2015/07/26 のログ
ご案内:「ミラノスカラ劇場跡」にビアトリクスさんが現れました。
ビアトリクス > ミラノスカラ劇場、であったはずの場所。
炭と砂が足元で音を鳴らす。
「…………」
あたりに人の気配を感じることはできない。
劇団員などいるはずもないし、公安にしたところでここを保持する価値はなくなっている。
火事場泥棒――のつもりもないが、何か珍しげな物品でもないかとあたりを見渡したが、
そのようなものはもちろんない。
あれば公安か劇団員が回収しているか、その他落第街の住人によってとっくに盗まれているだろう。

逸脱と背徳の劇団、フェニーチェ。
事実上、常世学園にはもう存在しないに等しい。
ありていな言い方をすれば観光のようなものだ。
不死鳥の去った場所に、何かしらの霊験が残ってはいないか、と。
それを少しだけ期待して、足を運んだ。
落第街という地区に慣れたわけではないが、ここ最近の数々の事件で
妙な度胸はついてしまった。

生気のない、死に、朽ちゆくばかりの廃墟。
それはビアトリクスにとっては好ましい場所でもあった。

「…………」
スケッチブックを、パラ、パラとめくる。

ご案内:「ミラノスカラ劇場跡」に『脚本家』さんが現れました。
『脚本家』 > ───灼熱の炎に灼かれた其の劇場の跡。
栄光の日々を過ごした劇団フェニーチェの所有していた大劇場、ミラノスカラ劇場。
其れは激情に灼かれ、もう既に当時の栄華などはもう見る余地もない。
其の廃墟は。
ある意味朽ち果てたことに依り、生の尊さを、儚さを視覚に直接的に訴えかける。

そんな廃墟で。そんな過去の遺物の城で。
───何の因果か。関節の外れてしまった劇団の中でも一層逸脱した"其れ"は。
少年の前にゆらりと、まるで幽鬼が如く姿を現す。
苛烈は。激情は。超然は。逸脱は。

「やァ、───探し物かい、スケッチブックの君」

形を成して、彼の前に姿を現す。
ぱらぱらとスケッチブックを捲る彼に、薄ら笑みを浮かべ乍ら。

ビアトリクス > かろうじて座れそうな椅子の残骸などは見つかったが、座るほどの度胸はなかった。
公安による焼き討ち。
フェニーチェ団員の造反。
単なる大掛かりな『演出』。
焼失の原因はいくつかのパターンの流言となって落第街の外へと飛び回った。
そのいずれかが真実であろうとも、ビアトリクスにはさほど興味のないところだ。
スケッチに適した場所を探そうとしたところで――
それが現れる。

優等生然とした制服の着こなし。
冬の湖を思わせるその顔立ち。
落第街という地区についてまわる、暴力や背徳の気配とは
程遠い雰囲気をまとわせた少女。
しかしそれが、この場においてあまりに堂々と立ち振る舞っていることが、
ビアトリクスの感覚は、『異質』であると告げる。

「――不死鳥が羽根の一つでも、落としてはないかと思いまして。
 ……あなたはなぜ、このような焼け跡に?」

薄ら笑みに向き合う――視線は胸元あたりに落とされる。
表面上は冷静さを取り繕い。
言いながら、茶番であるな、と胸中で苦笑する。

『脚本家』 > ───ごとり、と。
重い音を立ててブーツの踵が其の劇団の夢の跡を、興奮の残滓を踏みにじるようにして静寂の空間を引き裂く。
不死鳥の住まう劇場が灼けた理由は。
焼き討ちなのかもしれない。造反なのかもしれない。『演出』なのかもしれない。
火のないところに噂は立たない。
灼かれた劇場から流れて、零れた流言の何れも正解なのかもしれない。
其の真相を、彼女も知ることはない。
ただ、『そういう脚本をなぞっただけ』なのかもしれない。

姿を現した其れは、黒曜の双眸を携えて。
青玉の瞳と退廃的な金髪を抱えた彼を、頭の上から靴の先まで。
舐め回すように、じっとりと熱を孕んだ視線で見遣る。
果たして其れは興味か、羨望か、其れとも。

