2015/07/27 のログ
■『室長補佐代理』 > 「呼吸が趣味の人間はいないだろう? 必要な事を必要な分だけ行っているだけさ」
夕の朱光を半身に受け、壁に背を預けるその風紀委員に、男は一瞥を返して……笑う。
張り付いた笑みは、汚泥を思わせる汚らしい笑み。
好感よりも先に嫌悪が来るその笑みを滴らせて、男は風紀の少女に顔を向けた。
「まぁ、風紀の……それも、現場の趣味じゃあないんだろうがな」
■平岡ユキヱ > 「人間の悲鳴が往来で上がるほどの暴力が、必要な分だとは私は思わない」
屹然と言い放ち、右手に竹刀袋を持つ。
つまり、利き手で木刀を引かないという一線は越えないよう配慮はしているようで。
「ああ。特にあんたは…『楽しそう』だったからな。
こうして声をかけさせてもらったというわけさ」
何かほの暗いものを感じたのか、女の勘を頼りにしたいぶかしげな視線を向けて。
■『室長補佐代理』 > 「必要な分さ。『見せしめ』ってのはバカに出来ない抑止力になるんだぜ?
人間は法じゃ縛れないが、てめぇの想像力には簡単に縛られる。特に悪い想像にはな」
左肩だけを竦めて、当然といった様子でそう嘯く。
左中指に嵌めた銀の指輪が、夕日を受けて怪しく輝いた。
「しかし、『楽しそう』か。そいつは心外だな。何でそう見える?」
訝しげな視線に、興味を孕んだ視線を絡ませる。
伽藍洞を思わせる黒瞳が、細まった。
■平岡ユキヱ > 「抑止力になることに異存はない。だからこそ、むやみにふるうべきではない。
劇薬を処方しまくる医者がヤブなようにね…」
相手の指輪の光に目を細める。…ハイカラか? と何かズレた思考で。
「『気配』」
それだけだ。と大雑把に言う。笑うか? と続けてから。
「だがこれは経験や体験に培った『勘』だ。けっこー馬鹿にできないんだよねえ、これが。
間合い、呼吸、人との話し方、距離の取り方…。
理屈はいろいろ付けられるけど、人間って意外と自分から情報をまき散らすんだよねぇ~」
■『室長補佐代理』 > 「笑い飛ばしたい所だが、最近、『それ』に疎いのが俺の欠点だと詰られたばかりなんでね。一笑に付すのは憚られる意見だな」
などと言いながらも、男の口元には笑みが張り付いたままだ。
口端を歪め、目を細め……伽藍洞の瞳を滲ませて、男は続ける。
「まぁ、だが、それについては劇薬の取り扱いと併せて『善処する』としか返答できないな。
俺は仕事は嫌いじゃないが、楽しんでるつもりはないし、この見せしめが無闇とも思っていない。
なら、その苦言は一旦持ち帰って『協議の上、善処します』と答えるのがせいぜいだ。
風紀と同じで、公安はお役所仕事なんでな」
■平岡ユキヱ > 「そうかい。じゃあ私は『遺憾の意を表明する』とでも言っておけばいいのかねぇ~?」
わははとジョークを返してから、真面目な顔に戻る。
「…冗談じゃない。お役所仕事なんてする奴がいたら、身内であっても叩き切ってやる。
公安の情報提供も大歓迎だ。しかるべき立場につくものは、相応の義務を負うべきだろ?」
それとも、この点も公安は違うのかな? と片目を閉じて真剣に問う。
■『室長補佐代理』 > 「そこは色々と見解の相違があるな。公安は仕事柄、風紀と違って機密が多い組織なんでね。
教えられることは教えるし、協力できることは協力するが、まぁそれはそれ。これはこれだ。
然るべき立場にあるからこそ、相応の義務も『見ての通り』果たしている。
だからこそ、『たった一人の風紀委員の苦言』で仕事が左右されないのさ。
お役所仕事ってのは、悪いところばかりでもないんだぜ」
そういって、肩を竦めながらまた……汚泥を滲ませるように笑った。
「世間から見れば風紀も公安も同じ行政機関だ。
その、腹違いのたった一人の『身内』に叩き切られて態度を変える治安維持組織なんて、誰が信用するんだ? そういう話さ」
■平岡ユキヱ > 「なるほどな…。そこまで言われちゃ分が悪い。ここは形式だって謝罪会見でもした方がいいかな?」
