2016/08/01 のログ
ご案内:「国立常世新美術館」にヨキさんが現れました。
ヨキ > 常設展や企画展のために使われる大型の展示室から少し離れた、
個人やグループ展のために使われる展示室の一つ。

八月中に行われる自身の個展の設営も無事に完了しており、ヨキは改めて室内を見渡した。
壁やパーティションのない、白を基調とした空間の中に、自作の数々が飾られている。

「……いよいよか」

息を吐く。

日々触れ合ってきた作品が、畏まったかたちで飾られるということ。
ヨキは展示室の中を、改めて見て回ることにした。

ヨキ > 展示室に入ってすぐの受付台には、芳名帳と配布用の作品リストが置かれている。
作品のタイトルや形式などを一覧するための、簡易的なものだ。

そうしてまず目に入るのは、展示室の中央に天井から吊り下げられた、花のオブジェである。

その名を「落花図」という。
椿の一種――侘助が、花のまま地に落ち、朽ちるまでの光景を写実的に写し取ったものだ。

天井から床まで、目に見えぬほどのワイヤーに支えられた花は全部で九つ。
満開の花が少しずつ朽ちて形を変えながら落ち、最後には床の上で萎びて潰れている。

それらがまるで連続写真のように、落ちる速度に比例した間隔で花が吊られている。
花は人の頭ほどに拡大されており、その写実的な質感はまるで動物の器官のようでもある。

鉄で作られた花の、いわば九相図といったところだ。

モチーフに選ばれた花が、花粉を作らぬ侘助であるというのは――さて。
果たしてヨキが何をどこまで投影したか、この場では明らかにはされない。

この「落花図」が、展示室の全体の雰囲気の中心であると言ってよかった。
無機質にしてどこか艶めかしい、金属でつくられた自然。

ヨキ > 続いての一角には、比較的大型のオブジェが数点並んでいる。

たっぷりとした量感の、水牛の全身像。
男性や女性の裸身を象った立像、それから座像。
実物大の活花や流木を金属に落とし込んだもの。
抽象的なタイトルの、素材そのもののフォルムを観賞するためのもの。

材質は鉄や銅などが好んで使われている。
無彩色の金属ながら、作品によっては焼き入れによってその表面が虹色に見える。

数体の人物像は、自然なフォルムで表されたものと、ディテールがどことなく誇張されたものが交じっている。
全身をくまなく写し取ったものと、人間のパーツの各部へ過剰なまでに肉薄したもの、その視点の違いだ。

犬の視覚で人間の視野を見ることについての、ある種の実験の軌跡でもあった。

緻密な花の細部や、動物が持つ凹凸の再現からは、ヨキがそのように細やかな作業を好むことが見て取れる。

ヨキ > そして展示室の奥の壁際には、ヨキの主要な作品である「対比」シリーズ、その全六組が並んでいる。

「対比」とは、ヨキが自身の異能と、手ずからの作業によって作り上げた、一組の女性像だ。

しなやかに躍るもの、手を取り合うもの、睦まじく抱き合うもの、背を向け合うもの――
構図はさまざまだが、「No.1」から「No.6」まで、すべてが鏡写しのペアとなっている。

二体の像は並行して作られ、異能と手作業と、「どちらが先に作られたものであるか」は曖昧だ。
異能で操作した金属が手作業の着想を与え、自ら槌で叩いた金属が異能の操作に新たな糸口を示すのだ。

昨年の学園祭においては、異能製と手製とを伏せ、鑑賞者にどちらであるのかを一考させていたが、
今回は一括して「右の像が手製、左の像が異能製」という位置で飾られている。

異能芸術の展示や、美術雑誌に小さく紹介されたことのあるシリーズで、
もしも学外でヨキの作品を見た覚えがあるならば、この「対比」が多いだろう。

ヨキ > 続いては、小品の数々。

今回の案内のメインビジュアルとして使用した花器や食器、装飾品、ランプ、根付などが、
台座やガラスケース内に陳列されている。

鍛金の技法で打ち延ばした金属に、細やかな彫金が施されているもの。
槌で叩いた跡が目に見えぬほど、仕上がりの滑らかなもの。
木や裸石など、金属以外の素材を組み合わせたもの。

日本や欧米、そのいずれの形式からも隔たった美意識が交じり込むのは、
ヨキが異世界の出身であることがその大きな要因だろう。
新鮮さとも突飛さとも取られかねない、ヨキ自身の創作意欲が垣間見える。

そんな日用品の中には、日本ならではの「用の美」に従った作品も少なくない。
なかなか好みが分かれる一角だろうとは、ヨキ自身予感している。
それでも、この「視差」という個展の題とテーマに沿うならば、分け隔てなく出品したかった。

ヨキ > 最後は、シンプルに額装されたドローイングが壁に掛けられている。

硬質でいて有機的な印象の金工の作品に通ずる、迷いのない描線。
降って湧いたアイディアを写し取るのは勿論のこと、
静止した像が視認しづらい弱点を補うための、いわば習練だ。

ヨキが師事したらしい老翁の横顔や、シーツの上に横臥する女、常世島の馴染み深い街角、
じゃれ合う猫に、誰かが履き潰したブーツ、はたまた野花のスケッチ。
紙一枚の中に、学生らの何気ない仕草や、後ろ姿ばかりをたっぷりと描き止めたものまである。

ヨキの日常と、四本指の手の動きとが、そのまま表れているかのようでもある。
ここに飾られているばかりが制作のすべてではないと、天井知らずの情熱の一端を見せていた。

ヨキ > はじめは子どものように逸っていた胸のうちも、搬入を終えた今は明るい昂ぶりに代わっていた。

いよいよなのだな、と改めて思う。
訪れた者の心に、何かしらの余韻を残したかった。
どんな好悪だろうと、さざなみを起こすことが出来るのならば構わなかった。

作品に添えられたキャプションは最低限の情報と解説のみが記されて、
その根まで露わにするようなことはしなかった。

対比。

人と獣と。
地球と異邦と。
異能者と無能力者と。

生と死と。
人工と自然と。
無機と有機と。

そうして、ヨキと鑑賞者と。

明るみと昏がり、新しいもの古いもの、美しいものとそうでないもの。

鑑賞者には見えなかったことを、ヨキが作品として示すために。
ヨキの目には見えぬことを、鑑賞者によって見出されるために。

この空間は、ヨキが渇望してきたものの具象なのだ。

「視差」――それは視界を共有するための試みだった。

ご案内:「国立常世新美術館」からヨキさんが去りました。