいたりすることを否定はしない。
 それ以外に『出来ること』の選択肢を増やしておいた方が、ずっと生きやすくなる」

静かに言葉を重ねる。
椅子から立ち上がって学生らと挨拶を交わし、描かれた絵を覗き込んで、笑い合う。

「ヨキなぞが描かれておったら、君らの先生もさぞや驚くだろうな。ふふふ……」

傍らに立つ理沙へ振り返り、その確固たる言葉を受け止める。
深く笑って手を差し出し、握手を求める。

「モデルお疲れ様。こちらこそ有難う。
 ――描かれている間、君は随分と様になっていた。
 君はきっと、友人らの期待にもよほど応えられるだろうと思っている」

日下部 理沙 > 生徒達が笑い合い、口々に理沙やヨキに謝辞を述べる。
紅い夕暮れの日差しの中。今まで『できなかったこと』……いや、『しなかったこと』が、多分これなのだろう。
「日下部君おつかれさま! ヨキ先生もありがと!」などと、背を叩かれながら、立ち上がる。
ベランダの飾りを外したり、テーブルやキャンバスを片付けたりする生徒達。
『次』に向けて、準備を進める人の波。
ようやく、自分もそこに入れたのだろうか。
 
「はい、ありがとうございます……みなさん、ヨキ先生」
 
多くを語りたい。多くを返答したい。
だが、その思いは正に筆舌に尽くしがたい。
故に、その深い笑みに……ただ、淡い笑みを返して。
握手を交わす。
四本指のその手をしっかりと握って。
今きっとそれが……『自分に出来る』、彼からの期待の返し方だろうから。

ヨキ > 「またいくらでも話そう、日下部君。
 そうして自分のことを決めてゆく君を傍で見ているのは、教師冥利に尽きるよ。
 君と話す時間は、ヨキにも心地よい。教師としてのみならず、このヨキ個人としても」

確かに手を握り合って、するりと手を離す。
離した後も残るものがあることを、示すかのように。

「さて。それでは次だな」

“次”が、この教室で行われる授業か、それとも理沙の行く末か。
理沙へ横目で笑み、学生らに交じってイーゼルや椅子を片付けてゆく。
談笑しながら自分の荷物をまとめ、向かい合った理沙たちに向けて一礼する。

「皆もお疲れ様、いい経験をさせてもらった。
 またいつでも声を掛けてくれたまえ」

空いた片手をひらりと挙げて、踵を返す。

「御機嫌よう、諸君!」

去り際、理沙へ目配せをひとつ。微笑んで、教室を後にした。

ご案内:「教室」からヨキさんが去りました。
日下部 理沙 > 最早、言葉もなく。
ただ、ヨキを見送り……少しだけ、涙ぐむ。
残された教室で、『次』へと向かう人々の背を見送り、思う。
自分も、『次』へ向えるのだろうかと。
自分も、『明日』を目指せるのだろうかと。
 
手の内に残る感触を確かめながら、ただそう思う。
 

日下部 理沙 > 夕日の照らされる教室に残ったのは、理沙と、数人の生徒だけ。
理沙をモデルに誘った女生徒に背を叩かれて、つい笑う。

日下部 理沙 > 理沙は笑う。
女生徒にヨキ先生との関係を問われたり、モデルの依頼を今後もするかもしれないと言った旨の言葉を貰って。
話題は『次』の話で持ちきりで。
内容も『次』への希望が詰まっていて。
だからこそ、理沙は確信していた。
自分の進むべき道は決まったと。
これから、往くべき道は決まったと。
 
