2015/07/24 のログ
蓋盛 椎月 > 智鏡はさしたる抵抗もなく引き剥がされる。
ぎょろり、と剥いた眼を一度ヨキへと向け、それから蓋盛へと向ける。

『きひ、ひ、きひひひひひ!
 地金が見えたな!
 少し痛いところを突かれただけでこう、だ。
 誰が優しい先生だって?
 自分の都合のいい人間しか救わないし
 抱かないくせによォ。
 笑わせてくれる、ぜ、ひひっ、ひひひひひひひひィーひひひひひ――……』

かくり、と、首元を掴まれたまま、項垂れる。ぶらりと手足を垂れ下げさせる。
《鏡の悪魔》の、発動が止まった。

蓋盛は、胸から細く血の筋を垂らしながら、ぼんやりとベッドに座っていた。
少しして、ヨキへと虚ろな表情を向ける。
『たちばな学級』絡みで、幾度も顔を合わせた講師。

「ああ、ヨキ先生。お世話をかけました、すみません。
 その……少し取り乱してしまいました。
 普段なら、なんてこともなく受け流せたんですけど」

冷静さは取り戻したようだが、言葉に力がない。
ここまで派手に“出て”しまったのは久しぶりだった。

ヨキ > (片膝を突いて智鏡の上に乗り上げ、押し倒し、首を絞めつける。
 《鏡の悪魔》が喚く声を、厳しい表情で、しかし傍目には動揺を見せることなく聞き流す。
 智鏡の細い首を掴んだまま、じっと待つ。《悪魔》が落ちるのを)

「……………………、」

(少女の手足が力を失う。
 四方にだらりと折れ曲がった四肢を、壊れ物のように柔く掴み、ベッドの上に揃える)

「……大丈夫だったか、蓋盛」

(智鏡がそれ以上動かないのを見届けると、乗り上げた膝を曲げ、片足を床に垂らした姿勢で座り直し、蓋盛へ振り返る。
 弱々しい言葉を聞きながら、相手の胸元を流れ落ちる血を見遣った)

「いや。……仕方があるまい。
 いつかは我々教師も……こういうときが来ると思ってはいた。……」

(言葉を切る。
 ヨキにとっては異性の肉体とて、ひと繋がりの肌に過ぎない。
 然して憚る様子もなく、真っ直ぐに蓋盛を見ている)

「…………、珍しいな。君が取り乱すとは。
 何か言われたか」

蓋盛 椎月 > 裸のまま立ち上がる。
血と汗を拭い、胸に負った傷の簡易な手当を行う。

「ええ、まあ、この程度のアクシデントは、いつもどおり。
 そうでしょう」

ヨキに向けたというよりも、自らに確認を行うような言葉。
言うまでもなく、智鏡を憎む気持ちなどない。
養護教諭は、時に自ら傷ついてでも、生徒の力となるのが仕事だ
――蓋盛は、そう考えている。
それがたとえ悪口雑言をまき散らす悪魔であっても。
それがたとえ怒りと恐怖を喚び起こす夢を抱いていたとしても。
彼ら彼女らが救いを求めているなら手を差し伸べなければならない。

蓋盛のほうでも、ヨキの為人についてはある程度は承知しているため、
その視線に動じることもない。

「……少し、昔のことについて触れられまして。
 自分でも忘れかけていたもので、不意打ちでした」

言いながら、そのあたりに放られていた下着類を身につけはじめる。

ヨキ > 「全くだ。
 君は特に――生徒のことをよく考えているから。矢面に立つことも多かろう」

(立ち上がる蓋盛の手当てには、手を貸さなかった。
 座ったまま、智鏡の様子を見下ろしている)

「……昔のこと、か。空恐ろしいな。
 ヨキも、いつ彼女の前で取り乱すとも知れん」

(智鏡の《悪魔》が周囲へ投げ付けた罵詈雑言と、それによって心を掻き乱された者たちを思う。
 自分へもまた、幾度かはこの耳に、

 ――目を伏せる。

 顔を上げる)

