2015/07/26 のログ
ご案内:「アンヘルの隠れ家。その一室。」にアンヘルさんが現れました。
ご案内:「アンヘルの隠れ家。その一室。」に奇神萱さんが現れました。
アンヘル >  落第街の奥の奥。建造物が絡み合い、まるで迷宮となったようなその場所にアンヘルの隠れ家は存在する。
朽ち果てたような外見とは裏腹に、地下へ降れば、その内部は完璧な整備が施されている。
まるで別世界に迷い込んだかのような温度差。
 強固なセキュリティに閉ざされたその奥、防音設備の整ったその場所に少女――奇神萱を寝かせている。
 落第街における闇医者に既に治療させたのか、手当の痕も見て取れるだろうか。
「あァ、クソ、大損だ、大損……」
 ダウナーな調子で頭をかきむしって爪を噛む。オーディオ設備の正面に据え付けられた椅子に座り込んで、
左右のブーツをぶつけ合わせてはその"客人"を睨めつけている。

奇神萱 > ずきり。

「――――ん……」

頭の痛みに覚醒を促されて、薄目を開けた。
薄靄がかかったような視界には見慣れぬ天井があって、わけがわからずに目を瞑った。

呼吸をするたび、内臓が気味の悪いきしみをあげる。
わずかな身動ぎをするだけで、身体じゅうが一斉に猛抗議をはじめた。
手が信じられないほどに重く、上がらなくなっていた。
合成樹脂でできた粗悪な模造品のようなそれを顔の高さまで持ち上げるのに随分苦労をした。

頬。額。それから頭も。
黒髪はべとべとと不快な感触があったが、かすかに薬品の匂いがした。包帯が巻かれていた。
細部までは思い出せないが、傷を負ったいきさつははっきり覚えている。

誰かが手当てをしたのだ。

「ここは……」

アンヘル >  彼女が目覚める。自分自身の状態を確認する彼女の一連の仕草を見つめ、
この場所への認識が終わる頃に声をかける。
「よォー、おメザかよ奇神くゥん……」
 ガン、ガン、ガン、と耳障りな金属音。
ブーツとブーツのぶつかり合う音を立てながら、アンヘルが頬を引き攣らせて歯を見せる。
「ゴキゲンだよなァ、何が起きてどうなった覚えてるか?
ここはどこ、私はだァれ、なーんて月次なこたァ言わねえよなあ、ええおい」
 アンヘル。怒りに満ちた相貌。その表情は嗜虐的なものに見えるだろうか。
彼はただ、常に荒れ狂う苛立ちを解消するために、その衝動を何かにぶつけているだけに過ぎないのだが。
 勢い良く反動をつけて立ち上がる。見下ろすようにして彼女を見つめ。
「"オマケ"は無くなって、残ったのは"チップ"だけ。ハ!」
 嘲笑うようなニュアンスではなく。ガリ、と。己の頬を掻きむしった。

奇神萱 > 「………アンヘル」

「お前の仕業か」

狂気にとらわれた獣のような男。幸か不幸か、その名前を知っている。
何をさして言ったのか自分でもよくわからなかった。

最後に覚えているのは、身も心も焼き尽くさんばかりの憤怒。
かつて感じたことがない程の激情にさらされて、か細い神経の糸が切れたのだった。
その火はとうに消えていた。

感情に波風が立つ様子はない。
疲労と痛みと底無しの喪失感だけがあって、考えをまとめることすらできなくなっていた。

「黙れよ。莫迦に見えるぜ。お前の声は頭に響く……」

アンヘル > 「バカ? オレが? おいおい、なんの冗談だ、ええおい」
 ガン、ガン、と。ブーツが床に対して打ち付けられる。
隠れ家、その最後の場所だけあって、アンヘルの怒りを受け止められるだけの強度がその床にはあった。
その音から、ここが密室であり、また、防音設備の整った部屋であることはうかがい知れるだろう。
「テメエの半身を奪われる間抜けよりはよォ! オレのほうが余程上等だろう?」
 挑発するような声色。ガン、と一際強く打ち付けられた金属音に共鳴するようにアンヘルが奇神を睨む。
「テメエはアレか? 通信簿に『成績は優秀ですが協調性に欠けます』とか書かれるタイプか?
ええおい! オレぁよお! 覚えてますかって聞いてんだぜおい!」
 

