2015/08/23 のログ
ご案内:「バル『エストレリータ』」に『伴奏者』さんが現れました。
『伴奏者』 > 「バル」というのは、南欧でいう喫茶店みたいな場所のことだ。
この島にもいくつかそれらしい店がある。
朝にはコーヒーを、昼には酒と軽食を、夜も酒とちょっとした小皿の料理を出している。

ここはそういう店のひとつ。『エストレリータ』。
数あるバルの中でも、ここは少しだけ特別だ。
店の奥にはささやかなステージがあって、時々流しのチェロ弾きやジャズマンが現れるのだ。
今日は白いスクリーンがかかっていて、今はモノクロームの映像が投影されている。

そこに映し出されているのは20世紀最高のヴィルトゥオーソの姿。
スピーカーから流れる音色に耳を傾けつつ、待ち人はいまだ来たらず。

三枝あかり。彼女をここに呼び出している。
迎えには行かない。それがいつものやり方だったから。

ご案内:「バル『エストレリータ』」に三枝あかりさんが現れました。
三枝あかり > 店の中にそろそろと入る。
中に入ってすぐにスクリーンが目に入る。
ムーディな音楽が流れているが、詳細はわからない。

すぐに見つけた、墓の前で見た写真と同じ姿の少年が目に映る。
彼こそが私を呼び出した人物。ではない。
私を呼び出したのは奇神先輩だったはず。

「あの……」

なんて声をかけたらいいのだろう。
奇神先輩のヴァイオリンを返せ?
それともあなたは一体何者だと聞く?
どれも正解なようで、その実どれも正解ではない。
私にできるのはおずおずと声をかけることだけ。

『伴奏者』 > 数人の客たちがこちらを見ている。ひそひそと何か囁きあっている。
あれは梧桐律じゃないか? あの劇団の。フェニーチェの。
―――まさか。あいつは死んだよ。よく似た他人に決まってる、とかそういう話だ。

死んだはずの人間が出歩いている。
ここは不思議の島だから、そういうこともあるだろうと思う。
不死鳥は死なず。いつか再び飛び立つ時がやってくる。
それは動かしようのない事実だ。誰が何と言おうと終わらせはしない。

栗色の髪をしたやせっぽちの少女。
三枝あかりの姿を見つけて、左手を軽く上げた。

「奇神萱はここには来ない。呼んでないし、そもそも知らないはずだ」
「ジンジャーエールでいいか? まだ飲めないだろ」

丸テーブルの向こう、椅子を勧めながら一応メニューを渡す。肘をつく。
目に見えて戸惑っている少女に柔らかな笑みを向ける。

「梧桐律だ。俺のことはあいつからいろいろ聞いてるよな」
「よかったら、自己紹介してくれないか?」

三枝あかり > ぐっ、と息が詰まる感触がした。
柔和な笑みを向けられているはずなのに相手の物言いがどことなく、怖かった。
それでも店の中でいきなり暴れるようなことはしないはずだ。

そう思って席に座る。

「梧桐律……先輩、ですかね…」
「私の名前は三枝あかりです、一年生。生活委員会の」
相手だって酒が飲めそうな年齢には見えなかった。
「それじゃジンジャーエールでお願いします」
「あの……梧桐先輩、奇神先輩から色々と話は聞いています」

緊張で喉がカラカラだ。
それでも言わなければいけないし、聞かなければいけない。

「……何故、奇神先輩にあんなことを?」

『伴奏者』 > スクリーンの中の映像はどこかの映像作品の断片だろうか。
銀幕を見守る群衆。その向こうにはマヌエル・ポンセの名曲を奏でるハイフェッツの姿がある。

「『エストレリータ』という曲だ。意味は、小さな星」
「これは短い人生ですれ違う者同士、届かぬ思いの切なさを謳う歌曲だ」
「そりゃもう、大いに売れた。ポンセの代表作として知られてる」

「演奏は…あの男は、ヤッシャ・ハイフェッツ。人呼んで、『ヴァイオリニストの王』」
「20世紀にその人ありと言われた最高の奏者だ」
「人類の歴史を振り返っても、あれほどの人は数えるほどもいない」
「同じ時代に生まれたヴァイオリニストたちは誰もが絶望を味わったといわれてる」
「この音色に誰もが魅せられた。心から憧れた。この曲はハイフェッツにこそふさわしい」