竹刀袋をいよいよ納め、踵を返し、立ち去るだろう。
「だがまあ、『行動は言葉よりも雄弁』という言葉もある、
時勢と流れが味方すれば…そういう英雄的な場面もあるでしょうよ。
勝負は理屈や口先だけで決まるわけじゃあない」
ぶるぶる震えるスマートフォンをつまむようにポケットから出す。召集のようだ。
■『室長補佐代理』 > 「そういうときは、素直に現場に任せるさ。元々、俺達、公安調査部は裏方仕事なんでね。
風紀にはどうにも嫌われがちだが、俺達は最初からアンタ達を仕事仲間としか思ってない。
なら、『そういう場面』が求められるなら、そのときは喜んで舞台を譲るよ。
本来、時勢と流れをそこに傾けるまでが、俺達の仕事だしな」
そういって、いよいよ男も踵を返し、風紀の少女を別れようとした直後。
一人の少女。いや、幼女といったほうがいいか。
小さな、小さな幼女が、ゴムボールを追いかけて、横の路地から飛び出していく。
男の『右側』をすり抜けて、二人の風紀委員と公安委員に目もくれず路地から表通り。
車道へと、一心不乱に。
「……ッ!」
男の顔が、歪む。
■平岡ユキヱ > 「 ッ!!!」
ボールのバウンド音に振り向くと同時、些末な考え、損得、もろもろ投げ捨ててまずは駆け出す。
異能…無理だ。戦闘にしか使えない。魔術…素養なし、論外!
上等である。
「ばかっ! 車道に…!!」
言いかける自分も車道に飛び出すのだが、幼女の方へと飛び出して。
■『室長補佐代理』 > 間一髪、風紀の少女活躍により、幼女は抱き留められ、目前で車も止まる。
せいぜい、風紀の少女の体が若干、傷つくか、傷つかないか。その程度。
男も身は捻った。だが、『右手』は最初からずっとポケットにいれたまま。
動かしもしなかった。
ただ、身を捻り、左手を伸ばした程度で、それすらも『全部終わって』から。
何もかも遅い。
元々、男の運動神経が大して良くない事もある。
だが、そんなことは『結果』からみれば関係ない。
泣きじゃくる幼女を抱きかかえた風紀委員を見て、男はただ、口を引き結ぶ。
当然、周囲の視線は、『身を挺した風紀委員』と、『何もしなかった公安委員』に……別れていた。
■平岡ユキヱ > 「ナイスよ運転手さん! 違反切符とかないだろうから、さっさと職務に戻る!!」
擦り傷&土や埃にまみれた風紀が、デカい声でサッとあわやの大惨事を収めようと。
「いい女がそうそうなくもんじゃないの。
涙は女の最終兵器、いざという時にだけ流しなさい!」
あと道路に飛び出るなバカタレー! と、泣く子にも容赦なく、しかし身を案じてゆえの説教をかまして幼女を解放する。
そんな慌ただしいやり取りの後。
「…」
制服をパンパンと払いながら、室長補佐代理なる男と改めて向き合う。
ユキヱは何も言わなかった。だが、最初の時よりは随分澄んだ目で公安の男を見返す。
「ごめん。私はもう二度と、あなたの仕事ぶりを疑ったりはしない」
以上終わり。超シンプル。ただのそれだけ。
そして万が一にもこの場で公安の陰口を言おう者がいれば、おそらくこの場でユキヱは彼の名誉のために戦うだろう。
そう有無を言わさぬ語気であった。
■『室長補佐代理』 > それでも、敵意の目は男に向く。害意の目も男に向く。
男の右手は動かない。動かせない。そんなことはしかし、問題ではない。
結果として、そうなったのだ。
男がたかが右腕を動かせないばかりに、そうなった。
風紀の少女のその一括によって、確かに糾弾はなかった。罵倒もなかった。
だが、視線に籠った『それ』だけは、静かに場を支配し……男の右腕……その、腕章に突き刺さっていた。
故に、だろうか。
男は、笑いもせずに、ただ頭を下げた。
「……なら、此処はこれでいいんだ」
その澄んだ目から、目を逸らすように。顔を逸らすように。
ただ、その神妙な面持ちを、視線から逸らした。
現場での無能は証明された。
どんな場面にも、その場に相応しい誰かがいる。
『そういう場面』が求められるなら、そのときは喜んで舞台を譲る。