奇神萱 > 言って聞くような相手じゃない。元より期待もしていない。
何を言っても怒り狂う男だ。わかって言ってる。

皮肉に笑った。

「それな。はは。結局しくじったのかよ」

アンヘルの口ぶりからして『伴奏者』は健在だ。
まだすこしぼやけた目を向けて、金髪の獣を見上げた。

「お前と………あいつがやりあってるのを見た。詳しいことは何も。そこまでだ。あとのことは…」

耳障りな金属音が聴覚に突き刺さる。律儀に反応してやる代わりに顔をしかめた。

アンヘル > 「あァー……それだ、それだよ……」
 しくじった。確かにそうだ。結局のところ仕留め損なったには違いない。
『伴奏者』は結局発見の報告はなく。グァルネリウスの見つかりはしない。
それが一層怒りを駆り立てて、足の勢いを強めていく。
「テメエの楽器を見つけてよォ、それでウサを晴らそうかと思ったのに!
ああ、くそ、大損だ!」
 見上げる少女と、見下ろす男。
ベッドに蹴りこみ、大きくそれが揺れる。一度きり。それで背を向けてもう一度頭を掻きむしった。
「あれじゃなきゃあダメなんだろう? 
テメエがクソみてえに寝込んでる間に集めちゃ見たが、アレに比べりゃクソみてえなもんしかここにゃあねえ」
 彼女の視界から外れた場所。幾つかのヴァイオリンが並べてあった。
これらはいずれも、常世島で手に入れられるものの中ではとびきり上等な代物に入るだろうが――。
それらが三大名器と謳われるグァルネリウスと比べられるはずもない。
「クソ。ぶっぱらして売っぱらって、金になるかも怪しいか」
 そもそも。あの戦いで掛けた金額に比べれば、おおよその事柄は微々たる金額になる。
常世財閥研究室謹製のワイヤー、仕掛けたそれらをすべて失ったのがあまりにも痛手であった。
「なァ、ええおい。テメエには何ができる? テメエに今、なんの価値がある?」
 苛立たしげな視線を向け、顔だけで振り返る。

奇神萱 > ベッドを蹴られて身体が揺れる。
痛みを与えられたのに、ほんのわずかな怒りさえ湧かなかった。

「損得を気にして動いてたのか。ただの狂った人殺しかと思ってた」

損だの得だのと言っていた気もするが、禁忌すら平然と犯す凶人の印象の方がずっと強かった。
ヴァイオリンを集めてみたと言ったことがにわかには信じられなかった。

「は。ご苦労なこった。今度は何人殺した?」

挑むような目で食ってかかった。愚にもつかない八つ当たりだ。
この際ひとつやふたつ傷が増えてもかわらない。気分が最低に腐っていた。

「上等なクソもある。使い手の問題だ。楽器の価値は音の良し悪しだけじゃない」
「………物語。歴史。畏敬の念。形のないものが価値を生む。刀と同じだ」

音楽の悪魔にも見放されたらしい。何も残らなかった。漠として、ただ空虚だった。

「何も。誰かが欲しがりそうに見えるか?」

アンヘル >  何人殺した、と。食って掛かる言葉に、アンヘルは再び激昂した。
「あァ? おいおい、テメエはアレか!? 二次元世界に生きてんのか? それとも池の中の鯉かァ!? 一方向からしか物事を見てんじゃねえぜおい!」
 怒りのあまり、手近な棚を踏み壊す。己の物だ。何を気にすることもない。
耳障りな破砕音。砕け散った棚を、ことさら強く踏みにじりながらアンヘルは怒りを発散させる。
アンヘルは、暴力だけでこの落第街を生き抜いてきた。
しかし、その手段は暴力というビジネスであり。
狂気めいた怒りばかりを振りまくだけの男ではなかった。
「ご高説垂れるよなあ! へえ、じゃああの相棒以外で上等なクソを垂れられるって!?」
 一際強く。破片を彼女に向かって蹴り飛ばす。
天蓋に当たって砕けた、細やかな破片が彼女の身体に舞い散るだろう。
 苛立たしげに、陳列されたヴァイオリンたちに手を伸ばす。
震えるような手つきでそれらを掴むと、引き寄せ、彼女の前に陳列棚ごとずらりと並べてみせる。
「選べよ。それで弾いてみせろ、ええおい。腕は動くか? 動くといいよなァ。それが出来なかったら……」
 指折り数えて。選択肢は4つ。
「俺の退屈しのぎのおもちゃになるか、ブッぱらしたあとに物好きに売り飛ばされるか、ぶち殺されるか、研究者どものおもちゃになるか」
 ベッドの上に足を乗せて。見下(みくだ)すように。
「選ぶんだな」

