2015/08/15 のログ
ご案内:「ミラノスカラ劇場跡」に『伴奏者』/奇神萱さんが現れました。
■『伴奏者』/奇神萱 > ここに来るのは何度目だったか。最後に来たのはいつだったか。
かつてここには劇場があった。
イタリア歌劇の世界で最高の劇場にちなんだ名前がついていた。
夜ごとに奇想の王国が築かれて、朝日を浴びては掻き消えた。
虚構の惨劇がまことしやかに繰り返された。
人体を毒する霧がたちこめていた。
あらゆる規範を嗤い、良心を嘲る言葉が高らかに響いていた。
招来を嘱望された生徒たちがお忍びで通いつめた。時には教師の姿もあった。
秘密めいたお楽しみのために。身も凍るような恐怖と戦慄を味わうために。
例えて言うなら、フランシス・ダッシュウッドの『地獄の火クラブ』みたいなものだ。
世界の首府の僧院跡に、ひそかに設けられた異教の祭壇だ。
悪ノリ具合ではよく似ている。
悪夢の残滓は時の流れに洗われて、今では見る影もなく。
在りし日の姿を想起させるような手がかりも稀だ。
おおかた忘却の彼方へと運び去られていた。
■『伴奏者』/奇神萱 > 客席があった場所を思い描く。一等席はここだ。
それなら、舞台は向かって正面。今向いている方向に違いない。
かつて、この小さな王国に君臨した大女優がいた。
本当の名前は誰も知らない。ただ『七色』とだけ呼ばれていた。
ここは彼女の領域だ。不景気な顔してうろついていたら、小言のひとつも貰いかねない。
口説こうとしたこともある。いい女だったからな。のらりくらりとかわされて、結局果たせなかったが。
敵もさるものだ。これは俺の直感だが、あの女はどうも年上だったような気がする。
血にまみれて喝采を浴びる彼女の姿を、果てしない憧れをもって仰ぎ見る小悪党がいた。
墨田拓也。あだ名で呼んでやったことは一度もない。『癲狂聖者』と名乗ることもあった。
俺たちは水と油だった。おたがい遺恨があったわけじゃない。気に入らなかっただけだ。
主義。信念。流儀。全部がまるで違ってた。共通項はたった一つだ。
あいつも俺も、憧れを知るものだった。
自分の願いに向きあって、ひたすらに誠実であろうとした。手段を選ばなかっただけだ。
ただ憧れを知るものだけが、焦がれる身の苦しみを知っているのさ。
―――『ヴィルヘルム・マイスターの修業時代』。
■『伴奏者』/奇神萱 > 四人掛けのボックス席は両翼の壁沿いに設けられていた。
なにかが視界の隅で光って、覗きこんでみる。
雑に割られたアンプルと空の注射器が転がっていた。
『墓堀り』が頭を掻き毟ってげんなりしてる姿が目に浮かぶ様だ。
勝手に苦労を買って出てくれるおかげで、いつも滅茶苦茶に振り回されて、いい様に使われてた。
口ではいろいろ言ってたが、しょうもない愚痴だとか弱音を吐いたことは一度もなかった様に思う。
あいつはどう見ても喜んでいた。『墓堀り』は無理難題を浴びせられては歓喜に震えるマゾヒストだった。
わかるさ。お前も俺も、好きでやっていたんだから。
さらに歩く。