先ほどの言葉をただ、心中で反芻して、男は踵を返す。
「すまなかった」
誰に対して、言った言葉だったのか。
何に対して、した謝罪だったのか。
経緯など関係ない。過程など関係ない。結果が全てを物語っている。
無数の糾弾と、無数の痛罵の込められた視線をうけながら、『公安委員』は去っていく。
誰もに感謝され、誰もに活躍を称えられているその『風紀委員』を残して。
いつも通りに。
そう、これは『日常』だ。いつものことだ。
公安委員会調査部にとって当然の仕事であり、当然の責務である。
故に男は疑わず、故に男は阿らない。
『そう』なったのなら、それは『そう』としかならない。
これはたったそれだけの事であり、それ以上にもそれ以下にもならない。
正義は誰かの信仰であり、何者かの定義した相対でしかない以上、そこで相、対すれば、『そう』なるしかない。
故に男は振り向かず、故に男は、顧みない。
それは、男の……『日常』だった。
力なく、その手が届かないばかりに招かれる……ただの、『日常』だった。
■平岡ユキヱ > 「大義を胸に秘める人間がみだりに謝る必要はない。…男の価値を下げるわよん?」
時には理解されないこともある。
私がさっきまで理解しきれていなかったように、と少し自嘲の笑みを浮かべた。
「…風紀委員、一年、平岡ユキヱ。
この島のゴタゴタを追いかけあうなら、また会うこともあるでしょう」
ではさらば! と必要なことを言いたいだけ言うと、返す刀のような勢いで今度こそ立ち去った。
ご案内:「学生通り」から『室長補佐代理』さんが去りました。
ご案内:「学生通り」から平岡ユキヱさんが去りました。
ご案内:「学生通り」にジークさんが現れました。
■ジーク > 白いケープに長躯、フードの下に栗毛の青年
カフェテラスの木目テーブルにアイスコーヒーを乗せて
行きかう人々を順に目で追っている
■ジーク > 懐から取り出し、コップの横に置いたのはまた白い手紙。
「どうやって、渡したものかな・・・」
頬杖をつき、ひとりごちる
■ジーク > 「やはり、驚くだろうか」
表情は変えず、思索を巡らせる。
自分にとっても、おおよそ初めての経験だった。
■ジーク > 「詮の無い話か」
目当ての女生徒を見つけ、手紙を取り、立ち上がっては、
そちらへ近づいて行く
■ジーク > 「死人の、最後の頼みだ、聞いてやらないとな」
そう零して、切り出す言葉を探し始めた
ご案内:「学生通り」からジークさんが去りました。
ご案内:「学生通り」に奇神萱さんが現れました。
■奇神萱 > 時は気だるい昼下がり。忙しげに行き交う人の波を見ていた。
思い思いの場所へと急ぐ学生たちは、人それぞれに自分の時間を生きている。
いつもそうしていた様に、ヴァイオリンケースを開いて置いた。
名もなき職人の手で製作された無銘の楽器を肩にあて、弦の具合をたしかめる。
仇敵と思っていた男から贈られた一挺のヴァイオリン。
それが今の奇神萱の仕事道具だった。
■奇神萱 > 道行く学生の数は多からず少なからずというところ。
路傍のヴァイオリン弾きに奇異の目を送る男子生徒。
その斜め後ろを追いかけながら、ふと好奇心に駆られて足をとめる女子生徒。
隣の男子の袖を引いて、わざわざ引き止めてくれた。
笑顔を向けると男子はしどろもどろになって、女子はむくれてそっぽを向いた。
誰もいないよりずっといい。まずはこの二人から始めよう。
深く息を吸って弓を落とした。
はじまりの曲はマリア・テレジア・フォン・パラディスの代表作。
『シチリアーノ』。
ただ美しいだけじゃない、牧歌的で温かな曲だ。
目を瞑って奏でよう。光を求めつづけた彼女の心に寄り添うために。
ご案内:「学生通り」にメアさんが現れました。
■メア > あつ、い……
(自販機で買ったペットボトルの水を飲みながら少女が通りを歩いている
見ているだけで暑苦しい黒一色の服のせいか熱がこもり体感温度はさらに上がっている)
ん…?