奇神萱 > 言葉ではなく、直感で理解した。

憤怒と暴力。これは手段だ。目的ではない。
世界を通して見る窓だ。行動を通して体現する、この世界への深遠なる理解だ。
自分がヴァイオリンを担ぐのとさして変わらない様に思えた。
これがこの男の技芸(アート)なのだ。

「褒め言葉だ。打算で生きてる様には見えなかったんでね」

大小無数の破片が降りそそいでベッドの上がとっ散らかっていく。

「はは。ははは。お前も退屈する事があるのか。今日ははじめて知ることだらけだ」

暴力が手段であるかぎり、コントロールを外れて暴走することはない。
強要でしか語れない男だった。付き合い方がわかってきたような気がする。

右手に目を落とす。踏みにじられた痕が無惨に膨れて包帯が巻かれていた。
消耗しきった状態で姿勢を保っていることができるだろうか。あまり現実的ではないが。
ぎしぎしと軋む身体を起こしてヴァイオリンを見遣った。

「魅力的な提案だな。今ここでぶっ殺されるのも悪くない。目移りしそうだ」

一挺ずつ手にとってたしかめた。どれも言うほど悪いものではない。
時間をかけて調律する必要があるものを選択肢からのぞいて、残った候補の弦の具合をたしかめてひとつ選んだ。

「最低最悪の状態なんだが、それでいいのかお前は。退屈しのぎにもならんぞ」

アンヘル > 「どいつもこいつも分かったように言いやがる! 言葉ひとつでわかりゃあ苦労なんざしねえだろうが!
あァ? 百科事典でも持ってるつもりかよおい!」
 怒り。男には怒りしかない。ありとあらゆることに怒りしか覚えない。
何もかもがアンヘルにとっては怒りの対象だ。
だからブーツに怒りを込めて、床を蹴り飛ばしながらアンヘルは吠える。
「なァ、おい。最低最悪、実に結構! そんときゃかわいそうな奇神クンが一丁出来上がるだけだ!」
 確かに彼女のコンディションは最低最悪。腕を持ち上げるだけで重さを感じた状態で、楽器などまともに演奏できるだろうか。
 だが。それでも構わないとでも言うように。アンヘルは歯をむき出しにして告げる。
「演ってみせろよ、なァ、おい」
アンヘルは猛りながら、その足の威を強めていく。
ガリガリと、ガンガンと。やかましく音を立てながら。
 猛る瞳で睨めつける。

奇神萱 > 「………黙ってろよ。ガキみたいなおっさんだよな」

無理やりベッドを降りて、膝が崩れてそのまま倒れこんだ。
一度に激しく動いたせいで目が眩むような痛みに襲われて呻いた。

「っく……!」

陳列棚に手をついて立ち上がり、楽器を掴んで肩にあてた。

―――何も聞こえなかった。思い出せなかった。

完全に暗譜していた作品は数知れず。
今は荒涼として、見渡す限り灰に埋もれて生命の息吹が消え失せていた。
その灰がもとは何だったのか、想像するだに恐ろしかった。

弓を落として、音を出して弦の具合を直す。
音はぎこちなく震えてはいないだろうか。姿勢は見苦しく崩れていないだろうか。
自分の耳が許せない音を奏でてはいけない。それは聴衆を裏切ることに他ならないからだ。

題名も告げずに奏ではじめる。

題名のない曲だ。
いまだかつて誰も奏でず、閃光のように瞬いては消える旋律だった。

範としたのはジュゼッペ・タルティーニ『悪魔のトリル』第3楽章。カデンツァの部分だ。
奏者独自の判断によって奏でられるそれは、短ければ趣意を損ない、長ければ主題を妨げる。
フリッツ・クライスラーの書いたものが有名だが、バロック・ヴァイオリンには本来の即興演奏がよく似合う。