誰かの願いに応えられる自分であろうと、素直に思えていた。 
 
だからだろうか。
以前なら断られることを怖れて自分から手伝うと言い出すことはあまりなかった理沙が、その日は片付けを最後まで手伝った。

日下部 理沙 > すっかり夕暮れに沈んだ教室で、ごく少数の生徒と共に片付けを続ける。
キャンバスを仕舞って、床に落ちた塵を軽く掃除して。
いつも通りの事のはずでも、理沙にとっては、なんだか前向きになれたような気がした。
生徒達と気安く話せるようになったのは、きっと先生や友人たちの教示のお陰だ。
そして、中でも恩師といって差し支えないヨキから激励を貰えたことは、理沙にとっては浮かれるに十二分なことであった。
その様子は傍目から見てもわかるようで、先ほどあったばかりのはずの生徒達にも囃される始末である。
まぁ、当然悪い気はしない。
誰かの求めに答えるというのは、こういうことでもあるのかもしれないと、理沙は思いつつ、今度はベランダの掃除に向かう。
当然ながら写生に使って物品をしこたまおいているので、最後に片付けなきゃならない。

日下部 理沙 >  
 
今、思えば。
理沙はそこで気付くべきだったのだろう。
 
 
 

日下部 理沙 >  
 
ベランダには飾り付けがしこたましてあるわけで。
特にテラスの縁の飾りを取るためには身を乗り出さなきゃいけないわけで。
 
 

日下部 理沙 >  
 
夕暮れの放課後。高所作業。
空気の断層処理。しかし、ベランダの外には異能も魔術も施されてはいない。
そんな時折強風に煽られる場所に、軽量の女子が身を乗り出せば。
 
 

日下部 理沙 >  
 
その『時折』が来た時に『どうなるか』なんて、わかりきってたはずなのに。 
  
 

日下部 理沙 > まるで突如粘性を帯びたかのようにゆっくりと進んでいく時間の中で。
理沙はようやく、理解した。
普段なんて関係なく、その時に……『今』自分に期待されていたことに。
『自分の事』なんて『良く知らない人たち』が『自分』をみて『期待』することは、何か。
 
翼のある人間を高所作業の手伝いに呼んで、期待することは……何か?
 
気温は空気の層によって管理が可能である。
二重窓の理屈で、魔術的か、異能的か、ともかく超常の力によって教室と空気が隔絶されたベランダの向こう。
空気振動によって言葉は伝わる以上、空気の断層の向こうにいる彼女の叫びは今その時に限り、教室の誰にも届かない。
 
それでも、目前にいた理沙にだけは、何をいっているのかわかる。
 
言葉なんて聞こえなくてもわかる。
そんな目の前にいれば、口の動きで何を言いたいか、なんてわかるにきまってる。

日下部 理沙 >  
 
 
 
「        」 
 
 
 

日下部 理沙 >  
 
ふいに、ヨキの教示が脳裏をよぎる。 
『人からどう思われるか怖い』ではなく、『こう思われたときにはこうしよう』 
 
 
 

日下部 理沙 >  
 
それは、今に甘えることではなく。
自己と向き合う事なのではないだろうか。
ヨキ先生も、獅南先生も、ようはそういう事を……いっていたんじゃないだろうか。
 
 

日下部 理沙 > 今更。何もかも今更。
答えなど出る訳もない。何か取り返しがつくわけでもない。
ただ場違いにそう思いながらも、手を伸ばしても、届くわけもなく。
 
ただ、手からすり抜けて消えていく女生徒の背に手を伸ばしたまま。 
 
 
理沙は、ようやく理解した。
 

日下部 理沙 >  
 
自分は結局……何も理解など、していなかったのだと。
 
 

ご案内:「教室」から日下部 理沙さんが去りました。
ご案内:「教室」に日下部 理沙さんが現れました。
ご案内:「教室」から日下部 理沙さんが去りました。
ご案内:「教室」に日下部 理沙さんが現れました。
ご案内:「教室」から日下部 理沙さんが去りました。
ご案内:「廊下」に日下部 理沙さんが現れました。
日下部 理沙 > 廊下の片隅。
自販機前に置かれたベンチに、理沙は座っていた。
遥か視界の彼方には、『立ち入り禁止』の札とテープが掛かった廊下の一角。
その一角にある教室は先日、生徒達によるスケッチが行われていた教室であり……同時に、女生徒の落下事故があった教室でもある。

