2015/08/27 のログ
■『伴奏者』/奇神萱 > 第3楽章はクライスラー版じゃ二つの楽章に分かれて編曲が加えられている。
のびやかで雄渾なるアンダンテと偏執狂的なアレグロ・アッサイはどちらも変わらないが。
その交替劇を繰り返すこと三度。
現代の奏者にとっても峻険なる難曲と目される所以は奇抜な重音奏法にある。
文字通り、一度の運弓で複数の音を同時に奏でるのだ。
片や目の回りそうなトリルの連続だ。これこそ世にも名高き「悪魔のトリル」。
目を瞑れば二挺のヴァイオリンからなる協奏曲に聞こえても不思議はない。
それを一人の奏者がやるのだ。数多の先達が越えてきた壁だ。
科戸の風が吹きわたる。
この世ならぬ場所へと続く大気の流れは今や誰の目にも明らかだ。
軽いもの。寄る辺なきもの。打ち捨てられた過去の残滓が虚空に舞い上げられて消えていく。
『伴奏者』の音が力を増した。
嬉々として参戦した第三の奏者を捻じ伏せる様に。
恐怖に抗ってかき鳴らされるカデンツァには、昔の俺の面影があった。
まるで過ぎ去った時の再現を見ている様だ。
だが、同情を覚えるほどにしなやかさが欠けている。遊び心の欠片もない。
『―――ッ!!』
耳障りな音がして、『伴奏者』の持つ名器に張られたガット弦の一つが破断する。
崩れていく。堕ちていく。焦りがミスを呼び、さらなる醜態を招いていく。
『―――――……馬鹿…なっ!!』
風圧は弥増して、立っていれられないほどの負荷がかかる。
今にも足元を掬われそうだ。
子リスが消し飛んでないかたしかめる余裕もなかった。
派手な音を立てて客席が一列引き剥がされ、引きずられていく。
行く手を遮るものを根こそぎ道連れにしながら。
■三枝あかり > 目を背けることはできない。
今の自分にできることは、見届けることなのだから。
風は勢いを増す。
その中で、旋律は分岐した。
『伴奏者』の持つヴァイオリンが異音を立てたのだ。
積み重ねるのは難しい。だが、崩れ去る時にはあっという間。
それが音楽というものなのかも知れない。
風圧が増していく中で、私は自分が消えていない幸運に感謝した。
それは生き残ったからではない。
この音楽を最後まで聴けるからだ。
■『伴奏者』/奇神萱 > 弦が切れたらお手上げだ。普通はそう考える。
ニコロ・パガニーニほど頭のおかしい天才はむしろ例外中の例外だ。
奴はそれでも平気で演奏を続けた。たった一本しか残らなくても弾ききった。
曲の中身にもよるが、G弦さえ残っていれば理論上は演奏が可能だ。
パガニーニも悪魔に魂を売ったといわれた一人だった。
アウグスト・ウィルヘルミも『G線上のアリア』をG弦だけで弾いたそうだ。
『伴奏者』がもしも昔の俺のコピーなら―――残念ながらリカバリは効かない。
俺はパガニーニやサラサーテみたいな天才に生まれたわけじゃない。
元々ただの凡人だ。気が遠くなるほどの時間をかけて研鑽を積んできただけだ。
赤毛の男のグァルネリウスに起きた事故と同じ弦に爪を立て、ぶつりと断ち切る。
今の俺なら影響は最小限にとどめられる。パガニーニの真似まではできないが。
悪魔の哄笑を背に雄飛するカデンツァの後に待つのは、終局のアダージョだ。
悲劇的な結末を仄めかす、重厚なるヴァイオリンの絶叫が響きわたる。
『伴奏者』の発する狂乱の叫びが荒れ狂う風に呑まれてかき消されてしまう。
一段一段、和音の階段を登りつめていく。
最終楽章はそして、劇的な幕引きを迎えるのだった。
「――――お前……おい、何して―――!」
茫然自失した『伴奏者』の身体がよろめき、一面の闇へと吸い込まれていく。
とっさに身体が動いていた。
アンヘルのヴァイオリンを抱き、舞台の縁から両手を目一杯伸ばして赤毛の男の袖をつかむ。
茫洋として定まらない瞳が俺を捉える。この貌。表情、前にもどこかで―――。
「―――そういうことかよ。お前が誰かやっとわかった」
「腑抜けてんじゃねえよ、奇神―――奇神萱っ!!!」
■三枝あかり > 「………っ!!」
奇神萱?