今の自分には先人の名を語ることなどできない。今は遠い日々の面影を即興演奏に託した。

アンヘル >  演奏が始まるならば。アンヘルはアンプルを噛み砕く。
本来ならば女を抱く時ぐらいにしか使わない代物。
中身はただの栄養剤だ。ドラッグの類ではない、ただのアンヘルにとっての儀式。
 煮えたぎる熱情を、口からも発散させず、身体からすら発散させないよう。
ただ胸のうちに怒りを押し込めるだけのスイッチ。
 押し黙り、頭を掻きむしることもなく、足を床に叩きつけることもなく。
ただ胡乱な怒りを込めた眼差しで奇神を見る。
 題名も告げずに奏でられたそれ。
本来ならばあの場所で聞いたあの曲群をリクエストする腹積もりでもあったが、
この段に於いてはそれにはなんの意味もない。
 奇神萱の、おそらくその矜持を詰め込んだもの。
もしかしたら、その演奏は、普通のものからすれば聞き苦しいものであったかもしれない。
傷だらけの身体で紡がれたそれは、ただ無様であったかもしれない。
 稀代の名演奏だったかもしれないし、人を虜にする魔曲であったかもしれない。
 完全な遮音性を誇るこの部屋で、その曲を聴くのはただ一人。
怒りを顔に滲ませた、獣のような男ただ一人。
「ハ」
 小さく声を漏らした。僅かな、熱をもった怒りの発露。
煮えたぎるような熱情を漏らすように、男の口が小さく動く。
 ――少なくとも。
 女の演奏は情感に満ちたものだ。その魂がこもったものだ。
怒りの感情を得ることしかないアンヘルとは対極に位置するものだ。
 だから。彼女だけの。今この場にしか存在しない曲が、そこにはあった。

奇神萱 > ショスタコヴィチの『ヴァイオリン協奏曲第1番』第3楽章にも長いカデンツァがある。
前にどこかで見かけたもので、ダヴィッド・オイストラフの音源が残っていた。
4分半に近い縦横無尽の独奏。正真正銘のヴィルトゥオーソのために書かれたようなくだりだ。
第2楽章のモチーフを織り交ぜながら、12連符のグリッサンドを散りばめて、奏者はそこに君臨していた。

それに比べれば児戯にも等しいが、そこそこ力強く、情感を込めた雄弁なる児戯だ。
劇団のエログロナンセンスを盛り上げて、僅かに聴衆の本能に訴える程度の煽情的な旋律だった。
けれど、心底楽しかった。失われた楽園はまさに奇想の王国だった。
不死鳥が死んだとしても、あの時間のすべてが灰に還ったとは思いたくなかった。

時間の感覚などとうに壊れている。

メトロノームが正確な拍子を刻んでくれたかどうかも知る術がない。
3分か5分か、それとも15分だったか。我を忘れて、痛みをそのままに受け入れて奏でた。
熱病にうなされるように、額には汗が浮かんでいた。血の気の失せた肌に奇妙な熱が宿っていた。

「――――はぁ……はっ…ぁ…!」


最低だった。良かったか悪かったかどうかさえわからなかったことが最低だった。
歯を食いしばって楽器を置いた。壁に拳を打ちつけ、肘までついて黙り込んだ獣と対峙した。

「……で、どうするって? 抱くのか殺すのか、どっちも最低だ。好きにしろよ」

ボロボロになったブレザーの下、血痕で汚れたブラウスには大きな裂け目ができたまま。
その下は確かめてもいない。どんな風に見えているやらわかったもんじゃない。
無理が祟って皺寄せがきていた。何もかも馬鹿馬鹿しくて、ひどく捨て鉢な気分だった。