(学生通りの雑踏にはあまり似合わない穏やかな音色に音のする方を探す
一組のカップルとその視線の先にヴァイオリンを弾く女子学生を見つける)
………
(ふらりふらりと誘われる様に演奏者の元へ近づいていき演奏をじっと聞いている)
■奇神萱 > パラディスは18世紀の終わりと19世紀のはじまりにかけて活躍した女流ピアニストだ。
幼くして光を失った彼女は動物磁気説で有名なフランツ・アントン・メスメルの治療を受けた。
メスメルの使った治療器具。それは物語につたわる不思議な楽器『グラス・ハーモニカ』。
前代未聞の「音楽による治療」は世の不審と憶測を招いた。
人々は言った。メスメルの楽器は人を狂わせ、死に至らしめるのだと。
そして、史上稀に見る変人医師はウィーンを追われるという憂き目に遭う。
メスメルの挫折によって、パラディスの光は閉ざされた。
彼女が光を取りもどす事は終生なかったという。
この曲が後世の偽作だと言う説もある。
20世紀のヴァイオリニストが、伝説のピアニストの名に仮託したのだ。
情感豊かに、女性的な繊細さに満ちた旋律を聞けばきっと誰でも頷けるはずだ。
この曲は、才能豊かなパラディスの名にこそ相応しいのだと。
ささやき交わす人の声が聞こえる。すこしは聴衆も増えただろうか。
目を見開いてたしかめる事はできないが。
■メア > ………
(少女は暑さも忘れ聴衆に混じりながら曲に耳を傾けている
この少女は誰?なぜこんな場所で?疑問に思う事もあるがそんなのは些細な事と気にも留めない)
きれい……
(ただ一言、小さく感嘆の声を漏らしながら少女の演奏を見つめる)
■奇神萱 > 主題は夏の夕べに夢見るように、穏やかにして健やかなる舞曲は聴く者の記憶に訴えかける。
今は遠く心の底に沈んで、忘れ果ててしまった何かがおぼろげに輪郭を現す。
サリエリ。コジェルフ。フォーグラー。彼女は師に恵まれて、最高の教育を受けて育った。
パラディスは声楽の徒でもあった。
歌い、奏で、曲を著し、後に続くものたちの指導に力を尽くした。
そして二度目の主題に戻る。甘く切なく、どこか物悲しく。
光を求めながら、ひたすらに強く生きた女性の姿を想う。
ヴァイオリンの持つ響きには、どこか声楽に似たところがある。
五線譜の彼方から彼女の歌声が聞こえなかっただろうか。
―――その響きは、生きざまは。きっと例えようもなく美しかったのだ。
弓を放す。一瞬の静寂。余韻が去った後に目を見開く。
最初の女子生徒は口を開けたまま魂が抜けたような拍手をしていた。
気付けば人だかりができていた。黒髪の少女と目があって、控えめな笑みを返した。
「今のはマリア・テレジア・フォン・パラディスの『シチリアーノ』」
「次はもう少し有名どころでいくぞ。かなりの人間が一度は聞いてるあの曲だ」
「聞けばきっと思い出せるさ」
「ニコロ・パガニーニ作曲。フリッツ・クライスラー編曲」
「『ラ・カンパネラ』」
■メア > っ……
(こちらに微笑みを向けられると驚いたような顔をして何とか笑顔を返そうとする)
かんぱね…ら……
(思ったより男勝りな口調にも少しだけ驚きながら新しい演奏を聞く
彼女の言う通り知ってはいる、どこで聞いた窯では思い出せないが…それでもやはり知っている)
■奇神萱 > ヴァイオリン協奏曲第2番ロ短調『ラ・カンパネラ』。
ニコロ・パガニーニには破天荒な暮らしぶりと華麗なる演奏技巧の裏打ちがあった。
パガニーニの「悪魔の音色」は同じ時代を生きたリストを魅了し、ピアノのパガニーニになることを決意させた。
そして生まれたのが『パガニーニによる超絶技巧練習曲』だ。超絶と言われるだけはある。
この作品は奏者によってかなり印象が分かれる作品だ。
ダヴィッド・オイストラフの演奏はとにかく謹厳実直で、ヴィルトゥオーソの揺るがぬ覇気に満ちていた。
軽妙洒脱に小粋な音を探るもよし、ひたすら陽気に演るのが好きな奏者もいる。
俺はどうだろう。鐘《ラ・カンパネラ》の音は晴れやかであるべきだと思ってる。