積み重なった埃に刻まれた足跡を読む。靴の形と歩幅からして、パターンは二つに絞れるだろうか。
つい最近にも、ここを訪れた人間がいたらしい。
片方は女の靴跡。もう一つはどことなく風変わりな形をしている。
足の形に特徴がある。体重のかけ方も独特だ。つま先の方に偏る癖があるらしい。
―――ヨキ教諭。高貴典雅の劇団に魅せられた美術教師。
犬のような四肢を持った男の顔が浮かんだ。ならば女は誰か。
■『伴奏者』/奇神萱 > 俺の知るかぎり、残る女は一人だけだ。
『脚本家』。一条ヒビヤ。
シェイクスピアかぶれのロマンチストだ。
不死鳥の劇団でも指折りのバカだった。底抜けのバカだ。
それは自他共に認めるところだろうと思う。頭のネジがいつも一ダースくらい外れてた。
あいつには役者と脚本家の区別がついていなかった。区別しなかったと言った方がフェアだろうか。
舞台を眺めてるときのあいつは魂が抜けてるように見えた。その魂は演者の一部になっていたからな。
―――違う。自分で言ってて違和感があるな。逆だ。事実は異なる。全くの正反対だ。
演者があいつの魂の一部になってたんだ。その自覚さえないままに。
悪女の首が血しぶきを上げて宙を舞うその瞬間、あいつの首まで落ちていきそうに見えた。
本当だ。そう見えたんだよ。俺の知ってる『脚本家』は人をあっと言わせるのが好きなやつだった。
あの女は確信を抱いてた。というか、知っていたんだ。自分こそが真の主役なのだと。
■『伴奏者』/奇神萱 > 『脚本家』のそばにはいつも『殺陣師』がいた。
あった、と言った方が正しいかもしれない。あの生き人形、エアリエルは一条ヒビヤの持ち物だった。
はじめて会った時にはずいぶん驚かされたが、むき出しの髑髏頭もすぐに見慣れた。
海賊船にかかってるジョリーロジャーみたいなもんだ。骸骨だってそれなりに愛嬌があるんだぜ。
どこで覚えたのか知らないが、演技指導は超一流だった。判断も早かった。
『脚本家』の無茶振りにも期待以上に応えてた。ああ見えて気が利くやつだったよ。
女たちは舞台を去った。今はもう、一人もいない。
不死なる鳥の劇団も今は昔。ここが劇場だったことを知る人間はあまり多くない。
人々の記憶から失われた場所だ。まさしく、死を迎えた場所だった。
■『伴奏者』/奇神萱 > 「舞台」に立つ。
今にも崩れてきそうな壺中の天を仰ぐ。
客席を一望する。
そして目をつむる。ある夜のことを思い出す。
今宵も客は大入り満員。
異様な熱気と毒の香りが立ち込めている。
舞台袖に立ち、緞帳の向こうから聞こえるざわめきに耳を澄ます。
最終公演が近いらしいと囁きあってる。刺激に飢えた連中だ。
フェニーチェの代わりになるものを必死になって探してた。
それが無いものねだりだと気付いてる連中は物憂げに溜息をつくばかりだ。
聞きなれたブザーが鳴り響く。
それは幾多の夜に轟きわたった開演の合図だ。
■『伴奏者』/奇神萱 > ―――嘘だな。
どいつもこいつも過去の亡霊だ。俺も含めて。
まるで感傷の塊じゃないか。
過ぎ去ったことを繰り返すのに一体何の意味があるだろう?
