2016/10/30 のログ
■ヨキ > その日に予定されていた講義を午後の早い時間に済ませたヨキは、
学生通りへ行ってくる、と軽い足取りで校舎を後にした。
普段通りの、あの奇矯で妙ちくりんなコート姿で出て行ったはずなのだが――
夕方になって学園に戻ってきたヨキは、まったく人間らしいスーツを纏っていた。
「ふふ」
鏡張りの壁に、全身を映す。
「ふふふふ」
前を見て、横を見て、後ろを見る。
「ふふふふふふ……」
一回転。
美術教師ヨキの十数年に及ぶ教師生活の中で、彼がスーツを着た、というのはおよそ初めてのことだった。
人間の姿を手に入れる前は、スラックスも革靴も、とても身に着けられるものではなかったからだ。
■ヨキ > 通り掛かった教え子の反応は様々だった。
思ったより似合う、と言う者があれば、着慣れてないね、と一蹴する者もある。
はたまた奇怪でもチャラくもない服装に、すぐにはヨキと気付かぬ者も居た。
新しい玩具でも買ってもらった子どものような顔をして、ロビーを広々と映す壁に向き直る。
綺麗に巻かれたネクタイの先端を引っ張り出して、解いては結ぶ練習。
鏡ならば職員室や、自分の美術準備室にだって置かれていたが、とにかく満喫したかったらしい。
今やヨキは、獣人にも異邦人にも見えず、人より頭一つ背が高く、日本人よりいくらかエキゾチックな
顔立ちをしているだけの、青い瞳を持つ黒髪のひとりの男だった。
■ヨキ > ネイルの黒も、目尻の紅もない。
まっさらな素顔は心許なくも、誇らしくも見える。
店員の見立てと本人の好みで選ばれた小物は鮮やかに艶めいて、
明度とコントラストでしか服装を選ぶ術を持たなかったヨキを大いに感嘆させた。
身体に沿ったパターンはヨキの外見相応の年齢と経済力を想像させたが、
所作から滲む着心地は未だいくらかのアンバランスさを残していた。
手櫛で髪を梳く。直す必要のないジャケットの衿元を正す。
まるでたった今から、第一志望の委員会へ面接に行く学生のような緊張感。
「………………、」
無論のこと、単なる趣味と浮かれぶりからスーツ一式を揃えた訳ではない。
必要に駆られてのことだ。
■ヨキ > 行き交う人が途切れたところで、小さく息をつく。
“着るべきとき”が来るまでには、まだ時間があった。
今のうちから緊張していたって仕方がない。
とにかく今は、この人間の服装に慣れることと、あとは――
「……この魔力を、どうにかせねばならんな」
煽られて暴れる野放図な力。
これから先、万が一にも抑えの利かなくなる事態があってはならなかった。
そのためにも。
「………………、」
そのためには?
――行きに着ていたコートを仕舞った鞄に、手を突っ込む。
中を探って、シルバーのスマートフォンを取り出す。
愛用していたシャンパンゴールドの機種が、落第街でバキバキに破損したための代替機だ。
画面を見下ろし、少し黙って、メールを打ち、消して、また打つ。
■ヨキ > ……メールを送信し終えて、スマートフォンをジャケットの懐に収める。
そろそろ職員室へ戻ろうかと踵を返すのと同時、
「!」
着信の音。
思っていたより、ずっと早い。咄嗟に取り出して、画面を開く。
返信は、小さな通知欄に収まるほど簡潔だった。
「…………、ははッ」
人間になってひと月、数々舞い込んだ懊悩に振り回される自分に比べて、
その即断即決ぶりの何と心強いこと。
再び新しい靴底を鳴らして廊下をゆく。
その足取りは、常よりどことなく軽やかだった。
ご案内:「ロビー」からヨキさんが去りました。