アンヘル >  演奏が終わる。最低の演奏。荒い息をこぼす彼女をアンヘルが見た。
「あー……あぁ、ああー、あァア……」
 スイッチは切り替わっている。たったの四分半。
それだけの間で、元のテンションにまで上がり切るはずがない。
 うだるようなうめきとともにアンヘルに首がぐるりと廻る。
ボキボキと音を立てながら、大きく息を吐き出した。
「あァ、ナルホド」
 血に滲むブラウスを一瞥し、熱を宿す肌に視線を移す。
「最低か。最低かよ、ええおい」
 自分の演奏を最低と評する。それは実に当然な行為であった。
アンヘルはそれを嘲笑うことはない。そんな感情はない。
 徐々に徐々に、身体を加速させていく。苛立ちだ。
抱くか、殺すか。少なくともそれは彼女が提示した選択肢。
まあ少なくとも。彼女は売り飛ばされるつもりも研究員のおもちゃにされる気もないらしい。
「お前はアレか? 修学旅行前日にはしゃぎ過ぎて風邪引くタイプか? ええおい」
 熱の浮く奇神の身体をベッドに押し倒すだろう。強引に。
血の浮いたブラウスもまた、引き裂くだろう。
 それが成功したにせよ、失敗したにせよ――。
「テメエのそれじゃあ、結局抱いても死ぬだろうよ」
 血の滲むその身体。情事には耐え切れまい。犯そうが殺そうが、結局着地点は同じ場所。
「オイ。奇神クン。テメエはどうなりたいって?」
 アンヘルは選択しない。ただ、相手を見下ろすだけだ。

奇神萱 > 「ああ。評価のしようがない」

元よりまともな状態ではない。評価のしようがないなら、それは0点と同じだ。
最低最悪のコンディションで聴衆の求めに応じたのは自分自身の判断だ。
どうすれば賢明だったのか、最適解を選べない理由は愚かしさだけじゃない。
意地も矜持も、もっと馬鹿馬鹿しい理由だって考えられた。

肩から押しつけられて、さっきまで寝かされていた場所に組み敷かれた。
力ずくで生地が裂けていく音がして、ボタンがいくつか弾けて飛んだ。
ブラウスを汚した血痕は頭の傷から滴ったもの。ほかの外傷は打ち身、打撲、擦り傷ばかりだ。
完全に癒えるにはまだ二、三週間かかるかもしれないが、生死に関わる様な傷じゃない。

「はは。死にゃしねえよ。それとも何か。お前はその手のサイコ野郎なのか?」

いいさ。これでも一度は死んだ身だ。口の端を吊り上げて笑った。

「俺はとっとと帰りたい。あの野郎を探してぶっ殺したい。それだけだ」

アンヘル > 「はン」
 確かに。この程度なら死にはしないだろう。
熱持つ瞳が奇神萱を見つめ、しかし。見つめただけに終わった。
「確かに散々な出来だったなぁ」
 面白そうな様子はない。ぐらぐらと煮立つ苛立ちは、胸の奥に収められている。
犯す様子も、殺す様子もない。少なくとも、"怒り"が零れることはなかったからだ。 
「テメエにゃ、上等なクソぐれえの価値はあったな」
 身体を起こす。結局、演奏の巧拙など怒れる魂を慰めるに足りはしないのかもしれない。
「テメエの命を買ってやるよ、奇神クン」
 己の記憶を奪った彼女を。彼女に感じた強烈な怒りを。
アンヘルはそのすべてを飲み込んでから大きく床を蹴り砕いた。
「テメエを殺すのは後回しだ」
 そう言って。改めて。彼女が選んだヴァイオリンを側へ放り投げる。
 帰りたい、というのなら。『伴奏者』を探してぶっ殺したいというのなら。
「今度はテメエの命を、売るか、売らねえかだ」

奇神萱 > 散々な言われようだ。
最低最悪実に結構と言ってたのはどこのどいつだったか。
言っても詮無きことだが、なかなか理不尽な話だ。
理不尽はこの男のトレードマークでもある。