劇場に染みついたゲニウス・ロキが見せる幻だ。
くだらない。
目を見開く。
俺は俺の持ち場に立って、無銘の楽器を肩にあてる。
寄る辺なく切り出されたクラリネットの音色が聞こえる。
異界から響く音色だ。姿なき奏者が人界の音楽を奏でているのだ。
………それが音楽だと気付ける人間がどれだけいるだろうか。
オリヴィエ・メシアン作曲。
『世の終わりのための四重奏曲』より、第一楽章。
『水晶の典礼』。
■『伴奏者』/奇神萱 > これは絶望の淵から生まれた音楽だ。
世界が危機に瀕していた時代、監獄の中、虜囚の悲哀と憤怒を秘めて奏でられた音楽だ。
古きよき時代の名残りが炎にまかれ、燃え尽きていく物音を聞きながら書かれた曲だ。
死にゆく世界の朝靄のかなたに、どこか異質な鳥たちの歌がひびく。
これは環境音の擬似的な再現でもある。
たとえば森の木立にとまった鳥たちの声を思い浮かべてみて欲しい。
鳥たちはただ、自分だけのペースを守ってさえずるだけだ。
偶然の成せる技か、はたまた天の配剤か、時としてそれが前衛音楽の様に聞こえることがある。
ヴァイオリン。クラリネット。チェロ。ピアノ。
めいめいの周期性によって多重の層が織り成されていく。
俺の楽器はクロウタドリ。クラリネットはナイチンゲールだ。
不穏な高揚感ともに、最後の一音はかすれたようなヴァイオリンで締めくくられる。
■『伴奏者』/奇神萱 > 薄明がさして、俺の足もとに影が落ちる。
光と影の記憶があざやかな記憶を呼び起こす。
香具山ほのか。デカ女だ。不死鳥の劇団でもたった一人の照明係だ。
しかるべき時、しかるべき場所に光を当てる。それがほのかの仕事だった。
それだけのことかと思うなら、一度やってみるといい。俺にはさっぱりだったよ。
あの女は、光を媒介にして観客の心理を操ることに長けていた。
そこにはもう一つの舞台が生まれた。彼女の王国は光と影でできていた。いわば二人目の『脚本家』だ。
菓子をモリモリ食いながら炎を眺める。それがほのかの趣味だった。ほっとけば何時間でも眺めてた。
マイペースさ加減でいえば奴は頭ひとつ抜けていたよな。物理的にも。
―――第二楽章は。
『世の終わりを告げる天使のためのヴォカリーズ』。
■『伴奏者』/奇神萱 > 第二楽章は劇的なピアノとともに幕を開ける。
この作品は恐怖に満ちた異端の書から生まれた。
『ヨハネの黙示録』第十章。
使徒ヨハネは神の御使と出会う。
その頭は虹を戴き、その顔は太陽に似て、その足は火の柱のごとく。
御使は言う。
―――もう時がない。
第七の御使が喇叭の音を吹き鳴らすとき、神の奥義は成就される。
神がその僕、預言者たちにお告げになったとおりに。
かくして使途ヨハネは預言を授かる。
彼方から響くチェロと呼吸を合わせてユニゾンを奏でる。
世の終わりをほのめかす物音は、ナイチンゲールの囀りとともに。
『共作者』。またの名をスシーラ。書を愛しながら光を失った女だ。
アルゼンチンの詩人にして世界有数の読書家、ホルヘ・ルイス・ボルヘスと同じだ。
彼が愛したのは砂時計と地図、18世紀の活版印刷術、スティーブンソンの文章、そしてまぼろしの虎だった。
彼女は人間を愛し、世界を愛した。何よりフェニーチェの劇を愛していた。
『団長』に迎えられて、表現の場と術を得られたことは信じがたい僥倖だったに違いない。
本の虫としては、『ヨハネの黙示録』くらいとっくに読んでるはずだ。
俺も本は好きだから、意外に共通の話題も多かった。物静かだが、言いたいことは言うしたたかな女だった。
寡聞にして、あいつが死んだとは聞いてない。今度会ったら口説いてみるかな。
■『伴奏者』/奇神萱 > 特定の音程パターンを守り、静けさに満ちた和音。
黙示録的に繰り返される旋律は優美ですらある。
