2016/10/09 のログ
■五代 基一郎 > 何度も重ねてきた肌だ。
それこそ女の部分が男の形を迎え覚えるに十分な程に体を重ねてきた。
だからこそ今いくら触れても、その肌には以前と同じく傷一つないことがわかる。
あれほどの場所で、故に。あれほどのことがこの今交わっている女は出来るのだと嫌でも思い出してしまう。
思い出しかける度に、その重なる体に力が篭もる。
なんということのない非力な女であることを示すようにだろうか、やや強引に求める。
あの時自分と音音を隔てていた透明な壁のように、そもそもそんな境界など最初からなかったのかもしれない。
ただ誰かが線引きしただけで、もうどこにでも溢れる混沌としたもので
今でもどこかで混ざり合い、血肉と何かが混ざり合っているのかもしれない。
だけどそんな世界になど戻りたくはないし、これからもそんなものと関わりたくない。
そこにあるだろうに、今はそんなものなど知りたくもない。
だから今ある、今ここにいる身近な”愛”を確かめ合うと呼ばれる行為に埋没していく。
快楽でそれにすらも蓋をするように。
飽くことのない獣の情交を続けている。
熱を交わらせ、熱を交わし、熱を流し、熱を注ぎ、熱を受けさせる。
ただただ己の身と心と今交わる肉を焼きながら溶かすように。
考えることなど捨てて、人としての理性や思考など流すように獣以下になる。
これから幸せな普通の生活に、君と生きてくのだから。
もう一人と一緒に生きて生きたいと恋に酔ったか幻を見ていたのかわからない時に
囁いた覚えがある。嘘でもなくその時は真実からの言葉だった。
何の偽りもない、気恥ずかしさのような甘さを流すような言葉。
そこからの大人が行う行為を恋と性欲を混ぜたまま、娯楽のような
楽しみとも混ざりあった種々の情交は孕ませても、甘えてねだり、続けてきた。
しかし今は、その誓うように伝えた言葉がそもそも土台から揺れたか
流されているのか。そんなものとは関わりないか、出てこないかのように
畜生の交尾を続けている。快楽と、不確かな”愛”の言葉と幻を抱きながら
これが”愛し合う”行為なのだから、今ある二人の愛を確かめる行為と理由をつけてただ交わっている。
ゆれている未来と、これからを確かなものにするために交じり合う”愛”の行為は
快楽だけが確かであり、愛と呼ぶものは不確かで掴むことはできず
掴むのはただの艶かしい女の肉だった。
綾瀬音音の最初に感じる、感じようとした”愛情”がそもそも
綾瀬音音の中にしかない歪な幻であったのかもしれない。
今交わっている行為でさえ、その幻の中にあるようで虚ろな”愛情”を
そもそも最初からなかったそれを求めるように交わっているのかもしれない。
その虚妄か、幻か。どこにもないものか……”形はないがあるあたたかなもの”として
誤魔化して快楽と共に飲み干すのか。もはやその”愛情”を求める者も不確かで
その求めに応じる者も”愛情”ゆえに交わっているのかすらもわからなくなっていた。
ただその人間的な問題や詩的な思想など捨てるように獣の交わりは続く。
獣は考えない。人の基準であれば、研究や観察であれば獣は本能と結びついた愛情により
交わり子を成すのだろう。だから今行われている行為も、例え芽生えた命を顧みない畜生以下の行いであっても
子を成し、また交わるのであるから愛を示す行為であった。
それを今、この雄と雌が考えているのかはともかくとして。
愛を求める雌に応えて愛を注ぐ雄の獣。
獣の声が上がれば、獣の声で応えてまた注ぐも
離すことなく、より深く繋ぎとめるように抱き寄せて
証を首筋に刻む。刻みながら荒く吐き出される呼気のまま摺り寄せ
求められる声がすれば何か応える前に体で応えた。
応えるまでもなく、注がれ繫がったまままた無茶苦茶に交わり始めた。
そこからまた、飽くなき行為は続く。
それこそ力尽きて眠るまで続いた。
力尽きれば、何処からかくる寂しさから乳を求める幼子のように
女を抱き寄せ眠るまで……雄と雌の交尾は続けられた。
ご案内:「ホテル」から五代 基一郎さんが去りました。
ご案内:「ホテル」から綾瀬音音さんが去りました。