無闇やたらと悲観的で重苦しい鐘があってたまるか。ただ弾けるだけじゃ到底足りない。
曲の難易度は隔絶しているが、もともとの成り立ちからして人を魅了する華のある曲だ。
パガニーニのように魅せられるかどうかは、奏でる者の腕次第。上等じゃないか。
この世ならぬ伴奏者のピアノが競うように響きあう。
そろそろ油が乗ってきたかね。
■メア > (明るく気分を盛り上げるような曲調に辺りの熱気も増している)
っ…ぅ、あつ……
(ふと気が付けばペットボトルの中身も空になっている
この演奏をもっと聞いていたいがこれ以上ここに居ると体がもたない
少し名残惜しそうに少女を見て、聴衆の間を小さな体を活かして縫うように抜けその場を去っていく)
ご案内:「学生通り」からメアさんが去りました。
■奇神萱 > 「鐘のロンド」は鮮やかな幕引きを迎え、歓呼の拍手に押し包まれる。
気付けば黒の少女はいなくなっていた。この夏の暑い盛りだからな。無茶は禁物だ。
そういう俺自身もすっかり息が上がっていて、身体じゅうが汗ばんでいた。
この暑いのにブレザーなんか着てるからだ。このまま続けるとぶっ倒れかねない。
「日陰に移るか。どいたどいた!」
小銭のたまったケースを畳んで大きな陰が落ちている場所に移る。
ここでなら日が沈むまでだって続けられるはずだ。
「さて、次はマヌエル・マリア・ポンセの歌曲を贈ろう」
「《ヴァイオリニストの王》ヤッシャ・ハイフェッツが弾いて大ブレイクした」
「『エストレリータ』。小さな星って意味だ」
■奇神萱 > ポンセは南米メキシコのアイデンティティに属する作曲家だが、メジャーデビューを果たした場所はニューヨークだった。
後年はパリ音楽院でも学んでる。そういういきさつもあって、ポンセの作品には新古典主義の血が流れてる。
『エストレリータ』は歌曲だ。歌がついてる。作詞もポンセ自身がやった。
愛を求める女が小さなひとつ星/エストレリータに問いかける。
彼の気持ちを伝えて欲しいと。
中南米でヒットして、すぐに世界中で歌われる様になった。
ハイフェッツの演奏も片肘が張らないもので、それが一層評判を呼んだ。
白黒映画に残った映像も、名匠のさりげないポルタメントがレトロな味を出してる。
古きよき時代の古きよき歌。
だからこの曲は優雅に演ろう。
■奇神萱 > 白黒映画の終わりには、スクリーンに映るハイフェッツを食い入るように見つめる少女が出てくる。
大事なヴァイオリンの弦を押さえて、世界最高のヴィルトゥオーソみたいに弾けるように真剣に真似をするんだ。
老境に向かうハイフェッツとヴァイオリンを抱く少女。
エストレリータを仰ぐ女にも似ている。
あの女の子が成長して、大人になって、婆さんになってもこの曲を聴けば思い出したに違いない。
―――自分には決して手の届かない、憧れていた人の姿を。
余談だが、レコード会社のポカかなにかがあって、ポンセには印税が一銭も入らなかったそうだ。
世紀のヒットナンバーで大金持ちになる夢も、はるか遠くの空に輝くエストレリータになってしまった。
ままならなさがそれらしい、と思えるのは部外者の気楽さだろうな。
■奇神萱 > 何度目かの拍手。『エストレリータ』は割れんばかりの拍手を貰うような曲じゃない。
聴衆はそれなりに満足してくれた様だ。
案ずるより何とやらで、すこし拍子抜けしていた。
グァルネリウスじゃなくてもいいのか。不安を抱いていたのが阿呆らしくなってくる。
ここは人と人が向かい合う場所。そこで起こることは全て奏者自身の問題だ。
道具の良し悪しは従属変数のひとつに過ぎない…というのは言い過ぎだろうか。
ここまでやればもう十分。潮時だ。冷たいものでも飲みに行こう。
「紳士淑女のみなさまがたのご清聴に心からの感謝を。それでは、いつかまたどこかで」
気障ったらしい口上を吐いて一礼し、店をたたんでその場を後にした。
ご案内:「学生通り」から奇神萱さんが去りました。