2016/11/07 のログ
■ヨキ > 「……………………、」
多少なりともコンピュータの知識がある者が見れば、金の掛かっていることが一目で知れるデスクトップパソコンの前。
ゆったりとしたチェアに深く腰掛けたヨキが、険しい顔をして目を瞑っていた。
「なるほど」
瞼を閉じたまま、低い声で呟く。
ヨキには、獣人の時分には決して理解が及ばず、何の感慨も起こさなかったものがある。
それがこの晩、たまたまブラウザ上にポップアップした小さなウィンドウを通じて“判って”しまった。
いわゆる俗に言うところの、エロ動画である。
とっくに見慣れて味わい尽くしていたし、この場に存在しない女体にいかにして興奮出来ようものか、と考えていたのだが。
ありふれた安っぽい作りの広告にふと思い立って、“そういう”動画サイトを覗いてしまったのがいけなかった。
人間になって熱を宿した身体と、色覚を思い知った目と。
「なるほどな……」
なるほど、なんである。
じりじりと疼く血流に呆れながら、ブラウザも瞼も閉じて、額を押さえた。
■ヨキ > 人間としてかく在るべきだ、という自説を固く守ってきたヨキは、自慰さえしたことがない。
男と女は身を以て結ばれるべきで、独りでいたずらに耽ってはならないと思っていたからだ。
「……するわ……」
こりゃあ弄りたくもなるわ、と、ヨキはついに頭を抱えてしまった。
それは彼の人生における非常に大きなブレイクスルーで、パラダイムシフトで、エポックメーキングな気付きとなった。
ボトルネックめいた雁首も、うんうん、とご納得の首肯である。
苦い顔でよろよろとチェアを立ち、傍らの大きなベッドに倒れ込む。
この期に及んでも、まだ自慰をする踏ん切りはつかなかった。
“実在の”女で発散するか――もしくは冷や水を浴びるごとき出来事でクールダウンするか、ヨキが選び取れるのはそのどちらかだった。
■ヨキ > 首輪のない首の裏側が、甘く痺れる。
眼鏡を外し、顔を枕に埋めたまま、眉間にきつく皺を寄せる。
恥だ。見っともない。教師ともあろうものが情けない。こんな衝動は正しくない。
そうと自らを律しようとする一方で、これまでにない強い感情が引き起こされてもいた。
(いったい誰が見ているというのだ)。
「……………、うう」
これまで自分は清濁併呑を信条にしてきたとばかり思っていたが――どうやら、自分ほど狭量な人間はないらしい。
化粧を落とす間もなく触れた枕に、目尻の紅が薄らと残った。
組み敷いた女もないというのに、焦れるような鈍さでそろりと身体の下に手を差し入れる。
■ヨキ > 現に寝た女も殺した女も多かったし、振って振られた女も数え切れない。
遠い昔のはじめの事の起こりから、ヨキはそういうものだった。
靴を脱ぎ捨て、ベッドの上で膝を突いて蹲り、緩めたボトムの隙間から下着の中へ手を入れる。
男も女もどのようにして自らを慰めているものか見当も付かなかったが、ともかく女の手が自分の性器を握り、
扱いて絞り出す、その感触だけはよく覚えていた。
監視されている見られている評価されている禁止されている、それらの他者の目からひとたび解き放たれさえすれば、
あとは自分がどのような格好をして這い蹲っているかなど、どうでも良くなった。
殺した息遣いが、くぐもって小さく響く。
窮屈そうな衣擦れの音は、聞くだに不器用だった。
乾いた手のひらに、やがて体液がこびり付いて滑る。
闇雲に扱くだけでいとも簡単にこみ上げる熱に、髪の下から覗く耳が赤い。
■ヨキ > 充血した肉の感触が手の中にあって、手のひらと指が女の手と舌と膣とをトレースする。
布地の中から引き出した性器が外気に触れると、とんでもないことをしてしまった、というどこか他人事めいた実感が強まる。
自分の手のひらは硬く、自ずから濡れることもなく、本物の女を抱く方がずっと心地よかった。
味気なくて、居心地も悪くて、それでもこの罪悪感はいつしか薄れる予感があった。
狂騒に駆られている、と自覚するほどには冷静なつもりでいたが、扱く手を止められなくなっているほどに思考は麻痺していた。
小さく開いた唇から息を吸い込み、肩を大きく上下させる。
忘我の淵にあることが明らかな顔付きで、ティッシュに辛うじて手を伸ばす――
ひときわ大きく息んだ瞬間、精を噴き出すごと肉が脈打った。
■ヨキ > 殺した女を犯して食べても、朝一で事を済ませて女の家から出勤することも平気だった。
それが今はどうにもこうにも、近所の銭湯へ出向く足がひたすら重い。
手と下半身の汚れを拭ってからも、独り吐き出した体液の臭いはひどく鼻につく。
神経に直接触れたと紛うほど鋭敏な触感は、半死の身体であった頃とは比べるまでもなかった。
「………………、」
窒息するような絶頂の末、可笑しいほどの冷静さで呼吸のリズムを少しずつ取り戻す。
正しくないことは好きでない。
誤ったことなど以ての外だ。
「……だめだな、これは」
正しくはなく、誤っていたとしても、耽ってしまうだけの道理があるのだと。
人間になってから思い知ったことのほとんどは、そうした背反からなるものだった。
幾度となく解体して知り尽くしたはずの人間の身体を、手ずから暴いてゆくような心地がする。
ご案内:「ヨキのアトリエ」からヨキさんが去りました。