「不死鳥は生憎灰となって飛び去ったらしいが───」

一拍、すうと息を吸い込んで。口元を歪めて。

「何故って、此処は不死鳥の住処だからに決まっているじゃあないか」

当たり前だと云わんばかりに。
まるで元から用意されていた台詞を諳んじるように、其の言葉は彼女の口から零れ落ちる。
冷静さを取り繕う彼にほかの言葉を投げることはない。
胸中など知る由もない彼女は、堂々と。
毅然として彼の視界の隅の灼け崩れた椅子に腰を下ろした。

ビアトリクス > 靴の音と、朗々とした言葉によって。
この場が支配されていくのを感じる。

「……」
虚言の類でないことぐらいは、すぐにわかる。
その返答自体に、さほどの驚きはない。
むしろ、それを期待して、ここを訪れたようなものだから。
まさか羽根どころか、その本体が現れるとは、さすがに予想できていなかったが。

「ぼくは日恵野ビアトリクス。絵描きの真似事をしている」
落ち着くための、軽い咳払い。
目の前のそれに何を言えばいいか、いざ相対すると何も出てこない。

「本拠は焼け落ち、団員は離散、事実上の解散状態――
 それでも不死鳥は在る、と?」

現れた少女とは対称に、立ち尽くしたまま。
問い、というよりは確認に近い言葉。

『脚本家』 > まるで演劇の一幕のように。

「如何やら」

不死鳥は、灰でぺたぺたと固められた出来損ないの不死鳥は、ゆっくりと羽を休める。
彼の視界の隅、不死鳥の朱い鮮やかさは存在せず。
モノクロームの彩度の低い其の作り物は、彼の言葉をごくり、呑みこむ。

「興味心に溢れる芸術家は如何やら此処に惹かれるらしい。
 ───絵描きか。好い趣味だ」

にこり、と。
ごくごく普通に、まるでクラスメイトと談笑するように。
彼に向けて柔和な笑みを向ける。

「あァ、住処を灼かれ、団員は命を落としたものも多く────
 事実上、もう"劇団フェニーチェの団員で"演劇が出来なくとも不死鳥は此処に在る。

 灼かれ、より強い炎を、憎悪を孕んで不死鳥は再び生命を得る」

其の確認に丁寧に、ひとつずつ彼の言葉を反芻しながら。
彼女は両の手を大に広げて言葉を紡いだ。

ビアトリクス > 上機嫌な声が耳に入っても、こちらの気分が解れることはない。
違和感ばかりが頭の中でがさがさと音を立てて大きくなる。

魅入られたように、穏やかすぎる笑みを見つめる。
ひとりの少女に相対する、というよりは。
少女の形をしたひとつの門からその奥の奥を覗き込むように。

「憎悪を……」

劇場が廃墟と化したことも、団員が欠け過ぎていることも、
さほどの意に介してはいない様子を、脳髄が処理できずに悲鳴を上げる。
大きすぎる損失を、明らかに、そうとは捉えていない。
『絵具や筆がなくなっても、絵が描ける』
それぐらいの意味合いとしか思えない。
――目の前の人物は、団員を、絵を構成する支持体や筆、絵具としか考えていないのではないか。
その想像に、視界が揺れる。
からからに乾いていく喉で、声を絞りだす。残り火に舐め尽くされないように。

「あなたにとって、不死鳥――『フェニーチェ』とは、なんなんだ。
 フェニーチェで――何を、為そうとしていたんだ」

『脚本家』 > 少女の形をした違和感は。
少女の形をした超然は、ひとつの極まった『作品』は。
目の前の彼の腹の内など然程意に介す事もなく彼に言葉を返す。
問われたことを解りやすく。ゆっくりと、教師が生徒にものを教えるかの如く。
作り物の不死鳥の、出来損ないの不死鳥の口からころりと言葉が落ちる。

「名乗っておこう、劇団フェニーチェの『脚本家』だ」

彼の思考は極めて正常であると云えるだろう。
彼女にとって、劇団にとって損失が大きい筈の劇場の現状も、団員が欠けていることも。
───団員が欠けたときには、人知れず憎悪の炎を腹の内に飼っていたが。

