2015/08/01 のログ
奇神萱 > 哀愁を漂わせたくだりを超えて烈しく大胆な旋律が帰ってくる。
その後は目の回るような疾風怒濤のピチカートの連打だ。

この曲は昔から技巧派の奏者たちに好まれてきた。
イツァーク・パールマンは歓喜の色彩も濃く、感情豊かに奏でてみせた。
ユーディ・メニューインの情熱的なボウイングも素晴らしい。
この時代、先人の遺産が身近になっているおかげで随分恩恵を受けてきた。

謎のヴァイオリニスト現る。傍から見ればそんな感じだっただろうか。
はじめの曲が終わって弓を放したとき、大半の客は放心状態のままだった。
拍手をしていいのかどうかもわからずに顔を見合わせているような具合だ。

ヨキ先生とその周囲だけは違っていた。記憶の扉に手をかけていたのだろうか。
そこには見るものを慄然とせしめる空気―――終わりなき悪夢の夜の凄絶な緊張感がみなぎっていた。
聴衆に恵まれている。あまりにも得がたい僥倖だ。

「今のはパブロ・サラサーテの『バスク奇想曲』」
「スペインでも特にユニークな伝統を持ってるバスク地方のカラーが強い作品だ」

「今度はもっと夏っぽいのを演ってみるか」
「アーサー・ベンジャミンという名前を知ってるだろうか?」
「そこの男子。お前だ。―――知らない? そうだな。俺も知らなかった」
「20世紀の作曲家だ。出身はオーストラリア。チャールズ・スタンフォードの秘蔵っ子だった」
「クラシックが専門だったが、ライトミュージックの仕事で大いに名が売れた」

「その名も『ジャマイカン・ルンバ』」
「楽しい曲だ。思いがけない形で名前が売れて、ジャマイカ政府は狂喜した」
「―――そして作曲家は大樽にぎっしり詰まったラム酒をせしめた」

この世ならぬ者たち/姿なき伴奏者が笑いさんざめく気配がした。
ルンバのリズムが始まる―――。

ヨキ > (手の下に覆い隠した唇は、いつの間にか歪に笑っている。
 『やってくれる』とでも言いたげに。

 研ぎ澄まされた技巧のうちに豊かが眠るその音は、間違いなくフェニーチェのものだった。
 音が止む。走り抜けた音が聴覚を置き去りにして、余韻の只中に身を浸す。
 拍手は、しない)



「(フェニーチェの音には、ただ身を任せるがよろしい)」



(奇神の声。その軽妙な語り口もまた、喪われた夜を想起させるには十分すぎた。
 人心を掴み、引き込み、振り回す――『全く以って、やってくれる』。

 曲調が華やかさを増す。
 テーブルの上に置いた右手の指先を震わせて、奇神から顔を背け、目だけで見る。
 徐に、ごく小さく、獣の身震い)

奇神萱 > ベンジャミンはヤッシャ・ハイフェッツと親交を持っていた。
ハイフェッツのために一から書き下ろした曲もある。
だから当然、『ジャマイカン・ルンバ』もハイフェッツのレコーディングが残ってる。
弦楽器でほかの例を探すと、ウィリアム・プリムローズもハマってた。
ヴァイオリンからヴィオラに転向した奏者で、その時もヴィオラで演った。

ジャマイカはキューバの南。ハイチの西側。アメリカの裏庭に浮かぶ島国のひとつだ。
愉快なメロディに惹かれて多くの人がジャマイカを知るきっかけになった。

ベンジャミンの作品世界はフランス近代音楽の伝統に根ざしている。
大家の高弟にのぼりつめたのも、ブラームスを深く敬慕するバックボーンがあってのことだ。
一見した限りでは、南国風の旋律は底抜けに明るくリズミカルで、にぎやかな色彩に飛んでいる。
それは素晴らしい美徳であって、多くの人にとって親しみやすく、肯定的な印象を与えるだろう。
だが、それだけじゃない。一皮めくればそこには力強い生の力が溢れている。
生の力。即ち《ヴィルトゥ》。呼び方はさまざまだが、新古典主義音楽の理念には欠かせないものだ。

ベンジャミンの代表作とはいえ、ヴァイオリン向けの譜面としては小品と呼ぶにも満たない作品だ。
陽気なる異端のしらべは最後の幕切れまでコミカルに、余韻を残さずに終わった。

今度は拍手らしい拍手で迎えられた。

「さて、次で最後にしようと思う。あえて解説はしない」
「わかる人だけがわかればいい、というのは少し勝手に思えるかもしれないが」
「届けたい人がここにいる。だから演るだけだ」