いわゆる「移調の限られた旋法」。
オリヴィエ・メシアンが提唱した特殊旋法の、第2の類型だ。
―――急転直下のトリルが安穏たる眠りを覚ます。
心の脆い部分を突き崩すようなトリルの階梯導入。
チェロ、ヴァイオリン、クラリネットが総毛立つような恐怖を植えつける。
感情が波立つ。脅威の影はあまりにも生々しく、真に迫っているのだ。
死があまりにも身近な時代。作曲家は心の傷を癒す間もなく収容所に送り込まれた。
自由を奪われ、価値観を否定された男は信仰に救いを求めた。
かくして、世の終わりが告げられる。
飛躍するようなアルペジオが最後を引き取って幕切れだ。
第三楽章にヴァイオリンの出番はない。
聞けばわかるさ。『鳥たちの深淵』。
■『伴奏者』/奇神萱 > 鳥たちの歌はクラリネットのクレッシェンドで表現される。
管弦楽ならではの、豊かで厚みのある音が無意識の海の深遠なる深みへと聴衆を導く。
隔絶された世界の彼方でクラリネットを奏でる伴奏者のすがたを、俺は幻視している。
顔も名前も知らない男。もしくは女。
そんな分類さえ無意味な怪物かもしれない。
オリヴィエ・メシアンは早熟なオルガニストだった。
22歳にして、パリのサントリニテ教会に正規の奏者として職を得る栄誉に預かった。
才気あふれるオルガニストの即興演奏は信徒たちの評判を呼んだ。
当然のなりゆきだ。
メシアンはやがて、素晴らしき『伴奏者』として不動の名声を得るに至る。
■『伴奏者』/奇神萱 > そんな彼だが、メシアンは鳥たちの声を愛していた。
鳥類学者として、深淵から響く鳥たちの歌声をひたすら採譜しつづけた。
鳥の歌に魂を惹かれたオルガニストは、終生ひとりの奏者として、教会の仕事を続けたのだった。
―――火事の報せに触れてから、かなりの時が経った気がしている。
ただの火事を気にする人間はあまり多くないらしく、そのニュースはあっという間に流れて消えた。
配信された映像には、どこか見覚えのある車椅子が映りこんでいた。
『鮮色屋』と呼ばれた女が使っていたものだ。
話は変わるが、『神州纐纈城』という小説を知ってるだろうか。国枝史郎の作品だ。
戦国の昔のサムライが行商の老人と出会い、世にも美しく染め上げられた緋色の布を手に入れる。
サムライは贈り物にしようとしたが、女たちはその緋色の凄味をひたすらに畏れた。
なぜなら、その緋色というのは―――。
未完の大作は主人公が怪物になったところで不意に途切れる。
纐纈城主。火柱の主。紅蓮に燃える色彩をまとう仮面男だ。茶久とは似ても似つかないが。
第四楽章は『間奏曲』。そろそろ出番だ。聞き入ってるわけにはいかない。
まだピアノの出番はないぞ。
■『伴奏者』/奇神萱 > それぞれの楽器が放埓に歌う第一楽章とは打って変わって、カルテットの三者が息を合わせる。
やっと人間の世界に戻って来られた感じだ。『間奏曲』とは得てしてそういうものだ。
作曲家は翼ある隣人たちに、人間の感性の及ばない深遠なるものを感じていたのかもしれない。
ヒッチコックの『鳥』みたく、身近なはずの存在が時として全く別のものに見えてくる。
その恐怖を脱して、どうにか正気づくまでのつかのまの幕間。
チェロがつかのま流麗なるしらべを奏で、クラリネットが茶目っ気たっぷりに応えてくれる。
異質な世界に迷い込んでしまった聴衆たちは、さぞかし安堵するに違いない。
作曲家から差し出された口当たりのよい水のようなもの。これは『間奏曲』だ。
『美術屋』ならどんな風に魅せただろうか。
当時は違う名前もあったが、今は六道凜と名乗ってる。梧桐律が死んだようなものだ。
あいつは持って生まれた才能と嗜好がきれいに噛み合ってた。理想形と言っていいくらいだ。