『絵具や筆がなくなっても、絵が描ける』
『万年筆がなくなっても、脚本が書ける』
『はさみがなくなっても、衣裳を作れる』
『劇場がなくなっても、演劇はできる』

『───腹の内の激情が亡くならない限り』

彼女にとっては、『脚本通り』に他ならない。

誰に云うでもない、思案を巡らせる。
彼の溢した言葉を呑みこみ、更に彼を深い深い思案の井戸の底に叩きつけるように。

「僕にとってのフェニーチェは愛すべき劇団だ。
 愛すべき居場所であり、僕らの栄華の、僕らの演劇の象徴であり、夢だ」

先刻踏み躙った夢を、さも愛しい恋人のように、語る。

「グラン・ギニョールの再現」

「多少芸術に知識がある者なら知っていることだろうが───

 演者は浮浪者に街頭の孤児。娼婦に殺人嗜好者。
 表立っていい子が望む舞台劇には登場しないようなキャラクターを演じて──
 妖怪譚に嫉妬からの下らない殺人、嬰児殺しにバラバラ殺人、火あぶりに伝染病の恐怖。
 そんな歪んだ世界を再現したかった。

 そんな歪んだ世界で生きる人間の歪んだ『生きた感情』の味を知りたかった。

 仮面を被るだけのつまらない劇ではなく。人形が乱雑に動かされる人形劇ではなく。
 ───観客も含めて全員が演者であり、誰の脚本かも知れない劇を。僕は再現したかったのさ」

落ちる言葉はまるで水道の蛇口を捻ったかのように止まらずに流れ出す。

「『劇』をしたかったんだよ、『生きた』劇を」

朱い半月が、歪む。

「芸術家の君なら解るだろう。
 ────自らの『創作』が『生きる』瞬間の恍惚を。快感を」

じわりと笑みを滲ませて、彼女は少年に。
───同意を、求める。

ビアトリクス > 稀代の天才画家、パブロ・ピカソは92歳で没するまで様々な若い女性と付き合い、そして捨ててきた。
彼にとって女性とは創造の源泉(ミューズ)でしかなかった。
その非道たる行いは、彼という天才にとって、必要なことであると、むしろ肯定されていた。
人道が芸術という暴力の前に屈した一例である。

汗が噴き出す。歯噛みする。戦慄する。
一市民としてのモラルと、大犯罪者の認識の落差に恐怖したため――『ではない』。
自分もまた、他のあらゆる何事をも犠牲にしてでも、美を追求したい、と思う――
『芸術家の業』を、身の裡に飼っていたから。
『理解』できてしまう。

自ら行った表現が、人の心を躍らせて、狂わせて、その様までもがまた、表現の一部となる――
そんな夢を語られて、高揚しない表現者は、いない。

途方も無い理想。『脚本家』の描く絵図の形に、不死鳥の火に呼び寄せられる蛾のように
こうべを垂れようと、全身が動く。

――だが。

見えない鎖につなぎとめられたかのように、その動作が中途で止まる。

「それは」

歪められた端正な顔が、両手で覆われている。
ぐらついた姿勢、その指の隙間から、少女を見上げるように睨みつける。


「それは違う」


怒り、憤り、恐怖、震える声。

「『脚本家』。
 表現は、『現実』になってはならない。
 表現は、観客がいて、初めて完成する。
 全員が演者となり、表現となり、芸術となり、世界が歪んでしまえば。
 それを、誰が、観てくれる。
 それに、誰が、終止符を打つ。

 観客不在の表現など、塵屑にも劣る、ただの、――未完成品だ」

ビアトリクスは人道を語らない。
あくまで、ひとりの表現者として――『脚本家』の夢を、否定する。

『脚本家』 > 狂った芸術は、人の心を高揚させ、其れを正義と知らしめる。
パブロ・ピカソも『脚本家』も其の根本は全く同じものである。
『芸術』を愛する一人の『芸術家』であり『表現者』である。
其れは───目の前の華奢な、青玉を携えた褪せた金髪の少年であれ、同じものだ。