銀幕を見上げ、練習用のヴァイオリンを抱いて運指を真似る少女の姿が映る。
決して届かない存在だと知りながら、憧れることを止められない。
その姿すら、ハイフェッツの甘美な演奏が優しく押し包んでいた。

「あんなこと? あの女から何を聞いたか知らないが、それは嘘だ」

飲み物が運ばれてくる。遠慮するなと手振りで示して、続きを促す。

三枝あかり > 「エストレリータ………小さな、星」
自分が眺めているものと同じもの。
小さな星と、すれ違いの日々。
「……縁がある人同士はどんなに離れていても巡り合うけれど」
「縁がなければ街中ですれ違っても他人同士」
この人とめぐり合ったことにも意味があるのだろうか?
なら、運命は私に何をしろと言っているのか。

「ヤッシャ・ハイフェッツ」
相手の言葉を反復した。
「その最高の奏者の残したものを、ここでみんなで眺めているんですね」

「え…………」
戸惑う。奇神先輩が嘘を言うとは思えない。
とりあえず、ジンジャーエールを口にした。
喉が潤い、相手と会話を進めようという意思が沸いてくる。
「奇神先輩がお腹を蹴られて、無理やりヴァイオリンを奪われたって…」
「もし、そうでないならこの食い違いは一体……」
どうにも腑に落ちない。
どちらかが嘘をついているのであれば、疑うべきは目の前の男性なのだけれど。
この人が嘘をつく理由を探らなければならない。

自分に、それができるだろうか?

『伴奏者』 > 「他にもいろいろだ。今日は誰もいなかったんだろうな。あの舞台に立てる人間が」

続く言葉を聞いて笑う。笑うしかないという顔をして、哄笑する。

「あはは。そんなことを! いかにもだな。あいつが言いそうなことだ」
「親父の楽器を取りもどしたことは事実だ。細かいところで「記憶違い」があるみたいだが」
「風紀に保管されてた楽器を盗み出したのもあいつだ。よくやるよな」

「あの女は嘘をつく。言い方を変えれば、真実と願望の見分けがつかない」
「自分がそうだと信じ込んでるストーリーを他人にまで押し付ける」

胸に手をあてて自分を示す。これがその一例だと仄めかすように。

「もっと悪いことに、自分の嘘が真実になるべきだと思ってた」
「自分の方が間違ってるかもしれない。疑うべきは自分だと思い至ることもない」
「お前が知ってる奇神萱は、そういう怪物だ」

首を振る。信じ込んでいるのが残念だと表情で示す。

「おかしいと思ったことはないのか? ただの一度も?」
「梧桐律は死んでない。刺されただけだ。消耗はしたが、命だけは取り留めた」
「出歩けるようになったのはつい最近のことだ。軟禁まがいの身の上だった」

三枝あかり > 男の哄笑に、背筋が寒くなる。
相手の言っている言葉が自分に染み込んでくるまで大分かかった。

「………嘘を、つく…………?」

奇神先輩が言っていることに嘘があるならば。
その事実を理解するまで時間が必要だった。
あの時も。あの時も。あの時も。

嘘をついていたのであれば。

「そ、それじゃ……奇神先輩は梧桐先輩を刺した人物で…」
「自分の嘘を真実だと信じ込んでいる、人間…」

その人物が嘘をついてまで自分と一緒にいたがった理由がわからない。
もし彼の話すことが全部本当なら。
私は人を刺した狂人と一緒に色んなことを話していた。
何気ない日常を。長年苦しんできた悩みを。
いつだって全部ぶち壊せる位置で。何もかもを聞いていた。

それでも自分の中に奇神先輩を信じている部分があるのは確かだ。
目の前の男が嘘を並べて自分を懐柔しようとしている可能性。
でも、私は何の力もない一女学生。
もっと強い異能を持つ人物を騙したほうがまだ彼にとって得があるだろう。

