2015/09/10 のログ
ご案内:「落第街大通り」にヨキさんが現れました。
ヨキ > (がやがやと騒ぎ立てる喧騒の中で、ひとり買い物をする姿がある。
 安っぽい赤色の電球、いくつの言語とも知れない文字が縦横右左と輝く看板。そういう灯りを頼りに、薬だの、乾物だのと次々に買い込んでゆく。

 この不真面目な学生たちが集う界隈のこと、ヨキを教師、あまつさえ美術などという『マイナーな』教科を教えていることを知る者はいない。
 誰もヨキを気に留めはしない。寄らば去れ。ただそれだけの、刹那的な人間たちの集まり)

ヨキ > (薄手の上着の裾が、歩き出した風に揺れる。
 その端を不意に掴む手があって、振り返る。人がようやく通れるほどの、ビルの狭い隙間。
 それは女の手だ。大人びて笑う、まだ歳若い娘の顔。学園生活からドロップアウトしたということ、ヨキはそれしか彼女の素性を知らない。
 笑い交じりの吐息)

「――ん?んん。うん。また今度。――、今日はいい。うん。……」

(他の耳にはおよそ届かないほどの、低くくぐもった囁き。
 ヨキの長身が女の姿を覆い隠し、暗がりに深い影を落とす。

 一瞬の間。

 重なり合った二人の影が、すいと離れる。
 睦言を秘めた眼差しが無言のうちに交わされて、雑踏に戻る。
 人波に顔を引き戻す――ヨキの顔は、もともと独りきりであったかのように醒めていた)

ヨキ > (この街区には、異邦人街さえ馴染めなかった異邦人も少なくない。
 迷路のように伸びる道を迷わず進み、しんとした一角に辿り着く。
 古いビルのガレージに、ぽつりと開かれた段ボール箱の古書店。
 大して本を好くでもなく、暇に任せて店番だけをやっているような魚人の店主。
 愛情に欠けた安価と淡白な不干渉を気に入って、こうしてたまに足を運ぶ)

「こんばんは。……ああ、いい。あるのだけでいい。見るだけだから」

(店主が本の詰まった箱を開封しようとするのを辞する。
 何しろ段ボールを跨いでにゅっと伸ばされた鱗の腕から、水滴がばたばたと落ちるのだ。
 然るべき店に持ち込めばそれなりの値が付きそうな旧い布装本の背に、無慈悲な湿り気が点々とこびりつく。

 いわゆる「せどり」など、この本に無関心な店にあっては容易い真似だ。
 しかし少なくともヨキはそれをしなかった。
 この古本屋の秩序は、この段ボール箱の中にのみ収まっているべきものだからだ)

ヨキ > (店主は他に生業を持っているらしかったが、ヨキは詳しく聞いたことがない。
 そもそもこのガレージのある建物が、店主の住処かどうかさえも。
 『表は好かなくてよ』、その短い一言の中に、ヨキは含みを察して何も訊かないことにした。

 箱の奥、色褪せた雑誌の間に黄ばんだ文庫本の背を見つけて、きつく挟まり込んだそれを抜き取る。
 旧いかな使いの、さる美術家の随筆集だった。日に焼けて、濡れては乾き、他の本の重みに形作られた、見捨てられて久しいことが分かる。

 百円玉で釣りが来る。店主とほとんど無言のやり取り。
 ではね、と軽く手を掲げ、紙袋の包装さえされない文庫を携えて通りへ戻る)

ヨキ > (肩に提げた鞄に買い物の小ぶりな紙袋を押し込んで、文庫本をぺらぺらと捲りながら道を歩く。
 元よりこの落第街のこと、本を読みながら歩くなど出来ようもない。
 行き交う人の流れから外れて、無人の建物の外壁に背を預ける。
 埃っぽい雑な舗装の地面に構わず座り込み、ひとり本を開く。
 今のところ、誰も傍を通る気配はない。
 電球の灯りに眩む獣の目をしばたたかせて、細め、文面に目を落とす)

ヨキ > (旧い文字。旧い言い回し。旧い時代の旧い人々。
 ヨキはそうした時代があったことを、文字と言葉の上でしか知らない。
 人として生きるに、知らぬこと、知らねばならぬこと、もはや知ることの出来ない物事はあまりに多い。

 そのような波を目の前に立ち尽くすごと、この犬の目はくらくらとして止まない――
 時間が、距離が、輪郭が、ありとある隔たりが容易く失われて交じり合う。
 普段はそれを意識さえせずにこなす頭と心の在ることが、時として不思議でならなかった。

 ものを考える、とは、とてつもなく遠大だ)

ヨキ > (美術とか、学園とか、常世島とか、秩序とか。
 時にそういった考えから更に百歩くらい後ずさりたいときがある。
 落ち着いているとか、人間だとか、獣だとか、機械だとか。
 時にそうして評される自分を、自ずから手放してしまいたくなることがある。
 物心ついたばかりの子どもが、途方もない物事へあいまいな思いを巡らせるかのように。

 本を読むことは別段巧くないが、好きではあった。
 揺れる思考を碇のように繋ぎ止め、ただ文字の海に身を投げ打つことの出来る本が)

ヨキ > (買い求めた本は、幸いにも洒落た書き出しをして、結びの一文にもまた余韻が察せられた。
 間がどれほど退屈で冗長だろうと、目を引く言葉のあることはそれだけで価値がある。

 本を閉じて立ち上がる。
 誰の目にも付かぬように、ただ独りで歩きたかった。
 踵を返す。獣道に似た暗闇へ足を向ける。淀みない足取りで歩き出し、落第街の外へ。
 歩むうち不穏な街の空気は払われて、表の街に交じり込むこともないだろう)

ご案内:「落第街大通り」からヨキさんが去りました。