美を追求する為になら犠牲を厭わない、唯の『芸術家』。
目前の此の気味の悪いひとつの門も、彼も、根本的な部分は同じだった。似ていた。
───芸術に対して直向で、真摯な思考は、決して間違ったものではない。
其れが目の前の少女は少しばかり逸脱していただけだ。
パブロ・ピカソが様々な若い女性と付き合い、そして捨ててきたように。
『脚本家』は、様々な人間の命を愛し、其の人生を観て、そして美しく幕を降ろしてきた。

歯噛みする彼をちらりと見遣る。
鋭い、淀んだ黒曜は不敵に、愛おしいものを見るように視線を剥く。
理想を求め、芸術を愛し、自らの作品で人の心を大きく動かす。
其の作品が一生誰かの心に良し悪しあれど残るかもしれない。
───其れを聞いて、一笑に付す者は芸術家ではない、と彼女は定義している。
困惑する彼は、戦慄する彼は。
よくも悪くも、本物の『芸術家』であった。

「其れは?」

顔を覆う彼に、意地の悪い目線を、ひとつ。顔を覆えば、果たして何が見えるのか。
指の隙間から覗く鮮やかな青を、淀んだ黒が見つめる。

「果たして君の思っている『現実』は本当に『現実』なのかい?
 此の世界が『現実』であるなんて確証は何処にあるんだい?
 
 観客が──観客は居る。
 もしかしたら、此の会話だって誰かが見ているかもしれない。
 其れは果たして『神』なのかもしれないし───また一人の『表現者』かもしれない。
 此の『箱庭』で。『常世島』を見ている『誰か』がいるかもしれない。
 
 僕らの『人生』なんて何処かの誰かの脚本をなぞっているだけなのかもしれない。
 君の其の言葉も、『決められた台詞』を並べているかもしれない。
 僕の此の言葉も、『決められた台詞』を諳んじるだけかもしれない

 幕は自然に降りる。降ろせなくなっても────
    デウス・エクス・マキナ
 機械仕掛けから現れる神様が、如何にかして呉れるだろうさ」

震える声が、『脚本家』に否定の言葉を、ぶつけた。
彼女はただ、淡々と其の言葉を呑みこむ。
そして返答とばかりに『もしかしたら』の可能性を吐き出す。
乱暴に、其れで居て丁寧に、語り掛けるように。
観客がいない、と云われれば其の証拠なぞ何処にもない、と。

暴論だ。
紛れもない暴論。
されど、彼女の中では『そういうもの』なのだ。
現実を見られなくなってしまった、『脚本』の中に呑まれてしまった、関節の外れた世界に生きる『脚本家』の。
哀れな思考だ。哀れな言葉だ。
ひどく悲しい、其れで居て───『完成』してしまった、思考。

すくりと立ち上がって、またわざとらしくブーツの踵を鳴らす。
わざとらしく、まるで演劇の一幕のように。


「さて、此処でひとつ話をしてみよう。

 君は先刻顔を覆った。其れは何故だい?
 『見えなければ』、とでも思ったのではないのかい?
 ───君の思考など、そんな異能がある訳でもない僕は解らないが──

 君が顔を覆ったのは、僕を。
 気持ちの悪い僕を見ることに耐えられなかった君自身にじゃあ、ないのかい。

 ───すまないね、『何故』君がそう思ったのか。
 非常に興味深かったんだ、別に君が応える義務は存在していない」

両の手を大きく広げて、コミカルに肩を竦めて。
自分を見上げた少年に、少年を理解しようと。
───愛おしげにひとつ、言葉を溢した。

ビアトリクス > 渾身の否定にも、あくまで泰然とした佇まいを崩さない『脚本家』に、別種の汗が流れる。
この人の形をした怪物にとって、その程度の問いは、とっくに通過してきたものだったのだろう。

「…………」

すべては誰かの書いたシナリオの上のものでしかない、というある種虚無的な思想。
表現や物語に親しんだものなら、一度は誰もが患う、
シミュレーテッドリアリティ下の住民である、という妄想。
実際のところそれは妄想ではなく、『誰か』が電源を落としたり、
机をひっくり返したりしてしまえば、夢や煙のように全て消えてしまうのかもしれない。
それはこの次元に居る限り、誰も証明できないし、誰も否定できない。