日下部 理沙 > 女生徒の落下時、教室に同席していた理沙はすぐに風紀委員会からの取り調べと事情聴取を受け、解放されたのがつい先ほどである。
何をしゃべったのかは正直ほとんど覚えていない。
聞かれたことに聞かれたまま答えただけだ。
目の前で女生徒が落ちたけど助けられませんでした。
それ以外に語ることなどあるはずもない。
風紀委員会側も理沙の『異能の性質』を知っている以上、それ以上聞くこともない。
ならば、この事故には事件性などないわけで。
ただの事故ともなってしまえば、別にこの常世島では珍しくもない。
毎日誰かしらが傷つき、時には命を落とすこの常世島だ。
その程度、マクロからみれば取るに値しない些事である。

日下部 理沙 > 事故後は理沙に『あれこれ』いってきた現場の他の生徒達も、理沙の異能の性質をしればむしろ謝ってきた。
時には涙をしてくれた子すらいる。
そう、この事故は誰が悪いわけでもない。
『仕方なかった』のだ。
確かに理沙には翼が生えている。
だが、生えているだけだ。人に翼が生えたら飛べるのか?
人の背に巨大な翼が一対生えた程度で大空を羽ばたき、今まさに五階のベランダから落下していく女子を抱き留める事が出来るであろうか?
 
真っ当に物理学を学んでいるものなら即座に『否』と答えるだろう。
 
実際、それはその通りでしかなく、事実として不可能である。
故に今回は『残念な結果』となった。
たったそれだけの話だ。

日下部 理沙 >  
 
「んなワケあってたまるかッ!」 
 
 

日下部 理沙 > 慟哭と共に、自販機を殴りつける。
常世島のそれは異能者を相手にする都合上、普通のそれよりも頑丈だ。
そんな代物に貧弱な理沙の拳を叩き込んだところで、ディスプレイをへこませるどころかヒビを入れることすらできない。
むしろ、理沙の拳の方から強かに血と痛みが噴き出してくる。

それでも、理沙は拳を振るう事をやめない。 
いや、やめられなかった。

日下部 理沙 > 「何が、進むべき道だ……何が次だ。何が明日だ!
求められたことに応えたい?
嘘を吐け、お前は『与えられたもの』を見て『取り分が少ない』とゴネてただけのガキだ!
自分の不遇を飾って自慢して……どうぞ憐れんでくださいと情けのお零れを貰おうとしてたタダの卑怯者だ!
『次』の『逃げ場』ばっかり探して……最後にこの島に辿りついただけの臆病者だ……!」

ご案内:「廊下」にヨキさんが現れました。
日下部 理沙 > 叩き付けた拳が血に塗れ、ディスプレイの表面が血に染まる。
その血に映る己の顔を叩きつけ、また血が滲み、己が映る。
そうだ、本当はそんなものだ。
自分なんてそんなもんだ。
どこまで逃げたって自分から逃げることなんかできない。

そんな事には、みんな恐らく気付いている。
少なくとも、教えてくれた人たちは知っていたはずだ。
その上で、教示してくれたのではないか?
 
だというのに自分はなんだ。
何に自分は、『甘えて』いたのだ。
 
力なく、自販機の前で項垂れて、涙を流す。
哀しいわけじゃない。辛いわけでもない。
 
ただ、悔しかった。
 
悔しくて、たまらなかった。

ヨキ > 硬く冷えたヒールの音が、風のように廊下をやって来る。
長い裾の飾りが涼やかな音を立て、波打って揺れる。

足早に、一直線に、自動販売機の前で項垂れる理沙の傍らへ。

死者のように生白い手が伸べられて、血を流す彼の手首をそっと取る。

「――止さんか」

静かではっきりとした声色。
見上げればそこに、厳しくも冷淡ではないヨキの姿がある。

「事情は聴いた。いま君が怪我を増やしてどうするね」

日下部 理沙 > そっと、重なる手があった。
真っ白な手。四本の指。優しくも、力強いその手。
良く知るその手と声を聞いて振り返れば。
そこに居たのは、理沙にとってはよく知る恩師であり。
ヨキに向いたのは、悔恨に染まった少年の相貌だった。