「星衛君も、君には随分と懐いていたと思ったが。
 ……油断がならぬのは、誰とて同じか。

 …………。よくもまあ、君もこの娘を懐かせたものだと感心していた。
 こういうことだったか」

蓋盛 椎月 > 下着をつけ終わると、ばさ、と白衣を羽織る。
もみ合いで落ちた煙草を拾い上げ、火をつけて口に咥える。
暗い保健室に煙が舞う。

「軽蔑しますか? 生徒相手に身体を使うことを」
煙草を手に、座るヨキを見下ろして、笑う。
真意の測れない、作った薄い笑み。

なにも星衛智鏡だけではない。
蓋盛は、どうにもならない相手を、幾度か肉体を用いて掌握してきた。
何の後ろ盾も持たない蓋盛が唯一使える政治力であった。
その中には、もちろん生徒も含まれている。

ヨキ > (視界を過る紫煙。蓋盛へ顔を向ける。
 暗がりの中、影の落ちた彼女の表情を見返す)

「…………。――いや?」

(ごく小さく首を振る)

「使えるものは、然るべきときに使われてこそだ」

(生徒たちへ向け、美を、正しさを、善を、その他ありとある光について説いてきたその口が――薄く笑う。
 蓋盛の目を、金色の瞳が見つめる。瞳孔の奥に、冷たい焔がぐらぐらと揺れている)

「かく言う君こそ。このヨキを嗤うかね?
 常に子らへ語る言葉が――何の重みも持たない、二枚舌に過ぎないと」

蓋盛 椎月 > 金色の瞳を、茶の瞳が見返す。
薄暗い室内の中、輝きの薄れたその瞳は、星のない夜空のようにも映る。

「――そう。いえ、訊いてみただけです」
くつくつ、と咳き込むように笑う。

「二枚舌? そんな風に思っていらしたんですか。
 ……それとも、《悪魔》ちゃんの言葉ですか?」
笑みを深めて、煙を吐き出す。
「いやですねえ。
 ひとが語って聞かせる言葉に、真実とか、本当とか……
 そんな重みなんて、あるわけないでしょう」

「言葉の持つ意味なんて、
 耳に心地いいか、聞くに耐えないか――それだけ」
ちらり、と、眠る智鏡を見やった。

ヨキ > (微かな蓋盛の笑い声に、ふっと笑む)

「……まさか。
 このヨキが、斯様に殊勝なことを考える性質に見えるかね。
 かつて受け持った生徒だ。……そんなようなことを、言ったのさ。
 このヨキの言葉が……人の言葉を覚えた犬の、口真似に過ぎないと」

(表情に反して、蓋盛へ返す声音は醒めている。
 身体の後ろへやおら手を突く。ぎ、と寝台が鳴る)

「気が合うな。
 ……君は身体を使う。このヨキは口を使う。
 人の心を掌握するに……ただ必要であるに過ぎん。

 ――ヨキはそうして、秩序を守る。この学園の」

蓋盛 椎月 > 「はは、そんなことを。
 あなたほど人間らしい教師を、あたしは知りませんが」
すう、と煙を吸い込む。
肺腑に紫煙と安堵が満ちていく。自分は何一つ間違っていない。
しかしそれと同時に、身体の奥底に、ころり、と、小石が転がるような違和感。
それを表に見せることはなく、ヨキへと身を寄せて隣に座る。
内緒話をするように、息を潜めて。

「ご存知かもしれませんけど。《悪魔》ちゃん……
 『口を塞ぐ』ことには強く抵抗するのに、
 『首を絞める』ことにはほとんど無抵抗なんですよ。
 ……あの異能は、破滅願望の顕れなのかもしれませんね」

胸裏で、小石を転がす。微かに何かが痛む。

「なんて。
 智鏡ちゃんは全然教えてくれませんから、当てずっぽうなんですけど」

ヨキ > 「――有難う」

(言って、口元で笑う。
 この男は、片頬で笑うことをしなかった。
 両の口の端を、まったく左右対称に、同じだけ吊り上げて、にい、と)

「……人の世に、確固たる正しさなど、ない。
 ヨキが正しいことを言うのではない。
 ――このヨキの口にすることが、正しいのだ」

(自分の隣に座る蓋盛を見遣る。
 その声が内緒話の調子を含むと、上体を引き起こし、彼女の横に身を寄せ合う。
 蓋盛へ近付けた肌から、人の嗅覚に心地よく作られた、スパイスのパルファンが香る。
 その奥に、紛れもない獣の肌の匂い)

「――確かにな。
 ほかの教師が……口を抑えようとしているのを見ていた。
 まさかとは思ったが。
 慎ましく口を塞ごうとも思ったが、生憎と君の胸で埋まっていたようだったから」

