2016/06/15 のログ
ご案内:「スラム」にヨキさんが現れました。
ヨキ > 早朝のスラム。
胡乱な気配がひとまず鳴りを潜め、夜の住人たちが漸う眠りに就く時刻。
せんせえ、行かないで、というか細い声を背に、ヨキは穏やかに微笑んで辞去した。

玄関の扉を閉めたあと、少女は追って来なかった。
申し訳程度に設えられた埃っぽい窓の隙間から、ヨキが拵えてやった朝食の匂いが薄く漏れていた。

錆び付いてくすんだ色のバラックを後にして、閑散とした通りに出る。
シャワーを浴びたばかりの髪はいつにも増してふわふわとして、女物のシャンプーの匂いがした。

吸いさしの軽い煙草を唇に食んで、規則正しく静かな靴音が路地を歩いてゆく。

ヨキ > 彼女は学園の卒業生で、ヨキの教え子のひとりだった。
常世島の庇護から自立できぬまま、なし崩し的にスラムへ流れる羽目になったのだ。

自分の目の届く限り、ヨキは教え子の精神的な面倒を見てやるつもりで居たから、今の関係は大した苦ではなかった。
結局は身体まで繋がった末、少女はついにヨキ個人から逃れることが出来なくなったのだが。

後ろ腰のバッグから携帯用の灰皿を取り出して、短くなった吸殻を押し込む。
ヨキの飯が不味くなるから止せ、と、少女の口から奪った一本だった。

歩きながら、大きく伸びをする。人を抱いたあとの、色を含んだ気怠さ。

ご案内:「スラム」に紗衣留アルミさんが現れました。
紗衣留アルミ > 曲がり角の一つから、ドブの……
いや、正しく言えば沼底の臭いがした。

その小道に面した家々の住民たちは、
訝しげに眉を顰めながら、しかし原因を探ろうとするでもなく窓を閉めた。
関り合いになれば、おそらく悪臭よりも醜いものを見るとでもいうように。

小路の奥からは、
「……なの?ボクが思うに、それはよくないんじゃないかな――」
とぎれとぎれに、声が聞こえた。

ヨキ > 通り掛かった路地の奥から漂う臭いに、不意に目線を上げる。
体液、皮脂、生ごみ、汚物、犬猫の死骸、そんなようなもので地盤を形づくったようなスラムであるからして、
ヨキは然したる問題には感じなかったが――鼻先が嗅覚に釣られるのは、単なる生き物としての習性だ。

「………………、」

通り過ぎざま、金色の瞳が通りの向こうを見遣る。
よほどのことでもない限り、そうそう立ち止まりそうにはなかった。

歩調に合わせて揺れる猟犬の耳が、か細い声を拾い上げる。

紗衣留アルミ > 「――いやだってキミは――の人のことが好きなわけだし」
臭気が淀んでいる。
「会っても居ないのに結論を出すには――」
ただのドブよりも悪いのは、その臭いが不要物を蹴りこんで腐らせるに任せた死臭のみならず、
「――そう!そうだよ!」
この常世島の屑籠の下に溜まる汚汁にも劣る腐臭は、ここに一つの循環を成し、何かを生み出そうとしていた。
「間違いないね、キミは会いに行くべきだよ!なにしろ、愛してるんだから!」

会話をしているにしては、片一方の声しか聞こえないが。
おそらくその会話は終わりに近づいていて、

ソレに応じて腐臭は一層強まり、勘のいい通行人は気を悪くして崩れ落ち、
勘の悪い者達は引き寄せられていく。

「……あれ、なんだよ、これ…なんでこんな、変だろこの道」
酷くぬかるんだ道に、ピカピカに磨かせたブーツを汚しながら困惑した表情でたまたま通りがかった男が小路へと進んでいく。