ところで、あいつには不思議なジンクスがある。大傑作が生まれる日には決まって急病人が出た。
裏を返せば、観客が倒れた日の公演は期待していいってことだ。
『美術屋』は表現者として命を削ることを厭わなかった。その代償とは、おそらく―――。
それから。そうだな。これからの話だ。『間奏曲』のあとは新しい展開が待ってる。
今ははじまりの終わりかもしれない。形を変えた死と再生のモチーフだ。傑作じゃないか。
『美術屋』の最後の仕事としては悪くなかったと思う。今後ともよろしく。
第五楽章はチェロのピアノの二重奏。
『イエスの永遠性への賛歌』。こちらはまたもや一回休みだ。
■『伴奏者』/奇神萱 > 『世の終わりのための四重奏曲』はまぎれもない宗教音楽だ。
中でも第五楽章、『イエスの永遠性への賛歌』はハイライトのひとつといえるだろう。
20世紀初頭に生まれた電子楽器の走りで、オンド・マルトノというのがある。
フランスの電気技師モーリス・マルトノの発明だ。はじめはテルミンの模倣だった。
これを三極真空管の発振のメカニズムで再現したのがオンド・マルトノだった。
第五楽章はオンド・マルトノのために書かれた六重奏の組曲の一部が使われている。
題して、『美しき水の祭典』。
その旋律が、とこしえなるものへの賛美に変わった。
世俗的で親しみやすくも崇高な音階が、少しずつ天の高みへと昇っていく。
チェロの音色はあまりにも微かで、今にも途切れてしまいそうなほどだ。
第五楽章のピアノはただそこにあるものだ。必然の結果として寄り添うものだ。
チェロとピアノ、どちらが主でも従でもない。
■『伴奏者』/奇神萱 > ここですこし話を戻そう。
俺にはずっと気になってることがあった。
『脚本家』がフェニーチェの再興を高らかに謳ったあの夜のことだ。
枝葉末節のことはさておき、ここでひとつの命題について考えたい。
フェニーチェは『団長』抜きでも成り立つものか。
俺の疑念はこの一言に集約される。
ポジティブに受け止めるなら、『脚本家』はその命題に挑んだのだと言えなくもない。
残されたメンバーを糾合してフェニーチェを新生させる。シンプルでわかりやすい筋書きだ。
だが、考えてもみて欲しい。
『脚本家』がそんな捻りのない話を書くだろうか。疑問符が残りはしないか?
ここから先は仮定の話だ。
もしも、あの夜の言葉のすべてが脚本どおりだったとしたら。
『脚本家』はただ淡々と、自分に課したセリフを並べていただけなのだとしたら。
あいつは、こうなる事を知っていたんじゃないか。
『団長』という紐帯を失った劇団がバラバラになって、一人残らず消えていく。
この結末をずっと見ていたんじゃないか。
俺の死さえも『脚本家』の台本どおりだった可能性がある。
思い至ったときの衝撃は計り知れないものもがあった。
俺だってあいつの脚本には長いこと付きあってきた身だ。
他の連中も大差ない。俺はあいつを知っているし、あいつは俺を知っている。
再興など叶わないことを知っていて、誰もが承知の上だったなら。
これは劇団フェニーチェにとって、真の最終公演だった。
誰もが見せ場を与えられた、一世一代の大舞台だ。
『脚本家』が遺した筋書きはまさしくそれだ。
―――俺は、『伴奏者』は。最終公演に間に合っていたのだ。
か細くも一途に前身を続ける音色が、やがて永劫の彼方へと消える。
第六楽章は―――『七つのトランペットのための狂乱の踊り』だ。
■『伴奏者』/奇神萱 > 『ヨハネの黙示録』のテキストを思い出してみてほしい。
七つの雷霆(いかずち)声を出せり。
トランペットの音色とはつまり、祝福の音楽だ。神の御業が成る兆しだ。
幾重にも折り重なったユニゾンがこの楽章の根幹を成す。
『世の終わり』の部分の原題は”the End of Time”.