「『現実』というのは」

「絵なら額縁、
 演劇なら、舞台。
 それによって隔てられた、外側だ」

「おまえの言うとおり、この世界は書き割りに過ぎないのかもしれない。
 だけど、そんなこと――どうでもいい。
 ぼくたちはここに生まれてしまった。
 だから――それでも、そこに、額縁を造るしかない。舞台を建てるしかないんだよ」

大切な人間がいる。
絵と、彼の、どちらかを選ばざるを得ない場面となったら――と、悩んだこともある。
だけど、そんなものに、答えが出せるはずもない。
なぜなら。

『脚本家』の見えない力に、押し流されぬよう、両脚に力を込める。
姿勢を正す。両拳を握り、立ち上がった彼女へ、真っ向から対峙する。
挟持がある。身を削り魂を捧げた芸術家としての。
大犯罪者が、フェニーチェが、『脚本家』がなんだ。そんなものは関係ない。
絶対に、屈するわけにはいかない。
口を開き続ける。
言葉が、激情が、止んだ時、目の前の暴力に食い殺されるとでも言うように。

「おまえは現実に生きることを、
 芸術という暴力の手綱を取ることを、諦めただけだ。
 『現実』は『芸術』の糧になるためにあるわけじゃない。
 『芸術』は『現実』の奴隷としてあるわけでもない」

勝手に、言葉が紡ぎだされていく。
いままで考えたこともなかったようなセリフが、口を開くそばから放たれる。
しだいにそれは、叫びのかたちとなる。

「『現実』が『芸術』をかたちづくり、
 『芸術』が『現実』に新たな命と可能性を与えるんだ。
 どちらも、たがいに遠く隔てられていながらも、
 かけがえもなく、素晴らしく、美しいものなんだよ!
 けっして、互いに、害することがあってはならない――それが、ぼくの、『理想』だ!」

息が荒い。
すう、はあ、と何度も息を吸う。

「ああそうさ。ぼくは怯えた。
 おまえを通して見えた、ぼく自身のおぞましさに。
 そうさ――ぼくはおぞましい。
 だけど。
 それがどうした」

「ぼくは、おぞましくていい。
 このおぞましさを抱えて、生きていく。『現実』で」

『脚本家』 > 彼の否定は。紛れもなく彼女の耳に入った。
明らかに、真正面から向けられた否定を、彼女は受け入れた。
されど彼女は残念そうに、其れで居て感心したようにゆらりと首を傾げた。

「────」

彼女の思考は、紛れもないシミュレーテッドリアリティの其れだ。
自分が劇の登場人物でしかないのではないだろうか?
彼女は決められた『個性』を与えられただけのものではないのか?
故に、彼女は決められた『役職』を持つ人間からの声は全く以て聞き入れない。
聞き入れたところで『理解ができない』のだ。
彼の否定は確かに正当なものなのかもしれない。
されど、其れを否定しても初めから決められていた『自分を否定する男』と云うキャラクターではないのだろうか。
其の真相を知ることは、彼女にも、彼にも出来ない。

彼女も幾度となく此の思考を否定しようとした。
其れでも。否定しても否定しても否定しても否定しても否定しても。
幾ら否定しても、確たる材料はなかった。
反対に其れならばと此の思考を証明しようとした。
『脚本通りだった』。
此の一言でいつかの彼女は、自分の中で此の思考を証明できてしまった。
『脚本家』として世界を描いていた彼女は、此の一言で、何の疑いもなく証明できてしまった。