もうわからない。何を信じればいいのか。

「……それで…」
頭痛がする。頭を押さえて話を続けた。
「梧桐先輩は死んでいなかった。それで…」
「証拠があるんでしょうか? その話に」
「奇神先輩の語る言葉が全て真実で、あなたが異能や科学で作り出された存在でないという、確固たる証拠が」

冷たいジンジャーエールを飲む。幾分か気が紛れた。

『伴奏者』 > 「あの女は俺を殺したと思い込んでた」
「強迫観念にとりつかれて、ありもしない幻想を思い描いたのさ」
「勝手に刺して勝手にぶっ壊れた挙句、妄想は行き着くところまで行き着いた」

南欧式レモネードのグラスを混ぜて、酒精のよどみを攪拌する。
この店のレモネードには香り付け程度にリモンチェッロが混ぜられているのだ。

「こっちもいろいろ調べさせた。あいつ、梧桐律は死んだって触れ回ってるそうじゃないか」
「殺された梧桐律が蘇った。今じゃ身体を乗っ取って、空っぽになった自分の代わりをしてる」

鼻で笑って、グラスから一口。喉を湿らせる。

「それをお前は信じてるのか?」

失望を隠さずに問いかける。

「証拠ならあるさ。俺が俺である何よりの証拠だ」

マスターにスクリーンを引き揚げさせ、ステージに照明を集める。
そのただ中。手に馴染んだグァルネリウスを肩にあてて、弦を軽く一撫でした。

「タルティーニやパガニーニもいいが、今はエルガーを演ろうと思う」
「ヴァイオリンとピアノのための室内楽曲。『気まぐれ女』だ」

愕然とする客たちに鷹揚な一礼をして、牧歌的なスタッカートを紡ぎだす―――。

三枝あかり > 「そう……なんでしょうか…」
「もし、奇神先輩が嘘で自分を塗り固めていた存在だとして」
何かが引っかかる。
彼の言っていることには、致命的な瑕疵があるように思えた。

ジンジャーエールの液面を揺らす。
その中に映る自分の表情は読み取れない。

「蒼黒の不死鳥、フェニーチェの『伴奏者』……」
それぞれが決める言葉の意味。
それぞれが求めるイメージの欠片。

そうだ、彼が言う言葉が真実であれば。
ある一点においておかしい部分がある。

そして始まる演奏。美しい旋律。
英国楽壇の『中興の祖』とされる作曲家の作り出した世界。
演奏の途中だけれど、相手に疑問をぶつけることにした。
コツ、コツと自分の足音がいやに耳に残る。

「梧桐先輩、あなたの言葉が全て真実であるならおかしい部分が一つあるんです」
「それは奇神先輩も美しい旋律をそのヴァイオリンで演奏した、ということです」
「心を震わせる演奏、それは本物の演奏者が本物の楽器を持たないと作り出せない」

星空の観測者は疑問を『伴奏者』にぶつける。

「おかしいんですよ、奇神萱という人物は私が追っているある事件のついでに調べた結果」
「フェニーチェのパトロンの令嬢だったはずなんです」
「もし、彼女がただの狂人であるならばグァルネリウスを完璧に使いこなせるわけがない」

「彼女の言葉が真実でなければこの一点において破綻しているんですよ」

「私は奇神先輩の演奏を聴きました、何度も」
そのたびに美しい旋律が心を満たしたことを覚えている。
あの演奏が嘘であるならば。この世に凡そ真実なんてものは存在しない。
「奇神先輩の演奏は、本物だった……あなたは何者なんですか…?」
「何故、私に嘘をつこうとしたんです?」
「何を思って……あなた自身も本物の演奏をしたんですか…?」

