2015/09/13 のログ
■梧桐律 > アルカンジェロ・コレッリは17世紀の作曲家だ。
コレッリは早熟な奏者で、17歳にしてボローニャの名門アカデミア・フィラルモニカに籍を置いた。
彼のキャリアはローマに居を移してから華々しさを増していく。
スウェーデン女王や枢機卿たちのお抱え楽団を任され、当代随一の音楽家として欧州全域に名を馳せた。
ヴァイオリンの特性を深く理解していた彼は音域の幅を豊かに使う作風を見い出した。
隔絶した演奏技術の裏打ちもあって、後代のヴィルトゥオーソであるタルティーニに影響を与えた。
『ラ・フォリア』は基礎を学ぶのにもってこいの曲でもある。
バロック期の作品らしく主題の構造は厳格に守られ、変奏の箇所には奏法のいろはが散りばめられている。
全弓のデタシェ。半弓、そして1/3弓の―――。
胸騒ぎがしていた。
空間に歪みが起きていた。
慣性を得てまっすぐに飛んでいたものが、あさっての方向に突然逸れる。
日常に潜む非日常。日常からの逸脱だ。
異界存在は常日頃慣れ親しんできた物理法則を戯れ半分に崩壊させてみせた。
だが、明らかにそれとは別の負荷がかかっている。
さらに異質な何かがこの場に現れたわけだ。三枝あかりの哄笑が聴覚に突き刺さる。
制止をかける間もなく割って入る彼女。
まくし立てるような矢継ぎ早の言葉を聞く。何らかのブレイクスルーに達したのは明らかだった。
彼女が気づいたこと、あかりが得た異能―――『小さき者』の正体を俺は知らない。
俺にとって重要なことではないし、知る必要がないと思ったからだ。
重力異常にさらされ、剥がれた舗装の欠片が空中に静止している。
『ラ・フォリア』は11分足らずの曲だ。終わりが近い。その時俺は―――何ができるだろうか。
■三枝あかり > ラ・フォリア。狂気。
彼の演奏は世界にズレを作り出した。
いや、違う。世界にズレを作り出せる存在を呼び出していた。
そのことを今は何となくだけど、把握できる。
「先輩、私が今から相手に一瞬の隙を作ります」
「その存在を上手く使って相手のバリアをちょっとでも破れないでしょうか?」
「あとは何とかしてみせます」
クスッと笑った。
ああ、全部台無しだ。
力がないことに悩んできたことも。
ちっぽけな自分と向き合ってきたことも。
何もかも台無しになった。
それが人の身に過ぎた力――――虚空の神々。
『敵を前にして相談とは笑える』
『隙など出来るか、何もかも粉砕して終わりだ』
杭全が力を溜める。
全方位に刃状にしたバリアを噴出させて全てを切り刻む心算だ。
それは回避不可、防御など不可能な完全なる攻撃。
あかりが杭全に向けて手のひらを差し出した。
「時の棺(ディスティネーションタイム)」
そう呟いた瞬間、ノーモーションで杭全が両腕を広げて高笑いしていた。
相手の中では全方位攻撃を行った直後の時間。
相手の時間を一瞬、消し飛ばして攻撃の瞬間をなかったことにする。
それが時の棺。
■梧桐律 > 「大事なパトロンでね。俺がどうこうできるような存在じゃない。ただ―――」
「旦那方は演奏の邪魔を許さない。それだけだ」
杭全遊弋が攻勢をかける。その一瞬が無かったことになった。
そうとしか思えない現象が起きたと直感した。直感だ。理解なんてできるわけがない。
残ったのは奏者もろとも無惨に切り刻もうとした事実だけ。
高笑いする悪党の障壁に極彩色の泡がまとわりつく。
どれもこれも人間には過ぎた力だ。ましてや、学生風情には。
鉄壁の守りが悪疫のごとき蕃神の末端に侵されていく。
微細な泡が弾けたあとには漠とした虚無が広がるばかり。
見るに耐えない光景だ。ひどく正気を侵されていることを自覚している。
侵食が止められなければ中身ごと消し飛ばされるに違いない。
余韻を味わう間もなく弓を放した。
聴衆は演奏が終われば帰る。そういう約束だ。
門にして鍵なるものも例外じゃない。
戦況は逆転しつつあるが、胸騒ぎは増すばかりだ。
何か決定的な破滅が目の前で口を開けているようで、焦れるような危機感だけがあった。
三枝あかりの小柄な背を見る。その表情は窺い知れない。
強く抱けば折れてしまいそうな身体が、今は得体の知れない力を従えている。
「あかり。やりすぎるなよ」
■三枝あかり > 相手の障壁が破られる。
食い破られるように。侵食されつくすように。
弓を離す彼の姿を、正面を向いたまま偏差を把握して理解しながら頷いた。
「わかりました」
そう言うと足元の小石が浮かび上がる。
斥力の応用。重力のベクトルを少しだけ変えれば。
「小石に躓いてください」
杭全遊弋の両足を小石が貫く。
銃弾のように射出されたそれは血塗れになって尚、勢いが止まらず背後の壁に穴を開けた。
『ぎゃあああああああぁ!?』