「あァ、悪くはないさ」

ぽつり。口から零れた言葉は転がり落ちる。
彼が導き出した其の『現実』を彼女はしっかりと、正面から受け止めた。
受け止めた上で。

「悪くはないが───其の『現実』とやらは正直退屈だ」

ブレザーに挿した一本の万年筆をひょいと引き抜き、器用にペン回しをひとつ、ふたつ。
『現実』がそう云うものだと教えられてしまえば。

「大きなカンバスに描いてみたいとは思わないかい。
 より大きな劇場で、より大きな規模で行われる演劇を見たいとは思わないかい」

彼が両足に力を入れれば彼女は対照的に立ち上がった椅子に再び腰を落とす。
くるくると万年筆を回して、退屈そうに頬杖をついて。

「より色んな人間に絵を見てもらいたくはないかい」

淀んだ、淀み切った黒曜を細めて。
彼の矜持を、彼の覚悟を、彼の『理想』を。
劇場に響き渡る彼の激情を。

「諦めて何が悪い。
 君は手綱を取ってお利口な、額縁に収まった絵だけを描き続けるのか」

先刻までは柔らかかった問いかけに、幾らかの狂気を──凶器を仕込んで。
零れ落ちる言葉の一滴一滴を掬い上げて、ゆっくりと呑みこんで。

「美しいよ、君の『台詞』は。
 されど、それはあくまで『台詞』だ。美しく、尊い君の言葉も『芸術』だろう」

息を荒げる彼を眺めながら、毅然と。超然と。

「でも。『自己顕示欲』が足りていないんじゃあないのか。
 もっと君は欲を出してもいい。そんな小さなスケッチブックの中に君の世界を収めておくのは───」

妖しく、微笑んだ。

「勿体ない、才能をそうやって自分で決めた枠組みに押し込んでしまうのは」

「君は才能があるのに───才能のある自分に、目を逸らした。
 顔を覆ってしまった。其れは非常に勿体ない、が──美しい」

劇の主役は君だ、とでも云うように。
未だ見えぬ才能に、狂気に、彼自身のおぞましさに火をくべるように。
激情に燃える、腹の内に飼った火にどんどんと酸素を送るように。
おしこめられた部屋で燃える火がいちばんよく燃えるように。
ぎゅうと押し込められた彼の世界に、少しの火種を与える。

「本当の芸術はぶつかりあうものだ。
 既存の枠組みに押し込めていては良い作品にはならない。
 そして君の──『生きた』感情は美しかった。素晴らしかった。
 心が震えた。

 枠の外に君の絵が出たらどれだけの人の心が動くだろう。どれだけの人が泣くだろう」

「あァ、もう少し出会うのが早ければ。
 僕らと一緒に広いカンバスで絵を描けたというのに。

 もっと素晴らしい『理想』を魅せてあげられたと云うのに」

「此の脚本を書いた脚本家は随分と意地が悪い」

ビアトリクス > 『脚本家』の、ごくごく静かな応答に。
自身の激情が、冷えていくのを感じる。

どうして自分はこれほど憤っていたのだろうか。
自身の領域を犯されそうになったことに対する、恐怖を伴う怒り。
それともう一つ。

フェニーチェがいかなる演劇を行っていたのか、
一度も観劇したことのないビアトリクスにとって、それは想像するほかない。
しかし、ヨキ教師のフェニーチェについての言及があった。
彼がファンであることを憚ることもなく公言した、フェニーチェ。
それはきっと素晴らしいものであったろうとわかる。

そのフェニーチェの『脚本家』が。
『現実』になんら価値を認めていないという事実。
自身の信じる理想と、全く食い違ってしまっている事実。
それが寂しくもあり、悲しくもあった。
傲慢にしか過ぎないのかもしれないけれど。
認めたいものではなかった。

あるいは自らの言葉という『表現』で、
おぞましく、孤独な芸術家である『脚本家』の心を揺さぶることが出来まいか、
ほんの少し、どこかで期待していたのかもしれない。

向き合うことをやめ、身を横へ向ける。

「おそらくは……
 ぼくの持つブラシと、おまえの持つブラシでは
 大きさが違いすぎるんだろう。
 ぼくの小さなブラシではF50のキャンバスを埋めるだけでも精一杯だが、
 おまえのブラシは――それを飲み込めるぐらいに大きい」

