2015/08/25 のログ
ご案内:「路地の奥」にヨキさんが現れました。
■ヨキ > (建物の壁で四角く区切られた空から、月の光が弱々しく降る。
学園地区にしては猥雑で、
異邦人街にしては整然として、
落第街にしては生真面目で、
スラムにしては高潔だ。
街のどこか。どこにも似て、どこでもないような。
望まれて発展し、敷かれた末に使われることのない路地の奥。
仄暗い地面の上、赤いじゅうたんのように濡れた跡が伸びている。
どこかの工場から漏れ出した廃水のように、赤茶けて錆の匂いがする)
(嗄れて短く途切れる息の音。
路地の外へ届かせるでもなく、微かに響き続ける)
■ヨキ > (袋小路の塀に凭れるようにして、男がひとり横たわっている。
錆の匂いのする赤い水――異相の血液は、衣服の長い裾の下から引き摺られてきたものだ)
(男――ヨキは小さく肩で息をしながら、身じろぎひとつせずに路地の上をぼんやりと見ている。
長い裸足の下肢は、地面の上に力なく投げ出されていた)
(見ればその細い腰は、老翁のようなくの字に不自然なほど折れ曲がっている)
(衣服の布地に隠れたそれは、犬の腰つきをしていた。
つまり――)
(人間の胴体から、犬の下半身が伸びていた)
「………………、」
(茫洋として、胡乱な眼差しの瞼を閉じる)
(それは発作のようなものだった――)
(“戻り損ねた”のだ)
■ヨキ > (肉の色をした人間の肌に、後ろへ折れ曲がった犬の膝をした右足)
(黒い体毛に覆われた犬の肌に、前へ折れ曲がった人間の膝をした左足)
(両足の長さはちぐはぐで、とても直立できそうにない)
(骨肉が小さく脈打ちながら、人の姿へ戻ろうとしている。
その変容はひどく緩慢で、肌の下を虫が這っているかのようだった)
(横たえた身体を丸くする。
どこにも隠れようのない長身を、それでも隠すように)
(脇腹に、首筋に古くから刻まれていた呪いの瑕疵が、錆の匂いを強くする)
(なぜ戻り損ねるのかは分からない。
時どきこうして、不意に躓くような、釦を掛け違えるかのような容易さで、その身体は組成を崩した)
(小さく咳き込む)
(疲弊したヨキの、いつもの人間の顔から繋がったその喉は、しかし人の声を発さなかった。
傷付いた犬の息遣いが、夜に溶ける)
■ヨキ > (裸眼を伏せたまま、薄く開いた唇から浅い呼吸を繰り返す。
その唇の周りは、色濃い生き物の血で汚れていた。
投げ出した四肢に、仕立てのよい衣服もまた)
(獣の姿で荒野に降りたその日。
粛清、あるいは私刑を人知れず行ったそのあとに。
人の姿で人里へ戻ろうとして――)
(弾かれたかのように、その姿を違えてしまった)
(薄く瞼を開く)
(金の瞳が痴れ者めいてぐらぐらと揺れながら、路地の奥の暗闇を眺める)
■ヨキ > (鉄を打ち鳴らすような音が、くぐもって響く。
犬の片足がその形を変え、人間と同じ後ろ向きの膝へ変じたのだ)
(寝惚けたような重さでずるずると、上体を引き起こす。
人間ほどには曲がることのない犬の腰を反らして、地に手を突き、両足を引き摺って這う)
「…………!」
(音もなく、腰のうちの骨盤が翻る。
犬の骨が捻れて歪み、熱を発して形を変える)
(頭を地面に押し付けて、息と声とを殺す。
その表情は隠されて窺えぬ代わり、投げ出した足の四指が震えて縮こまる)
■ヨキ > (蹲り、身をいっぱいに縮めて、脈打つ肉の奔流が過ぎ去るのを待つ。
肌の裏側で背骨を掴まれて捻り上げられたような――)
(その変容に、およそ痛覚は伴わなかった)
(それが苦痛を伴うならば、元より獣に戻ることに甘美など、ない)
(祈るように、求めるように丸めた身体の下で、顔を覆う手が強く強く握られる。
その手は何ものも掴みはしない――独りきりの身体を襲う熱の渦を、ただ掻き抱くように)
■ヨキ > (喉の奥で、ぐびりと肉の捻れる音)
「……――ッふ、」
(低い唸り声が、人間の声調を帯びる)
「……ぐッ、……ふ……、…………」
(その声がまるで自分の声ではなく――厭うべき他人のものであるかのように。
顔を背け、黒髪の陰で歯を食い縛る)
「…………んゥ、…………!」
(長い犬の足が押し込まれるように縮み、
短い人の足が引っ張られるように伸びる。
男にして無下に甚振られるかのような、――まったくの嬌声)
■ヨキ > (やがて路地は、もぬけの殻)
(はじめから何事もなかったかのように、およそ生き物の血液とは見えない赤茶色の乾いた跡を残して――)
(日は昇る。夜が明ける)
ご案内:「路地の奥」からヨキさんが去りました。