「―――何か勘違いがある様だが、お前を殺してやれるならとっくにそうしてる」

「魂は売れない。悪魔に渡してやることになってる。とっくに売約済みだ」
「だから今だけ呉れてやる。お前が一人の客として望むなら、また別の日に弾いてやってもいい」

忘れてはいない。忘れられるわけがない。流血の惨事を。この凶人がしでかしたことを。

「手打ちにしようと思う。アンヘル。お前はどうする」

敵の敵は味方、というレトリックは単なる欺瞞だ。敵は敵だ。何も変わらない。
味方だと言い張るのは、別の現実のために妥協して目を逸らしているだけのことだ。

視線がぶつかる。青い瞳の奥に憤怒の埋み火が燃えていた。

アンヘル > 「別に構いやしねえよ。"それ"もくれてやる」
 首を、手刀で叩きながら男は言う。憤怒の埋め火。それを言うならいずれも同じことだ。
「つまりはそういうことだ。命を売るってのはそういうことだぜ、なあ奇神クン」
 似たような言葉を繰り返しながら、男はこわれた床をほじくり返す。
ガン、ガン、ガン。
まるでボーリングのように突き立つブーツは、アンヘルの怒りが立ち上がっていく音だ。
「今宵今晩、テメエの首が繋がる。シンプルな話だろ? それとも丁寧に説明書でもつけてやろうか? 帰り道もウキウキ気分で読んで時間を潰せるぜおい」
 手打ち。そんな言葉に価値は見出さない。
「殺しに来いよ、奇神萱。なあ、ええおい。
そうしたら、今度もオレがぶちのめして、今日みてえに演奏させてやるよ。殺すかもしれねえがな」
 男はただ苛立ちをぶつけるだけだ。この熱を消せるだけの何かを求めるだけだ。
ガン、ガン、ガン。
猛りのままに打ち付けられた金属音が、やかましく反響した。
「どっちみち、オレの仕事は変わらねえ」
 ただ指定された相手に対して暴威を振るう。
その結果として捕まろうが、その結果として逃げようが、その結果として殺そうが。
アンヘルの仕事はいつもそこで終わりだ。
 "殺し"を告げられた場合はその限りではない、が。
「"あの野郎"とやらと、このオレをよ。やってみな」
 今宵今晩。治療までしてやって、大損だが。
つまるところアンヘルは自分の思う通りに生きる。

奇神萱 > あれを仕事と呼ぶかどうかはさておき、何かをされたわけでもない。
あの現場から回収して、手当ての手配をして、代わりのヴァイオリンを探すことに奔走した。
損得ばかり口にするわりに滅茶苦茶だ。本気で言っているんだろうか。いくら何でも都合が良すぎる話だ。
そのうえ殺しに来いという。わけがわからない。
破綻している様にしか見えないが、この男にとっては何も不思議はないのだろう。

「………お前に言われるまでもない。『伴奏者』は一人で十分だ」
「そいつはもう死んでる。くたばってから贋物が出たんじゃ死んでも死にきれないだろうさ」

その生き方は損得勘定からは程遠く、あまりにも不器用に見えた。

「アンヘル。俺にはお前がわからない」

「礼は言わない。だがお前のしたことは覚えておく」
「あいつを潰すのが先だ。その後に熨斗をつけて返してやる」

めまいがしている。気を張っていないと今にも失神しそうだった。情けないことだ。
打たれ弱い身体が恨めしい。肌蹴て露わになった場所を隠すこともしなかった。

「少し休む。休ませろ。昼前には出て行く……から―――」

ぐるり、と世界が廻る。落ちていく。沈んでいく。今一度、深い深い眠りの中へと。

アンヘル > ただ、何もかもが問題ない。男はいつも通りだ。
怒りを顔に滲ませて、苛立たしげに頭を掻きむしる。
 分からないと、そう言われようが。理解できようはずもない
「テメエはオレのダチでもツレでも、ましてやお袋でもねえだろう」
 だから分かるわけはない。ダチでも、ツレでも、お袋でも。
そんなものが居たとして、男を理解できるものなど居はしない。
 その行動を説明することは簡単だ。だが、その真意を理解することは、きっと難しい。
「好きにしろよ。歩行者信号機じゃねえんだから、ボタンを押す前に鳴けばいいだろう」
 休み、倒れ伏す女を見つめて。あの傷ならば、死ぬことはないだろう。感染症を引き起こすこともあるまいし。
 アンヘルは、オーディオ機器から一枚のレコードを取り出し叩き割った。
それがなんの曲か、何も記されてはいなかったが。不要には違いなかった。
「あァ、クソッタレ……」
 いくつかのセキュリティを切ってから、アンヘルはその場を後にする。
ひとまずこの苛立ちを鎮めるために、外で何かをしてくる必要がありそうだ。
 煮え立つような怒りを抱えながら、やかましく音を立てながら。
男はその部屋を出て行った。

ご案内:「アンヘルの隠れ家。その一室。」からアンヘルさんが去りました。
ご案内:「アンヘルの隠れ家。その一室。」から奇神萱さんが去りました。