ヨキ > 他人の惚れた腫れたに本心では全く興味のないヨキが、徐に足を止めた。
眉を顰めて、声の主に目を凝らす。
立ち止まったものには然程芳しくないヨキの視力だが、早朝の未だ薄暗い路地の奥ともなれば話は別だ。

嗅いだことのない類の臭いに、警戒を強める。
角の建物の外壁に身を潜め、気配を消す。
およそ生物の発する臭気ではない。何らかの怪異か、あるいは未知の異能か。

視界の端で、そちらへ足を向けた男を横目で一瞥する。
大それたことが起こらぬ限り、街の在り様には手を出さないのがヨキだった。

紗衣留アルミ > 「おい……おい、嫌だ、おれ、こんなのは嫌だ、聞いてない!聞いてねぇぞ!畜生!くそっ!ふざけんな!」
男が足をすすめるたびにぬかるみはひどくなり、段々と足を地面から離すことが難しくなっていく。
下半身がすり足をしてでも前進しようとするのを、上半身が必死に食い止めようとして、閉じた窓に、開かない扉に手を伸ばすものの結局掴めずに、
沼に引きずり込まれていく。
「やめろ!ヤメろっつってんだよ!何でだ!何で俺なんだよ!なんでなんだ!」
腕さえ沼から出せなくなり、やがてわかりきっていたように首が埋まり、それでもその顔は奥へ奥へ。
「なんで……なんで、どうしてだ、どうしてここまでしておいて、俺を見ねぇん」
ごぼり、と男の頭が沈んだ。

路地の奥には黒い沼地が広がり、視覚嗅覚その他どの五感にも此処はスラム街ではなく、森深い沼沢地だと訴えかける。
男を飲み込んだあと、静まり返っていた水面にごぼり、と泡が湧いた。
水面に足を触れずに、その泡に頷いて、返答するかのように最奥の真黒き沼澑まりにむけて声を投げかけているのは、長ランの少年とも少女ともつかぬ人物。
「……うん。ボクもそう思うよ。それじゃ、ね」

会話の終わりとともに、スラム街の路地裏が戻ってきて、
ついでにその人物も路地から通りへとスタスタと歩き出した。
メモ帳を二、三度確認。駆け足に変更。

程よく急いでいるおかげで、出会い頭の衝突事故のことは危機管理の想定外であり、
ということはむしろ規定コースとして衝突は近づいている。

ヨキ > 「………………………………、」

徐々に高くなりゆく日光を背にしたヨキの顔に、暗い影が落ちている。
男の悲鳴。その身体を跡形もなく呑み込む沼。沼に語り掛ける小柄な人物――
壁の向こうから表情を断って様子を窺っていた鋭い眼差しが、その一部始終を見ていた。

長衣を翻して歩き出す子どもの、足取りを注視する。

通りへ出ようとするその視界からは、壁の陰から突然長い腕がぬっと現れたかのように見えるだろう。

それは一瞬のことだった。

大きく開かれた四本指の手のひらから、突然銀色の煌めきが放たれたように見えた。
素早く空を切る銀色はたちまち鎖の形を取って、向かってくる人物を正面から捉えに掛かる。

先端の分銅が、遠心力で子どもの身体に幾重にもぐるぐると絡み付いて、その身体を地面に引き倒さんとする。

紗衣留アルミ > もう一度胸ポケットに手を伸ばし、メモ帳を確認し直そうとしていたところ、
つまり何が有ろうと衝突するであろうどうしようもない油断と慢心の引き換えに、

「なに、ちょ、えぇ!?」
身をかわすということさえ無く。あるいは出来ずに。
銀鎖の縄目がキリキリとアルミの体と結びつくと、その細い首元と言わず、全身を束縛するのにまるで抵抗はなかった。

顔から落ちた。突き出された手は見えていたから、おそらくその人物の居るであろう背後を振り向こうとしているが首の振り向きだけでは果たせない。
「ええと……誰!?」
じたばた、とのたうつがごろりと転がればいいということは知らないようだった。