ため息。

「まったく、勿体無い言葉だ。
 ……本当にもう少し、出会うのが早かったなら。
 ぼくはフェニーチェに身を捧げていたのかもしれない」

皮肉げに微笑む。

『脚本家』の甘言は、とても耳に心地よく響いた。
そしてそれは自分の激昂にあてられた真摯な返事でもあった。
彼女は、ただ無軌道に逸脱した狂人というだけではなかった。
そうであったなら、彼女の書いた脚本の劇で熱狂する観客などいるはずもない。

けれど、彼女の言葉に、歩む先を変えることは、ない。

「……ぼくはもう、『現実』に、かけがえもない美しい人が在ると知ってしまったから。
 ぼくが現実というキャンバスに無残に絵具を塗りたくったなら、きっとその人は悲しむだろう。
 だから、その可能性は、もうないんだ」

首を振る。本当に惜しそうに。
フェニーチェの一員として、筆を振るう自分。
その可能性は、今と比べて良かったのか、悪かったのか。
道はすでに分かたれていて、それは知るべくもない。

「支持体の大きさを選べるとして。
 めいいっぱい大きいキャンバスを選ぶのも勇気なら、
 あえて小さいキャンバスを選ぶのも、また勇気である、とぼくは思う。
 言い訳がましく聴こえるかもしれないけどね」

開かれたスケッチブックの白紙のページ、その上を掌で撫でる。
そこに一瞬で現れるのは、孤高な『脚本家』の、モノクロの凛とした立ち姿。
それはビアトリクスの目にした、確かな美しさの描写。
ページを破り、風に乗せて飛ばす。それはどこか遠くまで飛んでべしゃと地べたへ落ちるのかもしれないし、
筋書き通りとでも言うように『脚本家』の手元に都合よく届くかもしれない。

「――もしおまえが領分を越えて、ぼくの信じる美しい『現実』を侵すというなら、
 その時はあらためて、ぼくはおまえの敵になろう。『脚本家』殿」

怒りも皮肉もない、平常通りの無愛想な無表情へと戻る。
スケッチブックをしまう。背を向けた。

『脚本家』 > 冷えていく彼の激情は、金属細工にもよく似ていた。
熱いうちはぐにゃりと曲がり、自由自在に形を変える。
されど途端に冷えてしまえば、形を変えることなく、固く、強固に。
如何なる否定があっても、其れは曲がらない。変わることはない。

日恵野ビアトリクスの思想は、矜持は、信念は。
固く、より美しく、其れで居て危うげな美しさを描き出す。
屹度変わることのない此の彼にとっての『芸術』は、恐らく、より昇華する一方だろう。
彼女は、其れに気づけば困ったように。また諦めたように笑顔を浮かべた。

彼女は彼の二つ目の理由に気付くことはない。
其の美術教諭が彼にとって大切な人であったとしても、そうではなくても。
其の美術教諭がフェニーチェに如何なる感情を抱いていたとしても。
彼ら『劇団フェニーチェ』にとっては数多く存在するファンの一人だ。
現状、彼女が其れを知る術も、知る由もない。

人間の『理想』は食い違うものではある。
芸術家同士と云えば尚更、仲良く其れを受け止められる人間の方が少ないだろう。
彼女は其の食い違いに寂しさも悲しさも抱くこともなければ、ある意味。
一種の喜びさえ、享楽さえ、恍惚をも感じていた。
自分の言葉に向き合って、其れに反旗を翻し。

自分の『理想』を、『現実』を紡ぎ上げた一人の芸術家に出逢えたことを。
表情に出しはしないものの、腹の内では。
彼に対して拍手喝采を送っていた。
目の前に存在する自分の『理想』とは食い違う人間に対して、真摯に向かい合う。
彼女の脚本に於いては予想外の『アドリブ』に他ならなかった。
此の大きな大きな世界劇場の脚本の中では『脚本通り』だったとしても。