時の終わりだ。時の流れが果てる時を、訳者は世の終わりと呼ぶことにした。
四重奏を織り成す楽器たちは足並みをそろえて坦々と行進していく。
永遠なる時の訪れに向かって。
―――あれはカソックという衣装だったと思う。煽り屋のルギウスがいつも着ていたやつだ。
劇場にいた面子の中じゃどうにも異質な存在で、メンバーだったのかどうかもよくわからない。
年齢不詳。来歴不明にして神出鬼没。『脚本家』の物語を料理して、隠し味に毒を仕込むのがあの男の仕事だった。
皮肉のきいた喜劇が好きで、同じくらいに悲劇を愛した。公共の電波に乗せられないタイプの人間だ。
あんな聖職者が使えてた神ってのは一体どんなやつなんだろうか。今となっては永遠の謎だ。
不意に主題が現れる。使徒に預言をもたらした御使の様に、力に溢れた音色が響く。
オリヴィエ・メシアン特有のシンメトリカルな非可逆リズムが人智の及ばぬ世界を仄めかす。
異界存在の旦那がたが大喜びしてそうだ。
神はわずか七日のあいだに天地創造の御業を成し遂げられたという。
―――奥義は成った。神の御業はここに成就した。
第七楽章。
『世の終わりを告げる天使のための虹の混乱』。
■『伴奏者』/奇神萱 > これは安息日のできごと。天地創造が成ったあとの話だ。
チェロのソロパートにピアノの伴奏がついて、それが冒頭二分くらいずっと続く。
そこにヴァイオリンが殴り込みをかけ、激動のアンサンブルが始まる。
世界は再び混沌に堕ちて、惑い狂う人の群れに天使が無慈悲な終わりを告げる。
時は1941年。
ドイツ第三帝国、ゲルリッツ郊外のStalag VIII-A収容所。
身も心も凍てついてゆく極寒の牢獄にあって、作曲家は天啓を得た。
人の世には終わりがあり得ることを。
天地創造より連綿と続く輝かしき人の歴史にも、いつかは終わりが来ることを。
■『伴奏者』/奇神萱 > これは伝説の音楽だ。音楽の伝説だ。
―――作品の初演は1941年1月15日。第二次大戦の真っ只中。
ドイツ軍が電撃戦を仕掛け、破竹の勢いでモスクワに迫る半年ばかり前のことだ。
四人の音楽家が世の終わりのための音楽を奏でた。
ジャン・ル・ブーレールがヴァイオリンを弾いた。
アンリ・アコカはクラリネットを吹きならした。
エティエンヌ・パスキエがチェロを抱いた。
オリヴィエ・メシアンがピアノを受けもった。
チェロの弦はずたずたに千切れ、まともに残っていたのは三本だけ。
シャントレルと最低弦は残っていたが、第二弦か第三弦がなくなっていた。
ピアノは鍵盤を押しこむと戻ってこない壊れたアップライトピアノだった。
それでも奏でた。
世の終わりに直面し、絶望に沈む数千人の同胞の前で。
音楽家たちは壊れた楽器を駆り立てた。
聴衆は誰ひとりとして嗤わなかったと、作曲家は証言している。
後にメシアンはこう振り返っている。
「私の作品がこれほどの集中と理解をもって聴かれたことはなかった」と。
第八楽章は安息日の続きだ。永遠にして不変なりし八日目の世界。
最終楽章。―――『イエスの不滅性への賛歌』。
■『伴奏者』/奇神萱 > 最終公演の夜、俺はこの曲を演るはずだった。
不死鳥は死と転生を繰り返しながら不滅性を立証する生物だ。
救世主もまた然り。高貴典雅の劇団は栄光の内に幕を引くのだ。
ふさわしい手向けになると信じていた。
あんな伏兵が待ち構えていて、この身に刃が尽きたてられて―――
誰にも見取られずに逝くだなんて考えもしなかった。
考えられる限りで最低最悪の末路さえも軽々を超えていかれた様な感じだ。
『死立屋』は最後の夜のために特別な衣装を作ると言ってくれた。
結果を見届けることはできなかったが、約束はたしかに果たしてくれたはずだ。