切れ長の金の瞳が射すくめるようにこちらを見ていた。
飢えた瞳だ。渇仰するものの瞳だ。幾多の夜に同じまなざしと出会ってきた。
俺はこの目を知っている。

「ピョートル・イリイチ・チャイコフスキー作曲。『ただ憧れを知るものだけが』」

ヨキ > (フェニーチェが織り成す演劇に、それに心奪われる観衆に、そしてあの客席には、劇場には、路地には、うねりすら描けぬほどに無軌道なダイナミズムがあった。
 それは鳥の姿をしていた。そして今、その尾羽が眼前に翻るのを見た。

 店内が拍手に沸く。
 それでもヨキは手を打ち鳴らすことをしなかった。

 止むことのない音楽に、身体じゅうの血肉を内側から引っ繰り返されたような感覚があって、ひとつ息を吐く。

 滑るようにテーブルの陰へ落とした右手の指先が、密やかに脇腹を探る。
 触れた肌の一点が、生きた男の肉とは思えぬ弾力で布地越しの指を呑む。
 黒い生地に染み出した体液は、傍目にはしかと隠れていた。

 脇腹から離した指の腹に、錆を溶かし込んだように赤黒い血が――薄らと伸びる)

「……………………、」

(指を拭う。
 それだけだった。
 何事もなかったかのように、右手をテーブルの上へ戻す。

 その身に纏わりついて離れることのない死の気配――鈍く湿って癒えることのない、呪われた傷。
 それを揺るがす、音が生きていることの証左)

(奇神の声。滑らかに淀みのない口上。
 先を促すように、ふたたび見据える)

奇神萱 > 協奏する異界存在が一気に数を増していた。フルオーケストラで望むつもりか。
これまでと打って変わって重厚かつ情感豊かに大気を震わせる。

―――ただ憧れを知るものだけが。俺にとっては少し特別な曲だ。

このリートはゲーテの小説『ヴィルヘルム・マイスターの修業時代』から生まれた作品だ。
可憐なる少女ミニヨンの歌う悲痛のこころは多くの作曲家に芸術的霊感をもたらした。
チャイコフスキーだけじゃない。ベートーヴェン。ルビンシュタイン。それにヴォルフの『ゲーテ歌曲集』も。
中でもシューベルトの執心ぶりは凄まじく、11年の間に7回の作曲を試みている。

20世紀に入ってからは、フランク・シナトラが英語版の歌詞で歌った。
全盛期の声は甘くもほろ苦く、恋の歌らしい仕上がりだ。

ただ憧れを知るものだけが、私の苦しみをわかってくれる。
憧れを、渇きを知っている人だけが―――。

取り返しがつかなくなってはじめて、失われたものの大きさを知る。
受け入れたはずの想いに打ちのめされる。
焦がれる心を持たないものに、この苦しみはわからない。

俺は恋の歌だとは思わない。ここで歌われているのはもっと普遍的な感情だ。
たとえば同性同士でも成り立つものだ。憧れという名の想いは。

ヨキ > (人語に溺れ、沸き立つ情念の焔に身を焦がし、周囲を灼くことをも是とするヨキが、言葉なくして聴き入っている。
 奇神の心を何一つ読み取ることも出来ぬまま、流れる音を目と耳と肌とに刻み込まんとするかのように)

奇神萱 > この作品には作曲家自身の私生活も大きく影を落としている。
世に出されたまさにその年、チャイコフスキーは愛する人を失った。破局を迎えたのだ。
それが作曲家の感性にどれほどの激震をもたらしたのか知る由もないが、彼は別離することの意味を知った。
胸に深く刻まれたまま、決して消えない想いのことも。憧れを抱いて生きてゆくことの痛みを。
薄幸の少女の魂の歌を現世に呼び下ろすことを思い立ったのは、決して偶然ではなかったということだ。

チャイコフスキーの作風はたとえ歌曲であっても言語に囚われない強さを持つ。
強さ。強さだ。五線譜に託された想いの強さが感情を直に揺らし、励起させるのだ。
極限まで高鳴る旋律は幻のように消えて、ふたたび縁(よすが)をたどるように主題を繰り返す。
残された人々が、いつまでも胸を焦がして生きてゆくことを暗示するかのように。

客観時間にしてわずか数瞬の忘我。静けさが降りて、ふと我に返った。
そして魔法は解けていく。壁に掛けられた時計がふたたび時を刻みだす。
ざわめきが戻ってくる。

拍手の中を席まで戻って、先生の真向かいに腰かけた。

「譜面台がいる。軽くて小さく畳めて持ち運びに便利ながやつがほしい。頼めるだろうか」

コーヒーフロートは完全に溶けていた。

ヨキ > (消えゆく演奏と、尾を引いて滲むように現れ、やがてさざめく拍手の音と。
 獣が硬く警戒するように動かさずにいた手をゆるりと解く。

 左手を支えに、右手を打つ。目を細め、心のうちを掻き乱されたように深く笑って、拍手する)

