2016/06/30 のログ
ご案内:「山の奥」に《名前のない獣》さんが現れました。
■《名前のない獣》 > はじめにやって来たのは、鼻が低く彫りの浅い、よく肥えた娘であった。
多くの人びとが娘を守りながら山を登ってきた。
坐する獣からしばらくの距離を置いたところで、娘は列を離れて独りで歩き出した。
娘は巨大な獣の目の前までやってくると、地面に手を突いて深々と頭を下げた。
「 」
獣は人の言葉を解さなかった。
言い終わらぬうち、獣は娘を頭から丸呑みにした。
木々のざわめきがぽっかりと開けたその場所に、じっと腰を下ろしていると、
いつしか馳走が独りでにやって来ることを獣は覚えた。
■《名前のない獣》 > 数年おきに娘が山に登らされた。
獣はその基準と物差しとを何一つ知らなかった。
獣はただ山に在ればよかった。
そこに在るだけで里が保たれ、豊かな恵みが齎されていることを、獣は知らなかった。
獣は腹を減らすたび、自ら山中を彷徨い、鹿やイノシシや、小さな雀を呑んでいたのに。
やってくる馳走は、みな柔らかく美味だった。
色の白いのがあれば、色の黒いのもあった。
鼻の低いの、高いの、肩の大きいの小さいの、足に手に腰に髪。
やってくるごと、馳走は姿が違っていた。
山にやられる娘たちは、おしなべて花嫁と呼ばれた。
人の男も知らぬ前に、里を守る大義のために身を差し出さねばならなかったのだ。
山にやられる娘たちは、おしなべて当代一の美しい処女が選ばれた。
花嫁は辿り着いて間もなく頭からひと呑みにされてしまうことを、里の人びとはよく知っていた。
■《名前のない獣》 > それから何人食らったあとか、定かではないが、はじめて獣を瞳で射竦めた娘があった。
今にも頭から齧りつこうとする大きな口を引っ込めると、娘は妙な顔をした。
目を細め、口の両端を吊り上げて、声が大きくなったのだ。
真っ直ぐな黒髪をした、小さな娘だった。
程なくして、獣は娘と番うことを覚えた。
黒髪の娘は、獣とともに昼夜を過ごしたはじめての女となった。
やがて娘はすぐに痩せ細って死んだのだったが、獣は何も変わらなかった。
黒髪の娘のように、獣に応えるものは少なかった。
多くは獣に踏み潰されて命を落とすか、自ら舌を噛んで死んだ。
事切れてがくがくと揺さぶられる首をそのままに、獣は娘を貪った。
花嫁が獣と通じて人から外れることと同じく、
人と通じた獣が力を失ってゆくことを、獣は何も知らなかった。
■《名前のない獣》 > 空が明るくなり、闇に沈むサイクルを、獣は単にそういうものとして捉えていた。
山は枯れ、再び芽吹き、実っては散り、また増える。
獣が知っているのは、ただそれだけのことだった。
鹿の通り道。もっとも多くの果実が実る木。食べると腹を壊す茸。足を滑らせずに水が飲める岩……。
獣は常に孤独だったが、孤独を孤独としては感じていなかった。
他者と心が通じ合う余地など、まるで存在しなかった。
あるとき小さな人間がやって来て、何事かを獣に叫ぶ。
娘を食らって、それほど経っていない頃だった。
獣はもちろんみなまで聞かず、やれ次の馳走に早くも恵まれたとばかり、
その人間をひと呑みにした。
小さな人間は、獣が食らった娘の弟だった。
何もかもが変わらなかった。
娘を食べ、時どき美味しくない人間が来て、それ以外は山のものを食べるばかりの。
《花嫁さん》と呼ばれる因習が産まれて、永い年月が経っていた。
朽ちて倒れた大木から、再び森が姿を現すほどの、永い時間が。
■《名前のない獣》 > その年もまた、獣は娘を食べた。肉の柔らかな、肥えて鼻の低い娘だった。
はじめて食らった人間と、同じほどに美味だった。
獣は何も知らなかったのだ。
山の外が、人と人との争いに疲れ果てていたことも。
《花嫁さん》が、里に然したる恵みを返さなくなっていたことも。
捧げられる花嫁に、当代一の醜い娘が選ばれるようになっていたことも。
人から捧げられる側であった自分が、いつしか娘を奪って食らう、邪霊として吹聴されていたことも。
そうして話の何もかもは、獣の知らぬところで進んでいた。
■《名前のない獣》 > それからまたある年になって、獣の眠りを破ったのは耳障りな、硬く甲高い音だった。
「ほう」
低く重い、聞き慣れぬ類の声だった。
「お前か。娘を食らう獣というのは」
それは髪のない頭に笠を被った、黒い長衣に身を包んだ男だった。
手にした錫杖の金輪が立てる音が、やけに獣の耳に障った。
獣は、その人間が何を語っているのかを理解しなかった。
「なるほど、これはまた」
人間が、ずずいと前へ出て獣の目を覗き込む。
夜空ほどに深い瞳の色だった。
ひと呑みにすることも忘れるほど、獣は面食らって身を固くした。
「小汚い山犬よ」
小さな口でにやりと笑う男の目が、白い岩の照り返しを受けて蒼く光った。
■《名前のない獣》 > 獣が気を取り直したように男に向かって口を開くと、男の姿は既になかった。
草履の底で獣の頭を踏んづけて、決して背の低くない男がひらりと軽やかに宙に舞う。
動くたびじゃらんとさざめく錫杖が、獣の平静を掻き乱して止まなかった。
「急くな、けだもの」
言葉が届かぬことを知りながら、男は語ることを辞めない。
「少しばかり、お前とわたしで知り合おうではないか、なあ獣」
喉から絶え間ない唸り声を発する獣に向かって、朗々とした声を投げる。
「わたしの名は妙虔(みょうけん)。
ともに蒼い瞳に産まれた誼よ――何かしら通じ合うこともあろう」
妙虔の眼差しに呼応したよう、獣の碧眼が煌めく紫電を鮮やかに散らした。
ご案内:「山の奥」から《名前のない獣》さんが去りました。