蓋盛 椎月 > 「好ましく思いますよ、ヨキ先生の考え方。
 あたしもそう――自分の口にしたことだけが、常に正しいと思っていますから」

再び、むせぶような笑い方。
彼をして、人らしくないとする考え方があるなら。
迂遠さや虚飾のない直截な言い回しが、時に冷たく、暴力的に聴こえる故だろう。
嘘と、美しいお題目と、反故にされる約束にばかり弄ばれた蓋盛にとって。
不安すら覚えるほどの心地よさが、ヨキの言葉にはあった。
そっと、傍に座る教員に、体重を預ける。
違和感のある笑い方も、獣臭も、さして不快さを齎すものではない。

「……今回は仕方ありませんでしたけど。
 できれば、首を押さえるのは、よしてあげてください。
 ――そのせいで、彼女は病院に行けなくなってしまいましたから」
過去、看護士による智鏡の絞殺未遂が起こった。
その原因については、記すまでもないだろう。
その影響は《悪魔》をはみ出し、智鏡へと至り、傷を残した。

「……しかし、あるいは」
尖った耳に口を寄せる。万が一にも誰にも聴こえないように。
「首を絞めてあげるべきだったのでしょうか?」

ヨキ > (蓋盛を見遣って、ふ、と笑う)

「だからこそ君は好かれてる。
 ……根の似た手合いが、内緒話か。陰険なことだ」

(くつくつと声を潜めて、笑みを零した。
 寄せられた身体の重みを、苦もなく支える。
 その肌は人の男に比べて生温い。
 薄い肉付き越しに触れる太い骨は、鉄のように重い)

「……――知ってる。病院に、ついぞ行こうとしなかったからな。
 抱えてやろうかとも思ったが、止した」

(密やかな耳打ち。切れ長の瞳が隣を見る。
 瞼が細められて、目尻の紅が細く歪む。上下の瞼を持ち上げるような、いびつな瞬き)

「……君の言う『破滅願望』が、万が一にも正解であるならば、だな。
 それが判然とせぬ限り、むやみに首へ手を掛けるべきでない。
 もし――彼女がそうと望むなら。このヨキは迷わず、彼女の首を絞めるだろう」

(顔は正面に向けたまま、声を殺して低く答える。
 しばし押し黙ったのち、)

「………………、蓋盛。
 この、辺り構わず害意を撒き散らさざるを得ない星衛君に、『破滅願望』があったとして。
 例えば――『治癒』の異能を司る君に、そうした願望はあるかね?

 自ずから破滅したいと――あるいは、破滅させてやりたい、と」

蓋盛 椎月 > ぶう、と口をとがらせる。
「陰険? さて何のことやら。
 あたしは『明るく』『快活で』『優しい』保健室の先生ですよ」
ひとくわざとらしく、言葉を区切った。

「ええ、ええ、そのとおりです。
 あたしは――そうしたほうがいい可能性もある、と言っただけで」
頷く。
もしそうであったと知れたなら、ヨキは言葉の通りに実行するはずだ、という確信。
この男には、一切の迷いや躊躇いというものが見受けられない。
それを、情がない、とは思わない。
これが非情であるなら、きっとすべての人間がそうだ。

身を寄せたまま――こてん、と首を傾ける。
「はて、さて、どうでしょう。
 『治癒』の異能が関係しているかどうかはわかりませんが――」

「両腕がなくなっている夢なら、たまに見ます」

「この世界は、棲みやすいだけの、地獄です。
 そこから旅立ちたいと、あるいは、逃してやりたい、と――
 夢想することは、あまりにもありふれたことでは、ないでしょうか」

最初から最後まで、薄い笑みを貼り付けたまま、ごく淡々と、言葉を発する。

ヨキ > 「その評、心に留めておこう。
 次の昼間に君を目にしたら、きっとより明るく見えるだろうから」

(人の重みに、熱に、声に、犬が懐くように、心地良さそうに目を細める)

「我々がみな、異能に身を蝕まれた以上――誰にでも考え得る話だ。
 首を絞められるか、あるいは、この腹を割かれるか。
 いつ何時も、その者に……ひいてはこの島にとって、正しい手段を取るべきだな」