『伴奏者』の音楽もまた、心を震わせる音色。
二つの真実。それを前に、胸の前でぎゅっと両手を握った。

『伴奏者』 > 緩やかな曲調の中に一糸に乱れぬスタッカートが大輪の華を結ぶ。
卓越した技巧で見せる曲ではない。あくまで旋律を彩る装飾としてのスタッカートだ。

第一主題の後には波乱含みのドラマを仄めかすような転調がやってくる。
その後もめまぐるしい転調が目白押しだ。

そこには気まぐれ女に振り回されるような愉しさと愛らしさがある。
旋律の向こうに垣間見えるその姿。
ころころと表情を変える。その度に新しい彼女に出会う。

ひとつの恋が始まり、そして幸せな幕引きを迎えるような、茶目っ気たっぷりの作品だ。

余韻を残して弓を放す。聴衆を見回す。一呼吸遅れて歓声と拍手が追いかけてきた。
空気も読まずに挑みかかる少女を正面から迎え撃った。

「技能にまつわる記憶の刷り込み。無意識下の機械式自動学習」
「脳の未使用領域を使う方法も考えられるな」
「今は本当の意味での専門家がいない時代だ。知識は共有化されて、他人の感覚を味わう術は無数にある」
「本物とは何だ。お前のいう本物がコピーでない保証がどこにある?」
「あの怪物はお前の想像の先を行く存在だ。カネのある人間は何だってするのさ」

憂いを帯びた表情、皮肉に笑って。蒼く燃える瞳に決然と揺るぎない意志が垣間見えるだろうか。

「嘘つきは一人だけだ。あいつの嘘を砕き潰して病院に叩き込んでやる」
「俺が望んでるのはそれだけだ」

ふたたび聴衆に向き直る。

「今日はあと一曲だけ演っていく。聞いてくれ。シューマンの『トロイメライ』だ」

舞台の上の人となって、弓を落とす―――。

三枝あかり > 演奏は転調の時を迎える。
胸が締め上げられる。
奇神先輩か、梧桐先輩か。
どちらかが私に嘘をついたまま美しい旋律を紡いでいる。

そして演奏は終わりを告げる。
歓声と拍手の中で、自分ひとりだけが場を乱している。
『本物』にケチをつけている感覚すらあった。

「お金で……演奏技術を………?」

そこまで言われると反論の余地がない。
すとんと近くの椅子に座り込んで。

夢想の名を持つミュージック。
メロディアスに、高々と奏でられる旋律が場を満たす。

今、私の顔にはどんな表情が張り付いているのだろう。
そんなことを考えながら、彼の演奏を聴いた。

『伴奏者』 > ロベルト・シューマンは19世紀初頭の作曲家。
彼は忘れ去られたドイツ音楽に再び熱と息吹を吹き込むという大事業を成し遂げた。
ブラームスとのロマンスめいた友情で有名なクララ・シューマンの夫でもある。
逸話の多い人物だが、彼はとりわけ子煩悩で知られていた。

シューマンは子供を愛し、子供のための曲を書いた。
だが、それだけではない。
『子供の情景』には愛妻クララの面影も重なっている。
作曲家はクララに子供らしいところがあると感じていた。好ましい意味だ。

『トロイメライ』は連作の中で最も有名な第7曲。

この作品に触れるたび、子供時代のとりとめもない思い出が蘇ってくる。
過去への追憶。甘い郷愁をのせて、緩慢な旋律が童心への回帰を誘う。

より深い眠りへと、螺旋階段の様に四小節の繰り返しが続く。
童心。郷愁。思い出。追憶。歓喜。あるいは悔恨か、喪失感か。

理想化された過去への感傷が混ざりあってトロイメライ/夢見心地へと昇華されていく。

異界存在の介入は何の前触れもなく始まった。
―――第一段階は、思考の幼稚化。
聴衆は自覚できるほどの変化もないまま、真綿で首を絞められるように思考能力を失っていく。
そして、第二段階。瞼を開けていることさえままならない眠気に襲われる。
ちょっとやそっとでは醒めない眠りだ。

酔客の一人がテーブルに倒れこんで、ジョッキが粉々に砕けて散った。

三枝あかり > 「…………?」
思考能力が鈍ってきた。
ふと、先ほど飲んだジンジャーエールを思い出した。
違う。これはそんなチャチなものじゃない。

「あ…………」

椅子に深く座り込んだまま、どうしようもない眠気に襲われる。
一体何が。
一体何故。
近くでジョッキが砕ける音に一瞬だけ正気に戻る。

「せ、せんぱ………」

呼んだのは、どちらだったのか。
それもわからないままに意識が闇に落ちていく。
三枝あかりは、椅子に深く座り込んだまま意識を手放した。