『な、なんだ……何が起きた…? お前らは俺が切り刻んだはずだ…!!』
『重力と時間の操作……そうか、俺が見ていた時間は……うぎぃぃぃぃぃぃぃっ!!』
足を両手で押さえて蹲る杭全。
無針注射器。金。どれも証拠は十分。
「……帰りましょうか、梧桐先輩?」
振り返ると小さき者が消えた。
瞳の色も元通り。異能を完全にコントロールしている。
「あとは風紀に任せましょう。私たちの仕事は終わりです」
■梧桐律 > 幕切れは唐突で、信じがたいほどあっけなかった。
「何が起きた?」ってのはこちらの台詞だ。
異界存在も痕跡を残さずに消えていった。
「今ので終わりか?」
無意識に問い返していた。
決着がついたらしい。死人が出ることもなかった。
着地点としてはまずまずだった。ほっと胸を撫で下ろす時だ。
かけるべき言葉があるはずだ。
子リスが味わった変化の全てを俺が知ってるわけじゃない。
彼女の中の何かが変わった。たとえば、恐れだ。
ほんの一瞬前までと違って怯えた様子がない。今じゃ平然としている。
「俺もとっとと帰りたいが、できれば現場を引き継いでからがいいな」
「悪党は手段を選ばない。目を離したとたん逃げられたんじゃたまらないだろ」
取引相手の片割れだって残ってる。
すでに立ち去ったはずだが、まだ近くにいる可能性もある。
つかのま天を仰いで、それから亜麻色の髪に手を伸ばす。
「―――なぁ、あかり。俺にとっては」
「お前のその目が俺を見ている。大事なことはそれだけだ」
「ここは俺が消えたあとの世界だ。打ちのめされてる暇もなかった」
「音楽のある地獄。幾分ましにはなったが、暗いままじゃ何も見えない」
「俺にはあかりが必要だ。この身を照らして、闇を祓う救いの光が」
顎に手を沿え、唇を近づける―――。
■三枝あかり > 力がある。絶対的な力が。
それは今までの自分が積み上げてきたものを確実に台無しにした。
だがこれからなのかも知れない。
人がそれぞれ、異能に覚醒してから自分の力と向き合ってきた人生。
それを今から自分も積み重ねなおす。それだけのこと。
「そう……ですね………風紀の人を待って、事情を説明しましょう」
「これで変革剤のルートの一つは潰せたわけで……それでも、これはお兄ちゃん喜ばないだろうな…」
彼と並んで空を仰ぐ。星空を観測する。
時を止められたとしても、二度と訪れることのない時間を惜しんで。
「梧桐先輩……」
「私にも、先輩が必要なんです」
「私という空っぽが、重力の頚木を振り切って星空に飛んでいかないように」
梧桐先輩に身を寄せ、キスをした。
これは私というちっぽけな存在が積み重ねてきたものが崩れ去るまでの物語。
次で四葉は揃う。最後のピースが埋まる。
次に紡がれるのは、一体どんな物語なのだろう。
第三部 星空の観測者 三枝あかり編 完
第四部 神々の継承者 ステーシー・バントライン編へと続く
ご案内:「路地裏」から梧桐律さんが去りました。
ご案内:「路地裏」から三枝あかりさんが去りました。
ご案内:「路地裏」にビアトリクスさんが現れました。
■ビアトリクス > 人気のない、落第街の路地裏。
周囲には塗料の臭いが立ち込めている。
ビアトリクスは壁に背を預け、疲れた様子でへたり込んでいた。
傍らにはスプレーや刷毛、脚立といった道具の数々。
向かい合う壁には、星々瞬く満面の宇宙――の絵。
その中央には、大きな縞猫が躍っていた。
今しがた作品を完成させたところだった。
■ビアトリクス > いわゆるストリートアートやスプレーアートなどと呼ばれているものである。
ビアトリクスはたまに気が向いた時にこうして突発的に落第街地区に訪れて
壁面に素早く作品を描きつけては去っていくことをしていた。
なぜわざわざ落第街でやっているかというと、
許可無く路上でこういうことを行うのは器物損壊にあたる犯罪となるからである。
公式には存在しない落第街で行えばそういった問題はクリアされるのだ。
翌日にはペンキで上書きされているかもしれないが、それは別に構わない。
もちろん残っていることに越したことはないが。
チャコールグレイのスマートフォンを取り出し、撮影して保存しておく。
■ビアトリクス > 「ふう……」
足を投げ出して、首を回しながら。
以前落第街に足を踏み入れたときのことを回顧する。
確か《魔術師喰い》を討伐してやろうと目論んでいたのだったか。
どうしてあそこまで焦っていたのだろうか、自分は?
目を閉じる。永久イーリス――母親の声が甦る。
甘やかすような――それに含まれる確かな侮り。
母親が自分に求めるもの。
自分が母親に求めるもの。
ずいぶん冷静になった今、それは掴みかけている。
しかし言葉にして確認することは、ビアトリクスにはできなかった。
ご案内:「路地裏」に織一さんが現れました。