(次いで淡々とした蓋盛の答えを、相槌も打たずに黙って聞く。
 まるで睦言を交わすように身を寄せ合いながらも、その表情は冷たい)

「……《イクイリブリウム》。
 腕がなければ――人に治癒を施すことも、煙草を吸うことも、生徒と指を絡めることも失う、か。
 そうすると……今の君は、甘んじて殉じている訳だ。この地獄に。

 ……君にとって、この地獄から逃れる方法とは、何だ。
 死か?それとも、異能から離れることか?」

蓋盛 椎月 > 「逃れる方法などありやしませんよ」
手にしていた煙草を、灰皿を取ってそれに押し付ける。

腕を失えば、ある苦しみの鎖からは逃れられる。
しかし、腕を失ったという事実が、新たな鎖となるだろう。
それは、自らを常世に繋ぎ止める鎖である命そのものを失った場合にも――同じことが言えるはずだ。
逃げた先に楽園などはない。だから、夢想と表現したのだ。

す、とヨキから身を離す。

「逃れられない以上は、愛するほかにないのです。
 分かち難く蝕むものは、せめて肯定するしかない。
 だから、この地獄は――あたしにとって、とても愛おしい」

胸に手をあてて、聖母のようなほほえみを見せた。

「あなたは、どうですか?」

ヨキ > (顔だけを蓋盛に向けて、その言葉を聞いていた。
 その身体から熱が引いたのは、何も蓋盛が隣から離れたばかりではない。

 ――冷たかっただけの表情が、やがて強張り、震え、血の気を失う。

 苦しげに目を伏せ、息を吐き、牙の隙間からたどたどしく吸い込んで、また吐く。

 眼窩の奥を、星のような焔の瞬きが、ちらりと飛ぶ)

「………………、」

(蓋盛から顔を背ける。
 身体じゅうを締め付ける装いがぎしりと軋む。
 歯を食い縛り――そうした長い煩悶ののち、蓋盛に向き直る)

「――かつて、ヨキがヨキでなかった頃。

 ヨキには、何もなかった。
 言葉も、言葉でものを考えることも、美しさも、正しさも。

 ……異能にこの身を蝕まれたとき、恐るべき量の言葉が、この頭に入ってきた。
 人が産まれ、殖え、絶えてまた産まれる、それほどに長く、言葉のひとつもなく過ごしてきた時間が――

 すべて、言葉に冒された。
 それまで経たとこしえの生が、勘が、知恵が、感情が――言葉に表されて、この犬の脳裏に、こびりついた」

(呻くような声。苦しげに目元を歪める皺。
 絶え絶えに、吐息交じりの声を吐き捨てる)

「憎く思えるはずが、あるか。
 ヨキにはもう、この身と、この島のほかには何もない。
 ……このヨキはもう、言葉を得てしまった。
 戻れんのだ。もう、言葉なしにものを考える時代には。

 ヨキを冒したこの感情が『愛』と呼ばれるものならば、ヨキはこの地獄に喜んで在り続ける。
 このヨキの在りようが、この島が、この島に生きる者のすべてが、ヨキには堪らなく――」

(ぐびりと喉を鳴らす。口中はからからに乾いて、飲み込みようもない)

「――愛しく、肥大する、血肉なのだ」

蓋盛 椎月 > 悶え、呻くその様を、ただ、黙して眺める。

ヨキについて、蓋盛は、多くを知らない。
しかし、その語りで、おおよそを察した。
あるいはそれが、ヨキのすべてであったのかもしれない。

傷の忘却、言葉、その違いはあれど
互いに存在に有り余る力を与えられ、その結果として
魂を縛り付けられてしまったことに、変わりはなかった。

人はいともたやすく傷つき、そして、その傷を忘れることが出来る。
傷を奪うことは、傷つけることと同じぐらいに暴力的だ。
それを選び、行使する力を得た者にとって、
人の命の意味は、変わる。

目の前の男は、自分と同じ苦しみを抱えている。
あまりに似すぎている。
そして、似通っているからこそ、彼に与えられるものは何一つなかった。
彼の求めるものが仮にあるなら、それは自分がまさに渇望しているもののはずだから。

地獄の番犬が、寝台の縁につけた前足を、免疫の女が両手で取る。
そうして、顔を覗き込むようにして、慈しみの笑みを向ける。
それ以上何かすることも、言葉を口にすることもなく、ただ見つめるだけ。