分かっている。
ヨキの言っていることはわかる。
それでも。
 
「先生……あの時、あの子は……確かに『俺』にいったんですよ」
 
それでも。

「『どうして』……って……」
 

ヨキ > 白い手を、理沙の赤茶けた血が薄らと汚す。
それを拭き取りもせず、理沙と向かい合う。

理沙が聞いたという言葉に、苦く眉を顰め、目を伏せる。
間もなくして瞼を開き、唇を硬く結んだまま、長く息を吐いた。
頬の強張り。平素のヨキとは異なる、重い呼気。

「君は」

押し殺したような声だった。

「……君が悔やむ気持ちを、十全に理解出来るとは言わない。
 だが、自分自身を責めることだけはしないでくれ」

ヨキの両手が、理沙の両手を取って包み込む。

「ヨキが……あの場に、居てやればよかった」

自分があと、もう少しでも長居していたならば。

「彼女のことも、君のことも」

眉間にきつく皺を寄せる。

「……悔しくて」

短く吐き出して、理沙の手を包む手に力を込めた。

日下部 理沙 > 微かに力が篭るヨキの両手に包まれて。
理沙の手も、強張る。
今初めて理解した気がする。ようやく理解した気がする。
 
誰かの為なんてことは、一つもない。
それはきっと……あくまで、自分が悔やまないためだ。
それは何処まで行っても自分の為で、だからこそ他人の為なんて『嘘』を言わなくて済むようになる。
他人に謙遜されても。他人に遠慮されても。
いいや、他人に『許されて』も。
 
それで『悔やむ自分は良くない』と言い切れることが……本当の、強さだったんじゃないだろうか。
 
ヨキは言った。あの時自分が居ればと。
 
それはきっと、同じなのだ。
理沙の悔やむ気持ちとそれは、きっと。
 
だというのに、自分は。
 
 
「先生……俺のやりたいことが決まりました。
聞いてくれますか」
 
 

ヨキ > 衣服の擦れる音だけを小さく響かせて、包み込んだ手へ祈るように顔を伏せる。
だがその伏せられた眼差しの先に、この教師は祈るべきものを持っていなかった。

「……君が無事で、……よかった」

小さく呟く。
ひとりを助けることは出来ず、もう一人は自分の目の前に。
か細い語調から、その言葉が本心のすべてではないことは明白だったろう。

それこそ、そこに軽重などない。
学生のどちらかが助かったから安泰などという結果は、決してありはしないのだ。

「…………、」

声を掛けられて、理沙へ向き直る。

「ああ。……何かね?」

日下部 理沙 > 理沙の蒼い目が、ヨキの瞳を捉える。
その瞳は揺れていなかった。その瞳はただ真っ直ぐ恩師を見ていた。
己の中に芯を持ち、嘘を吐けても嘘を通せない教師。
自分が無事な事は喜んでくれているだろう。
だが、それだけではない。
片方助かった。でも片方は助からなかった。
助けられたはずなのに。
それは理沙に言っているわけでは決してないのは分かる。
だが、それは理沙にとって問題ではない。
むしろ、だからこそ。

「俺は今後……ずっと……『自分自身を責め続ける道』を選びたい」

理沙も、嘘は吐けない。

「自ら進んで、自分の好きで、自分の勝手で……自責で、この道を選びたい。
俺が敬愛する教師が、そうであるように」

自らの逃避に気付いてしまった以上、容易にそれを選べるほど、『男子』を辞めていない。

「出来ない自分が『気に入らねぇ』から、そうしたい。
『人からどう思われるか怖い』ではなく、『こう思われたときにはこうできる』自分になりたいから。
そうしたい。
翼がそこにある以上……そこに掛かる期待を……見返したい」

その眼は真っ直ぐで、曇りなく。
それでいて。

「『俺』は、『私』に復讐がしたい」
 
一片の光も、伴っていない。
ただ、深く。ただ、蒼い。
その奥を見通すためにそうであると、囁くかのように。