その名を聞いて顔をしかめる人間も少なくないだろうと思う。
狂った殺人ピエロみたいな長口上にヒステリックな笑い声。鋏と針と長い舌。
それがあの元教師の全てだと錯覚する生徒も少なくない。
その錯覚は直感と同義だ。つまりだいたいあってる。お前は正しい。
だがまあ、仕事は確かだった。趣味嗜好言動性癖日頃の行いは一切関係ない。
人知れず公安に始末されてても驚きはしない。
墓があるなら探してやってもいい。ただ一言、会って謝りたいと思う。
■『伴奏者』/奇神萱 > 死と再生のモチーフは大工の息子が最大手だが、似たような話は世界中で散見される。
ジェームズ・フレイザーが『金枝篇』で説く王殺しの儀礼も類型のひとつといえるだろうか。
不滅性と永遠性は、いずれも死をもって完成されるものだ。
不滅というのは言葉のとおり、永遠に生きるということではない。
大工の息子が処刑の三日後に復活したように、不死鳥は灰に還って生まれなおす。
ディアナ・ネモレンシスの聖所に住まう祭司の王もまた然り。
試練を超えた若者が死にゆく王を殺すわけだから、若返りの一種とみなしていいはずだ。
フェニーチェは死に、灰になった。
俺たちが撒き散らしたミーム(文化的遺伝子)は新たな不死鳥を生むだろうか。
それは未来の話だ。俺にはまだわからない。
ひとつだけたしかに言えるのは、奇神萱がここにいるということだ。
これがあいつの脚本通りなら、俺は感謝すべきなのかもしれない。
殺されたことはともかく、一番おいしいところで舞台に上げてくれたんだから。
■『伴奏者』/奇神萱 > 最終楽章はヴァイオリンとピアノの二重奏。
このヴァイオリンソロが一番の見せ場だ。
これはオリヴィエ・メシアンの旧作から編曲されてできた作品だ。
オルガンのための『二枚折絵』第二部。サブタイトルは『天国』だ。
最終楽章は第五楽章『イエスの永遠性への賛歌』と対を成す。
曲の構成はチェロの独奏とそっくり同じだが、そこに託された意味あいはまったく違う。
天地創造の七日間のあとに訪れる平穏なとき。久遠の平和。
それは『ヨハネの黙示録』が仄めかす人の姿であって、作曲家の願いでもある。
狂乱の時代のエンドロールにはふさわしい曲だ。
繊細かつしなかやな運弓をもって、少しずつトーンを上げていく。
この劇場で過ごした日々をきらめく雲母の薄片にかえて、一枚ずつ重ねていく。
満たされている。恍惚感に包まれる。音が柔らかく澄みわたって、冴えていく。
チェロとは違うこの旋律が、約束された結末へと突き進んでいく。
ここに通いつめた数百人の同胞に告げる。
飛び立っていった鳥たちに告げる。
一幕の喜劇の終わりを。
―――そしていま、再生のときを。
■『伴奏者』/奇神萱 > 用は済んだ。もう二度とここには来ない。
今にも崩れてきそうな違法建築だ。
いずれどこかの誰かが気を利かせて、塵に還してくれるだろう。
それを見届けるまで居座るつもりはない。
「立つ鳥跡を濁さず」ってね。
生者の世界へ帰るときだ。
「ローマ皇帝アウグストゥスは今わの時に最期のセリフを呟いた」
「Acta est Fabula.」
「芝居は終わりだって意味だ。天命を全うしたことを誇る言葉だ」
「だが、俺は皇帝のセリフより作曲家のもじりの方が気に入っててね」
―――Plaudite, amici, comoedia finita est!
「友よ、喝采したまえ。喜劇は終わった!!」
「さあ、帰った帰った!」
ケースの重みが肩に食いこむ。清冽な気分に胸が膨らんでいた。
振り返らずに、名もなき廃墟を後にした。
ご案内:「ミラノスカラ劇場跡」から『伴奏者』/奇神萱さんが去りました。