ヨキ > (異能によってその律を狂わされ、『門』の向こうからやってきた異邦人。
 それ以上も、それ以下もなく、その独白がヨキのすべてだった。

 瞳の奥に揺れる焔――来るべき破滅を待つ激情が、乾いた眼球のうちで涙のように揺れる。

 あまりにも吐き出しすぎた、が、もう戻れそうにはなかった。
 蓋盛がヨキと己とを似ている、と判じたのと同じ心の動きが、声の震えに現れていた。

 自分の前肢を取る蓋盛の手に、額を寄せる。
 神を持たず、祈ることも知らず、ただ縋るように)

「――蓋盛、」

(獣が唸るように、低く名を呼ぶ)

「君の、異能を……聞き知ったときに、考えていた。
 だが……まさかこんな形で、君に告げることになるとは、思わなかった」

(顔を伏せたまま、常に人を射竦めんとするはずの視線が、彷徨って揺れる)

「もし、この地獄からヨキが旅立ちたいと、君がヨキを逃してやりたいと――思ったときには。
 君の《イクイリブリウム》で、……このヨキを、撃ってくれるか。

 この、あまりにも恐ろしいほどに似通った、我々の心の均衡 equilibrium が……
 ひとときのまやかしであったと、あるいは崩れてしまったと――ヨキと君が、互いに断じた、そのときに」

(一息に言って、は、と可笑しげに笑う。
 自分でも、何を言っているのか判然としない様子で)

蓋盛 椎月 > 異能が身体を蝕む病であるなら、
あるいは《イクイリブリウム》で“治す”ことができるかもしれない。
そう考えて、試したことは、ある。

蓋盛は平和な日常がどれほどの善意と幸運の積み重なりの上に成立しているか知っている。
つまりそれは悪意か不運によってあっけなく崩れ去るものでもあると。
そして蓋盛の手にするものは、尊厳を簡単に奪い得る、悪意の能力。
人を死に至らしめる病は、絶望ではない。
疲弊だ。

にへら、と崩した笑い。
普段保健室で生徒に見せるような顔。

「やれやれ、みんなそうやってすぐ仕事を増やす――構いませんけど。
 そりゃ、ほんとに最後の手段だ。
 それまでに、せいぜいこの地獄を楽しむとしましょうや。
 遊んだり、喋ったりして、ね」

軽い口調。
それで、お話は、終わりだ、と言わんばかりに。
手を離す。立ち上がる。ブラウスに袖を通しスカートを穿く。
智鏡の眠るベッド、その反対側の空きベッドに腰掛ける。

智鏡は、二人の前で晒した狂態とはかけ離れた安らかな寝顔を見せていた。
彼女のいる場所が、天国であるのか、地獄であるのか、それは彼女の口からは語られることがない。
誰も知らない眠り姫を、蓋盛は、じっと慈しむように見守り続けていた……。

ご案内:「保健室のついたてのむこう」から蓋盛 椎月さんが去りました。
ヨキ > (声に強い感情が滲むごと、肌の匂いが煙る。どことなく鉄に似た――錆の匂い。
 血が滲むように、肌の匂いがじっとりと錆び付く。
 どんな答えが返ってこようと、構わなかった。

 だが、やがて返ってきた蓋盛の声が、普段どおりの軽さであることを耳にするや、
 ああ、この女は、と。

 口にはしなかった。それ以上は、けだもののように言葉にはならなかった)

「…………、ありがとう」

(顔を上げる。ゆっくりと、視線が持ち上がる。
 肌の上から、こびり付いたような錆の匂いが薄れて消える。
 こちらも普段の、切り裂いたような笑みの奥に、牙を覗かせる)

「十分だ。それだけで、気が休まる。
 ヨキが言葉として口にし、それを君が、了承したと。それだけを――留めておきたい」

(目を伏せ、ふっと笑って蓋盛から離れる。
 ベッドの上に眠る智鏡を、穏やかな眼差しが見下ろす)

「……智鏡君を、よろしく頼む」

(微笑み、それだけ言って、立ち上がる。頭痛はもう、生温い倦怠感の中に溶け消えていた。
 踵を返し、カーテンを閉めて出てゆく。振り返りもせず、規則的な足音が保健室を後にする)

ご案内:「保健室のついたてのむこう」からヨキさんが去りました。