2017/07/13 のログ
ご案内:「異邦人街」に筑波 察さんが現れました。
筑波 察 > 「やっぱり何度来てもここは面白いねぇ」

(異邦人街の大通り。ここは今まで自分が見てきた街や世界とは全く違った趣だ。
異世界からやってきた存在が自治するこの街は、
いつ来ても自分の知りえないものがたくさんある。
そしてここを行き来する人もまた面白い。
見てくれが人間のそれとは大きく異なる者、
パッと見、人間とそっくりだがごく一部、身体の形が違うもの、
その違いを上げ始めたら指が何本あっても足りないくらいだ。
何か新しいものを、発想を、刺激を求めるには
これ以上適した場所は世界中どこを見てもここだけだろう。
何を買うでも、何を見るでもなく、ただ目に留まったものを追い、
飽きたら足を進めていく>

筑波 察 > 「でもここに来るとちょっと寂しい気もするねぇ」

(学園の意図としては、異世界からやってきた存在が、自分の故郷を再現する意図がある。
誰だって多かれ少なかれ、自分の故郷を顧みて、懐かしんで、感傷に浸ることがあるだろう。
そんな感情を紛らわす意図は、公式に発表されていなかったとしても感じ取れる。
だからなのか、ここに者たちを見ていると、少し寂しさを感じてしまう。
自分の故郷を、文化を再現し、同郷の者たちとそれを共有する。
それはとても素晴らしいことだし、欠かせないことだろう。
でも、自分が慣れ親しんだ故郷だからこそ"本物とは違う"という、
一種の違和感のようなものが影を落としている部分が在ると、
そう感じてしまって仕方がない>

筑波 察 > 「ま、僕は生まれも育ちもこの地球。本島に戻れば慣れ親しんだ世界があるし」

(この街に家を持って、生活を営んでいる者がそう思おうと、僕には関係ないのである。
関係ないし、僕が首を突っ込んでどうこう口をはさむ余地などどこにもない。
時折「お前は周囲に対して関心がなさすぎる」と言われてしまうことがある。
それで人を泣かせてしまったこともあった。でも全く無関心というわけじゃない。
僕にだってほかの人と関わりたいと思うことはざらにある。
でも、いざ人を目の前にしたとき、目の前にいる人のどこかに、
自分を置くスペースを見つけられないことがある。
もしくは今の自分の中に、相手を置くスペースを見つけられないことがある。
そんな時に、無理にスペースを空けて受け入れることが、正しいとは思えない。
この街に住む人たちに対しても、まったくもってそんな感じなのだ>

筑波 察 > 「さて、今日はそろそろおなか一杯だから、帰路につこうか」

(大通りを一通り見て回ると、踵を返してきた道をたどるように戻っていく。
この街に住む異邦人がどんな気持ちで暮らしているかなんて知ったことではないが、
それでもこの場所は結構お気に入りなのだ。
自分のお気に入りの場所に住む人が、暗い顔をしているというのは、
例え想像の中の話であっても面白くはない。
そんな詰まらないことを想像して歩くくらいなら、
何も考えずに馬鹿みたいに生きていた方がずっと楽だ)

「この後帰って何しようかなぁ」

ご案内:「異邦人街」から筑波 察さんが去りました。