2015/07/20 のログ
ご案内:「教室」にヘルベチカさんが現れました。
■ヘルベチカ > カリカリ、と教室内に響く筆記音。
空調が低く唸って、風向羽が上下する度に
ひっかかるような小さな音をたてた。
狭い教室。教員が一人に学生は十人ほどか。
スーツの上に白衣を着こんだ教員が、
黒板へと白墨を叩きつけるように記述する。
『つまり、ここで―――2068年、大きな転機を迎えたわけだ』
2068という数字。黄色のチョークで書いた後に、
教員は赤色へと持ち替える。
『Kirhykederuffiohre嬢―――あぁ、キリク嬢でいい。苗字はないからな』
その長いスペルを書いた後、カタカナ三文字、振り仮名の如く書いて。
『彼女が第26世界線より我々へ提供した四重記述概念により、
一定環境下における真核生物の遺伝情報の翻訳においては、
更に一段階ずつ上下の情報を拾っていることがわかった』
それを、生徒たちがノートに、ルーズリーフに書き写す。
教員が板状に、描いた短い二重螺旋。
矢印を引き、幾つもの円の廻りを、グルグルと回るラインを描く。
時折、書き損じたのか、生徒の机から聞こえる消しゴムを使う音。
『元来塩基の配列によってその数塩基後からの翻訳開始を定めていたとされたが、
更に塩基本体の立体構造が関与し、ほぐされる前――ヒストンと結合した
ヌクレオソームの段階において、ある種の”魔術的”――……失礼』
教員は、眼鏡の位置を整えながら、生徒の方を振り返った。
教卓に手をおいて、生徒たちへ視線を向けて。
『端的にいうならば、何らかの意味を持つ模様、”陣”を
指し示すスイッチが別に見つかった。
君たちの中にも物理法則を無視した術を扱うものが居ると思うが、
それで言うならば”魔法陣”に近い』
生徒の方を向いたまま、教員の右手だけが黒板へ向いて。
ぐるぐると、白い円を何十にも描く。
『円環というのは幾つもの文化において意味を持つとされる。
身近な場所で言えば結婚指輪もその一つだろう。
さて、我々が記述に使用するATCGの、或いはUを含めた塩基というものは、
”人類が”名づけたのだ。
であればこそ、固定概念を外さねばならない』
線が重なり、円が重なり、一つの太い円となったその中心、
教員は、がつん、とチョークで叩いて。
『おとないびとの入った黒い箱にこれを差し入れて、取り出した時、
それは全く別の意味を持って翻訳されることになる』
そこで丁度、チャイムが鳴った。教員は振り返り、教室の前方、
時計の横に配置されたスピーカーを一度見てから、振り返って。
『さらに微細次元の記述以降については、次の授業で。
それでは、解散』
告げたと同時、生徒たちが其々に伸びをし、溜息を吐き、
手早い動きで筆記具をしまい、机にだらん、と伏せた。
その中で猫耳の少年は、ルーズリーフに書いた内容を読み返している。
シャーペンの尻側、キャップで机をこつん、こつん、と叩きながら、
頭の中に反芻するように、幾度も読んで。
■ヘルベチカ > 前方の黒板、教員の手で消されていく記述。
白く染まった黒板消しでなぞられる度、
刻まれた知識の痕跡は、薄靄の中に消えていくように、
薄っすらと白く塗り広げられた粉末へと姿を変えた。
先ほどまでそこに並んでいた記号/文字/意味を、
手元のノートを眺めながら思い返す。
自由受講の講習に参加した人数は少ない。
一部の人間にとっては当然の知識、
ある種の人間にとっては知らずとも良い知識、
一握りの人間にとっては知らないほうが良い知識、
そして知ろうが知るまいが、日常の生活に関わりなどない知識。
■ヘルベチカ > かつん、と。強く卓上を叩いた、シャープペンシル。
その音を契機に、少年は卓上のマーカーや色ペン、文具の類を、
布の筆箱へとしまっていく。
気づけば、教室の中にはもう、誰もいなくて。
そういえば、教員が退室間際にこちらを向いて、
冷房は切っておくように、と告げていたような気がする。
4枚のルーズリーフを、記述した順番に並べて、
とんとん、と卓上に立てて揃えて。
バインダーに挟み込んだ。ぱちん、と。ストッパーの合わさる音、硬く。
■ヘルベチカ > 布製の、トートバッグの中へと文具たちをしまっていく。
夏。背負うタイプの鞄は暑い。
空調の風が不意に頭に当たった。
ふるふる、と猫の耳が震えて。
窓の方を見た。カーテンに閉ざされた、向こう側。
ガラスを超えて屋外。蝉の声が聞こえる。
立ち上がり、近づいて。
カーテンを開いた。
音が聞こえたような気がする。日差しの差し込む、擦れる様な音。
■ヘルベチカ > 眩しさに目を細める。冷えた室内。
光の当たったところだけ、熱を感じる。
前身は暖かく、背中は冷たい。
暑くなる前に、カーテンを閉じた。
日射に熱された体が、冷えて。窓へと背を向けた。
机の上、置いたままだったバッグに手をかける。
持ち上げれば、中で物の擦れ合う音。
ふぅ、と溜息。倦怠感。首を回して。
教室の出口へと。電気のスイッチは四つ。
冷房のスイッチ、小さなそれを、指先が押して。
きぃ、と小さく。空調が止まるための音。
暗くなった室内に残った。
ご案内:「教室」からヘルベチカさんが去りました。