2015/08/05 のログ
■イーリス > 男子寮、日恵野ビアトリクスの部屋。
この部屋の主はここ数日の間留守にしていた。
神宮司ちはやの帰省に付き合って、常世島を離れていたからだ。
戸締まりされ、照明の落とされた暗黒の室内。
誰も踏み入れないはずのその場所。
デスクトップPCに――ひとりでに電源が入った。
■イーリス > 電源の入ったモニターが、暗い室内を照らす。
そして、そこから――何かが出てくる。
手が。足が。そして体全体が。
『どっこいしょ』――とでも言わんばかりの、何気ない所作で
そいつが這い出してくる。
仮にこれを目撃していたものがいたとしても
思わず見逃してしまっていたかもしれない――そのぐらい、あまりに自然すぎる動き。
「携帯端末、PCともに防諜呪術の処理は施してあるようだが……
障子戸のほうがもう少し抵抗してくれるぞ、我が息子よ」
這い出した人影は、男性のようにも、女性のようにも、
老人のようにも、若者のようにも見える――。
ノイズ混じりの声が――かろうじて、それが女性であることを示す。
『永久イーリス』……それが彼女の使う、現在の名前だった。
■イーリス > その輪郭は瞬間ごとに変わり、朧気でとらえどころがない。
仮に写真に撮影したところで、彼女の『印象』を写しとることは不可能だろう。
イーリスの操る異能――《トロンプ・ルイユ》の一端だった。
《トロンプ・ルイユ》は、便宜上異能に分類されているが――
実際のところ、異能か魔術かの判別は難しい。
発達しすぎた科学は魔法と区別が付かない、という言葉があるように。
発達しすぎて個人にしか扱えなくなった魔術もまた、異能と区別はつかない。
「さて」
イーリスはPC前の椅子に座り、マウスで操作を始める。
――ブラウザの閲覧履歴を遡り始めた。
数分で、目当てのものを探り当ててしまう。
「――――あれほど言ったのに」
ため息をつく。
「――――ネットでいやらしいものを見たな?」
■イーリス > 「やれやれ、自衛意識がなっていないわね。
大変容以前よりウェブ上のいやらしいコンテンツは
攻撃の隠れ蓑にされてきたというのに……
そんなことも忘れてしまうぐらいに、欲求不満だったのかしら?」
ブラウザに表示されているのは、『トコトコ生放送』のサイト。
すでに該当する放送は終了しているが、
そこで何が配信されていたのか、知ることはたやすい。
永久イーリスはひどく用心深い。
誰が見ているわけでもないのに《トロンプ・ルイユ》で姿をごまかし続けているのがその証拠だ。
多くの呪術は対象指定が必要だ。
ところが、現在のイーリスのように輪郭が絶えずぼやけていると
その対象指定が不適正に終わってしまう。
ある程度のスパンで、名前を変え続けているのも呪術対策の一環である。
「まったく。
肉体的欲求不満なら、言えばいくらでも解消させてやるものを」
教育を間違ったのだろうか。いいやそんなはずはない。
ぼやきながら、ブラウザを最小化し別のものを探し始める。
さり気なく隠蔽されていたファイルを、苦もなく発見する。
「……お、あったあった」
ビアトリクスが誰の目にも留まらないよう
ローカルで保存し編集していた、日記のテキストファイルだった。
■イーリス > まったく容赦も躊躇もせず目的のテキストファイルを開く。
『日記を記すなら物質的に残らない、HDDローカルのテキストファイルにしておけ』
とビアトリクスに助言したのはほかならぬイーリスであった。
「……ふむ。なるほどね」
しばらく読みふけったあと、得心したように頷く。
「好きなやつができたのね」
立ち上がる。口元に手を当てて、室内をとたとたと、ぐるぐると歩きまわる。
『探偵歩き』と一部の人間に呼ばれる歩き方だった。
「う――……ん」
大魔術師、永久イーリスは困っているように見えた。
■イーリス > もちろん、永久イーリスに……
息子の恋を祝福してやろうとか応援してやろうとか、
そういった考えは発想レベルで存在しなかった。
そもそも、『ビアトリクスが誰かに恋愛感情を持つ』という可能性にすら
思い当たっていなかったのかもしれない。
「――昔っから、あいつは私のいうことを聞かない」
不器用なりに親らしく振る舞ってきてやったつもりだった。
食事も与えた。寝床も与えた。学費も出している。
常世学園に入りたいなどという我儘も許してやった。
ああ、しかし、それなのに。
イーリスには、ビアトリクスが自分の意向に反し、自由意志を持って行動することが
どうしようもなく不可解でしかたない……。
「ああ、そうだ、あれか……こういう時は、アレだ。
『家族会議』って、やつよね」
最近覚えたばかりの言葉を、使ってみました、みたいな口ぶりで言葉を残し。
入ってきた時と同じように、モニターを通路にして何処かへと消えていった……。
ご案内:「部屋」からイーリスさんが去りました。