ゆらりと身を逸らした彼を、濁った黒曜の双眸が見つめる。

「あァ、そう云うこともあるかもしれない。
 使う絵の具の量も、其れを溶く水の量も大きく異なる」

瞑目。

「勿体なくなんかないさ。日恵野ビアトリクスと云う一人の芸術家に対する正当な評価だ。
 君の絵を背景にして踊るあいつらを見てみたかった──

 此れは運命を呪うしかなかろう」

暫しの逡巡を挟み、ゆっくりと目を開く。

甘言は彼の心を動かすことはなく、熱されていた筈の金属細工はより一層輝きを増す。
彼女は芸術に於いても、普段から吐かれる『台詞』にも嘘は吐かない。
逸脱は、時として人の覚悟を揺るがし、時として人の在り方をより強固にする。
──今回に関しては、後者だ。彼に自分の『台詞』は届かない。

彼女に残された道は終幕への片道電車だけだ。
其れはひどくゆっくりと、其れで居て流れるように。
既に、彼女には一瞬刹那の時間しか残されていないのかもしれない。
そんな中で。何の因果か廻りあわせた芸術家の言葉は。
彼女の興味をそそり、彼女の好奇心を煽った。

彼の言葉をゆっくりと咀嚼する。

「そう云う事か───」

How far that little candle throws his beams!
So shines a good deed in a naughty world.

【小さなろうそくがなんと遠くまで照らすことか!
 このように、善行も汚れた世界を照らすのです。】

「成程」

小さくぽつり、言葉を溢す。
彼が『現実』に魅い出し、自身が見出せなかったもの。
其れの片鱗が。ぼう、と小さく灯った。
首を振る彼を、幾らか目を開いて眺めながら、彼女は可笑しそうに笑った。

「君の勇気は──君の人生は。
 中々に刺激的で中々に好い脚本が書けそうじゃあないか」

そして付け足すように「好い役者だ」、と。

ふわり、孤を描いて宙を舞う其の一枚の絵は、風に乗せられ『脚本通り』彼女の手元に落ちる。
しっかりと其れを右手に握り込めば、満足したようにまたじわりと笑みを滲ませる。
幸運にも、此の脚本は彼女に今だけは味方したらしい。
彼の最後の言葉を噛みしめれば、また舞台上の一幕を演じるように。


「嗚呼──やってみせればいい。
 僕は何れ世界の敵に成る。其れを───

 若しかすれば僕の幕を降ろすのは君かもしれない」

「好い演技を楽しみにしているよ、日恵野殿」

くるりと彼が背を向ければ、彼女はぽんと手を叩いた。

「さァ!今日の舞台は此れにて終幕───」

誰に云うでもなく。
此処には居ない観客に其れを届けるように。箱庭の外にまで響かせるように。
朽ちた夢の跡で、激情に塗れた廃墟で。
彼女はひとつ、『台詞』を吐いた。

ビアトリクス > 激昂のうちに語り叫んだ理想。
それがどこまで自分自身の言葉だったのか、自分でもわからない。
単に、怪物に立ち向かうために即席で拵えた武器に過ぎないのかもしれない。
あるいは、石柱の中から力強く彫り出し、見つけることのできたひとつの真実なのかもしれない。
それはまだ、道の途中にあるビアトリクスにはわからないことだ。

「ぼくは、この脚本を書いた奴が仮にいたなら、花束でも送ってやりたいね。
 なにせ、おまえのような美人と、価値のある話ができた。じゃあな」

背中越しに、敬意を示すように一度手を挙げて。
気障な言葉選びにはそぐわない、そっけない口調。

市民と犯罪者、ではなく。
相容れない理想を持つ芸術家同士、として。
二人は別れた。

ご案内:「ミラノスカラ劇場跡」からビアトリクスさんが去りました。
『脚本家』 > 「美人とはとんだ軟派なやつだ」

くすりと笑って、彼の背を見送る。
実に素晴らしい『台詞』の数々に賞賛を贈りながら、彼女はすくりと立ち上がった。
彼の枝のように別れる未来に、其の先に在る『現実』を楽しげに。
見えもせず、否定した其れを目を細めて、見遣る。
思想として『完成』してしまった彼女の、自分のものは見られなかった『現実』を。

「もう会えないことを願っているよ、スケッチブックの君」

ゆらり、彼女の影は。滲んで、劇場に──溶けた。

ご案内:「ミラノスカラ劇場跡」から『脚本家』さんが去りました。