2016/07/09 のログ
ご案内:「職員室」にヨキさんが現れました。
■ヨキ > 退勤間際の職員室は、交わされる声も緩んで朗らかだ。
「――休講?」
だが仲のよい隣席の女性教員の言葉には、ヨキは目を丸くせざるを得なかった。
あら、ヨキ先生ならご存知かと思ってました、と相手が笑う。
ヨキは水を頭から被った犬のように、首を激しく左右に振って否定した。
「知らん。
だってあんな、誰より休講なんぞしなさそうなのが……」
獅南蒼二のことである。
彼が一月の休講を申請したという話が、人伝にようやくヨキの耳に届いたのだ。
こちらは仲がよいのか、悪いのか、寡聞にして初耳だった。
納得のいかない顔をして、頬を掻く。
ヨキ先生も、根詰めたりしちゃだめですよ、と労いの言葉を掛けて、
女性教員が職員室を後にする。
そうして、室内にはヨキ一人が残された。
「……………………、」
■ヨキ > ひとまず欠勤はしていないらしいから、よもや体調の問題ではないだろう。
そんなことを考えながら、机上の荷物をまとめて帰宅の準備をする。
「全く、何を考えておるやら……」
書類のファイルやレジュメの束と共に、置かれていた美術雑誌を手に取る。
その顔は考え事に耽っていることがありありと見て取れ、どことなくぼんやりしていた。
だから雑誌を手に取ってばらりとページを捲ったのは、何ということのない手癖に過ぎなかった。
「んッ」
自分が付箋を挟み込んでいたページの中を、見知らぬ紙片が過る。
眉を顰めて過ぎたページを戻り、中身を確認する。
幽霊でも見たような顔をして、ヨキの動きが止まった。
「…………………………………………、」
大きなサイズの紙片に、見知った文字がある。
そう長くない文面を頭が理解するまで、金色の視線が何度か付箋の上を往復した。
「――ふぁッ!?」
人一倍重量のあるヨキのために用意された、他より少々頑丈な造りのチェアを、
蹴倒さんばかりに勢いよく立ち上がる。
いよいよ信じられないものを見たとでも言いたげな顔をして、
ヨキは立ち上がっても尚そのメッセージに釘付けになっていた。
■ヨキ > ひどく裏返った素っ頓狂な悲鳴は、夜の廊下にけたたましく響いた。
人気のない時間帯なのが救いだったろう。
名前こそ記されていなかったが、それは間違いなく獅南蒼二からの伝言だ。
目の回るような心持ちで、ヨキは額に手を当ててへなへなと肩を落とした。
「彼奴め、」
机に片手を突いて俯いた、黒髪の陰の顔は笑っていた。
「……いよいよ失敗出来んではないか……」
社交辞令というものを解さず、嘘さえ丸ごと受け取って痛い目を見てきたヨキは、
今ばかりは自分のその性質に心から感謝した。
それから、生きた人間のようには血の気の通わぬ身体にも。
もしも血の巡りがよかったならば、今ごろ垂れた耳の先まで真っ赤にしていたことだろう。
付箋の限られたスペースに書かれた簡潔な言葉は、それほどまでにヨキを喜ばせたのだ。
休講と、付箋と。
その行動の前後関係を知らずとも、ヨキはちっとも構わなかった。
獅南が研究室に籠もっている間に作り上げられてゆくのが、
たとえ自分を完全に殺しきるための方法だったとしても。
鞄の中から、スマートフォンを取り出す。
既に登録されていたアドレスを入力して、慣れた手さばきで文章を打ち込んでゆく。
■ヨキ > 完成した本文を送信し終えると、深く深く息を吐いた。
自分がこの初の個展のために奮闘する――あるいは奮闘出来る理由はいくらでもあった。
その無数の理由のうちのひとつが、果てしない実感を伴って立ち現われてきたのだ。
ヨキはただ、獅南に認められたかった。
互いにどこまでも果てしない志を抱える者同士、
獅南に認められることはヨキ自身の通過点たるべき目標だった。
近付いてきた機会を、決して逃してはならない。
展示を成功させるためならば、自分は何だって頑張れる気がしていた。
「…………。葉書、くれてやらねばな」
鞄のファイルから覗く、しっとりとした厚手の白紙を見下ろす。
今回の個展のために作った、作品の写真や展示の概要を記したポストカードだ。
自分の中で加速度的に何かが変わりつつある予感を秘めたまま、
ヨキはもう一度深い溜め息を吐いた。
来るべき日々――その作品展は、名を「視差」という。
ご案内:「職員室」からヨキさんが去りました。