「――ありがとう。いい演奏だった」

(『いい演奏だった』。その一言の中に、どれほどの感情が込められているか察せられる者は少ないだろう。
 向かいに着席した奇神の言葉に、少し黙って、のち首肯する)

「…………、いいだろう。このヨキが、とっておきを拵えて君にくれてやる。
 御代は……そうだな、」

(テーブルに肘を着く。僅かに身を前に乗り出す。声を潜める。
 獣が得物を見分するかのような、小さな首の動き。笑む唇の隙間に並ぶ牙)

「――フェニーチェのメンバーは、あと何人残ってる?
 名前と……役割。あとは居所が、判るならば知りたい」

奇神萱 > 耳の肥えた聴衆からの賛辞は何者にも替えがたい価値を持つ。
体調の良し悪しを隠すことさえできない相手だ。この緊張感が好きだった。愛していた。

「有難い。学生にも手が出せそうなのが有難いが」

ヴァニラ味に染まりきったコーヒーで喉を濡らした。

「どうして俺に聞く? 俺は奇神萱だ。聞く相手を間違えてないか」
「そもそもだな、個人の消息を知って何になる。サインでも貰いにいくのか?」

「考えてもみてほしい。『大女優』が脚本を書いて、『脚本家』は演者になった」
「『癲狂聖者』に至っては自力で舞台監督までやった。涙ぐましい話だ」
「俺も一度しくじってるんだよ。一人一人の力はたかが知れている。その質問に意味があるとは思えないが」
「………五人。それか六人。うち四人は行方不明だ。死んでる可能性の方が高い」

「あとの二人か。片方は公安が知ってるんじゃないか。最後の一人が―――」
「待てよ。三人だ。『伴奏者』が現れた。グァルネリウスを持っていかれた」

ヨキ > (奇神からの指摘に、ひどく楽しげにくつくつと肩を揺らして笑う)

「は。間違えようも何もあるものか。
 ヨキはそもそも、君が何者であるかも詳しくは知らんのだぞ。
 君に『フェニーチェと何らかの関わりがあった』。それだけだ。

 ……消息を知って?何だ。それこそ愚問ではないか。

 愉しいからだ」

(傍のグラスに満たされた水を煽る。乗り出したままの姿勢で目を伏せて笑うと、目尻の紅が僅かに玉虫色の光を帯びる)

「ふうん――『大女優』に、『脚本家』に、『癲狂聖者』。
 君は、語るヒントまで暗号文のようだな。確かにそういう意味では、訊く相手を間違ったやも知れんがな。

 『グァルネリウス』……持って行かれた、ということは、それが君のヴァイオリンか。
 ……言っておくが、誰が何と答えようと構いやしないのさ、このヨキは。

 不死鳥は、とっくに灼けて墜ちたんだろ。
 あれだけ大きな鳥だった。どれほどの燃えカスが散り残っているとも知れん。
 在るものを探し出すより、無いものを『無い』と断じられるまで探し尽くすことの方が困難なのだ。

 ……いいや。もしかすると、探すなどと言うほどですらないな。
 『彼らを心に留めて歩くこと』。それだけだって構わない。

 ヨキは彼らを、愛していたのだから」

奇神萱 > 「興味本位かよ。そりゃいい」

片手で顔の半分を覆って笑い返した。

「それなら尚更面白い。お前が愛しているといったもの……たしかに関係がある」
「お前はいま、不死鳥を殺した女と話してるのさ」
「『伴奏者』は奇神萱にぶっ殺された。刺されて死んだ。あっという間の出来事だった」
「そして劇団から音が消えた。後のことは知っての通りだ」
「女の父親には力があった。金も有り余ってる」
「おおっぴらに報道はされなかったが、風紀の記録にはしっかり残ってる」
「入院記録なんかもな」

今度はこちらから身を乗り出す番だった。

「知りたいなら教えてやる。奇神萱に殺されなけりゃ、最期の夜に間に合っていた」
「『伴奏者』は現れたかもしれない。音がついたかもしれない」
「公演は成功裏に終わったかもしれない。『団長』が永らえていたかもしれない」
「だが、不死鳥の命はあの夜に尽きた」
「一番柔らかいはらわたに、この手がナイフをねじ込んだ」