その名前は……奇神先輩が、梧桐先輩で、梧桐先輩が、奇神先輩?
軽く頭が混乱している。
どこで縺れた糸なのだろう。
どこで縺れたまま、ここまで組みあがってしまったのか。
ただ、その運命の縦糸と横糸は今、正常に交差しつつある。
梧桐律。奇神萱。
ああ、そんなことが。
そんなことがあっていいのだろうか?
目の前で滅びは男を食らうかと思った。
けど、違うんだ。この演奏の最後はそうじゃない。
■『伴奏者』/奇神萱 > 《泡》がはじけて消えていく。
劇場跡の廃墟を倒壊の危機へと追いやりながら、空間の裂け目が消えていく。
青い瞳に意志の輝きが一瞬戻り、俺の手を振り払おうとして暴れる。
力じゃこいつに敵わない。だとしても、今手を放すわけにはいかない。
俺が選んだのはタルティーニの音楽だ。
オーゼイユ街の老エーリッヒ・ツァンが奏でたやつじゃない。
『……………………して……離してください、ゴドーせんぱい…!』
『……私、先輩……の、こと……!!』
いくらか正気づいた分、よけいに手に負えなくなってきた。
このまま行かせるわけにはいかない。
「ああくそっ、それがどうした!!! 暴れんなっての!!」
「―――あかり、マズいぞ!! 助けてくれ! 支えきれない…!」
指先から虚無の冷たさが染みとおり、痛覚さえも消え失せていく。
グァルネリウスがもぎ取られていくのも時間の問題だ。
■三枝あかり > 「……はい!!」
呆けている場合ではない。
演奏の間に体も動くようになった。
立ち上がって二人に手を重ねる。
「先輩っ!! あなたは死んじゃダメなんですよ!!」
「絡まったまま、死んじゃあ!!」
「そんなの、悲しすぎるから……私は!!」
二人で赤毛の男の手を引く。
こちらの世界に留まらせるために。
祈りを伝えるために。
■『伴奏者』/奇神萱 > 異界存在の顕現が収束したのは力尽きる寸前の事だった。
暴風にさらされた廃墟は荒れ放題で、飛び散った廃材が当たって無数の切傷を負っていた。
両手はもはやまともに動かず、こわばって氷のように冷たくなっていた。
変な後遺症が残らない事を祈るばかりだ。
散々な幕引きだった。
疲れと傷みに苛まれて息をするのも億劫だ。
まもなく生活委員会の活きのいい連中がやってくるだろう。
できればこのままぶっ倒れていたいが、その前にすることがある。
「お前も言うじゃないか。ナイスフォローだ。恩に着るぞ」
子リスに向けて腕を開く。細い肩を抱いて亜麻色の髪を撫でくりまわす。
グァルネリウス―――だったものが視界に飛び込む。全力で見なかったことにした。
■三枝あかり > 「はぁ………はぁ……」
自分も破片があちこち当たってボロボロ、肌も切れてる。
それでも、今は笑顔で。
「おかえりなさい、先輩!」
そういうと、肩を抱かれて髪を撫で回された。
こんなことされるの、何歳の頃が最後だっただろうか。
目を細めて喜んだ。
「ヴァイオリン、大変なことになりましたね…」
「一応、持って帰りましょう。なんかこう…魔術的とか、異能的にばーんと直せる人がいるかも知れませんし」
「……あの…あなたをなんて呼べばいいんでしょう?」
顔を上げて、その存在を見上げた。
その確かなものを。私は。
「……先輩?」
とりあえず、そう呼ぶことにした。
■『伴奏者』/奇神萱 > 笑う元気が残っていてよかった。自然とこちらも笑みを返して。
「どっちでもいいさ。あのヴァイオリンじゃないといけないわけでもないんだ」
「俺にはもっと大事なものがある。大事にしたいものをみつけた」
これからが大変そうな気もするが、なる様になるだけだ。
「―――ああ、ただいま。ただいま、あかり」
今は終わりではない。これは終わりの始まりですらない。
しかしあるいは、始まりの終わりなのかもしれない。
彼女の名を呼ぶ声が聞こえる。たくさんの足音が近づいてくる。
気が抜けたとたんに視界が揺れはじめ、ぐらりと崩れて半回転する。
今度こそ、心おきなく地面とキスをするのだった。
ご案内:「ミラノスカラ劇場跡」から三枝あかりさんが去りました。
ご案内:「ミラノスカラ劇場跡」から『伴奏者』/奇神萱さんが去りました。