2016/10/08 のログ
ご案内:「保健室」にヨキさんが現れました。
■ヨキ > 昼下がり、無人の保健室。
養護教諭の机の前で、体温計を手にしたヨキが立ち尽くしている。
どうしてか頭がふわふわとする、というよく判らない理由で保健室を訪れた彼の頭に、雷が落ちた。
「…………。さんじゅう……ななど、にぶ……」
演習で防塵マスクを着けた姿はもはやお馴染みのヨキであったが――不織布の、ありふれたマスク姿は十数年の教師生活で初めてのことだ。
どこかとろんとした眼差しで、マスクの下からくぐもった声を発する。
人間の姿になってからというもの、体温が三十度を超えたことがないヨキにとっては一大事であった。
……のだが、傍らの保健委員の女子は、体温計を覗き込んで一言、ああ、微熱ですね、と答えた。
先生、しばらく休んでましょうか、と背中を叩かれる。
もう何枚目か判らないティッシュで鼻を噛むと、鼻の下は赤くなっていた。
小さく鼻を啜る音。
つまるところ、ヨキは生まれて初めての風邪を引いた。
■ヨキ > 神通力を呪術にまで変質させてしまっていたヨキほど、「病は気から」という言葉が覿面に効く男は居ない。
三十七度二分という数字を目にした瞬間から、彼はすっかり病人になっていた。
今にも死にそうな顔をしているヨキを前にたじろいだ保健委員が、先生、これ飲んでください、と白い錠剤を二粒差し出す。
甘くて飲みやすいお薬ですから、と。
「くすり……」
飲まなくてはいかんか、という顔で相手を一瞥する。はい、と明るい顔で返ってくる。
元より薬が得意でないヨキではあるが、見るからにぼーっとした顔でこくりと頷き、水と共に錠剤を呑み込む。
これでばっちり、きっとラクになりますよ、と言われて、熱に浮かされた顔は少しだけ和らいだ。
じゃあ先生、ちゃんと寝ていてくださいね、と挨拶をして、保健委員が部屋を後にする。
寝台の端に腰を下ろす。
衝立のカーテンは引かれておらず、その姿は廊下からでも見かけることが出来るだろう。
「(何だか……ラムネみたいな薬だったな……)」
案の定、ただのラムネだった。
■ヨキ > 盛大なくしゃみ。
聞くだに喉を痛めていそうな、下手くそな音だ。
咳込み、コップに残っていた水を飲む。
眼鏡を外し、腰掛けた格好のままどさりと横になる。
「……………………、」
休んでいる時間が勿体なかった。
今の自分に体調を崩している暇はないという、ある種の強迫じみた焦り。
■ヨキ > 一刻も早く復調したい気持ちに駆られてはいたが、治癒魔術にも、異能にも頼るつもりはなかった。
人間の体調を、人間として治してみたかった。
外したマスクを緩く握ったまま、ぐしゅん、と鼻を啜る。
“こんなことをしている場合ではないのに”。
いったい、あの男が自分を殺すと言い切ってから、どれほどの月日が過ぎたろう。
自分の前で披露した洞察のみですら、途方もない精確さに満ちていた。
あれらの技術と知識の裏側には、どれほどの与り知らぬ研鑽があったことだろう。
それを思ったとき、果たして自分の歩いてきた道にいかなる足跡が残っているものか、ヨキには判然としなかった。
己はあの男に対して、何を見せつけ、何を体現し、何を築き上げて、何を返し、何を示すことが出来るだろう?
これからの在りようを冷静に考えるためには、しかし“出来るようになったこと”があまりにも多すぎた。
いっぺんに数多く開けすぎた道の前で、ヨキは立ち竦んでいた。
熱を孕んだ視界は狭く、頭の中は狭苦しい。
焦りと熱はじっとりとした汗に変わって、肌を居心地悪く湿らせた。