「―――そんなに昔でもないが、あの劇場には梧桐律という生徒がいた」
「演目にあわせて即興で音楽をつけるのが役目だった。『伴奏者』と呼ばれていた」
「グァルネリウスはそいつの仕事道具だった。墓の場所くらいは教えてやる」
「今は空っぽになってるかもしれないが、花束のひとつでも手向けてくれたらきっと喜ぶ」

メモ紙に墓地の住所と番号を走り書きして渡す。

ヨキ > (奇神の目と真っ直ぐに向き合って、その言葉を聞く。
 彼女が『伴奏者』を手に掛けたという真相さえ、奇神言うところの『パズルの一ピース』に過ぎないかのように)

「…………、ほれ。こういうとき、二の足を踏むのは時間の無駄だ。
 目にした手掛かりは、余さず拾い上げるのがヨキのやり方よ。
 いずれの組織にも偏らず――一等の暇人という訳だ」

(近付いた顔の、その双眸を覗き込む。
 差し出されたメモを指先に挟んで受け取り、一瞥し、懐へ仕舞う)

「ほう?君は全く、不思議な物言いをする。まるで奇神君の口を借りて、『伴奏者』本人と話しているかのように。

 このヨキの為すすべては、他愛のない児戯に等しい。
 ヨキがフェニーチェの姿を、もはや丸ごと捉えきれるとは思っておらんのでな。

 だが――それでも良いだろう?
 人間らしく、弔いくらいはさせてくれ。あるいは犬のように、骨のひとつは拾いたい」

(紙のコースターを裏返す。
 ボールペンを取り出し、自分の携帯電話の番号とメールアドレスを書き付けて、奇神へ差し出す。
 そうして徐に席を立つ)

「また教えてくれ。君が知る限りの、フェニーチェのことを」

(奇神の語るそれが、全貌でなくとも構わないのだと。
 自分と奇神と、二人分の伝票を取り上げる)

奇神萱 > 「なかなかいいご身分に聞こえるぞ。教師も案外暇なんだな」

金色の瞳の奥にこちらの青が映りこむ。近くないか?

「―――ああ! 私を愛し、知る人は/どこか遠くにいます」
「そう思うと眩暈がして/はらわたが焼け爛れる心地がするのです」

「ただ憧れを知るものだけが/私の苦しみを知るのです―――最後の曲には歌詞があったんだ」

梧桐律は演者としては三流もいいところだった。もっぱら奏者をしていただけだ。ひどい大根でも許して欲しい。
コースターの裏を見て、そのままケースに放り込む。

「目当ての獲物を追いかけるのは猟犬の性か。何かわかったらこっちにも教えてほしい」
「確実に言えることがひとつだけある。『伴奏者』は死んだ」
「もしもどこかで見かけたら、そいつは真っ赤な贋物だ。遊んでやってくれ」

とっさに反応して手をのばすも、自分の分の伝票は手の届かないところへとすり抜けて行って。

「またご馳走になる流れかこれは。そんなつもりじゃなかったんだが。奢られる側になるのは慣れなくてなぁ」
「……いや。いい。いいさ。気にしないことにする。ごちそうさま。譜面台の件も考えておいてくれると嬉しい」

外を見れば日差しがだいぶ傾いていた。夕方から夜までどこかの軒先を借りてみるか。
ヨキ先生に別れを告げて、その場を後にした。

ヨキ > 「弛まぬ研鑽というやつだ」

(ふっと笑う。顔の距離が近いことにも平然としているのは、余程慣れているらしい。
 奇神が歌い上げる言葉に、笑って頷く)

「……なるほど。ヴァイオリンに歌わせた方が、聞こえはマシやも知れんな。
 だがその器量に免じて、今回は認めてやろう。このヨキは面食いなのでな」

(冗談めかして、肩を竦める仕草。この男の方が、よほど演劇じみている)

「この猟犬に、遊べと言うか。いい度胸だ――わかった。
 『伴奏者』名乗る者あらば、気の向くままに。君が命ずる、そのとおりに」

(教師はおろか、落第街の住人とも判別のつかない酷薄さで、にたりと笑う。
 からかうように掬い上げた伝票を、ひらりと揺らめかす)

「前回は、君の満身創痍に対する労わりさ。
 それで……今回のこれは、おひねりだ。今日という今日は、君の演奏が聴けたからな。

 譜面台の件も、任せておくがいい。君の永い供となるよう、手を尽くしてやろうじゃないか」

(踵を返す。背を向けたまま手を振って――店を離れる)

ご案内:「カフェテラス「橘」」からヨキさんが去りました。
ご案内:「カフェテラス「橘」」から奇神萱さんが去りました。