2020/07/01 のログ
ご案内:「常世博物館中央館 特別展示会場」に禊川五十鈴さんが現れました。
■禊川五十鈴 > 常世博物館中央館、現在特別展示「大「地球」展Ⅱ」の行われている階層。
大変容以前の「地球」の宗教文化や歴史に関する展示品が並ぶエリアである。
ちょうど人が少ない時間帯なのか、それとも別の展示会場に集まっているのか、展示を眺める人はまばらであった。
コツコツと、静謐な空間に靴音が響く。学帽をかぶった一人の少女が黒髪を揺らしながら歩いている。
どこか古めかしいとも言えるようなデザインの、赤いラインの入った黒のセーラー服が靡く。
腕には「祭祀」と書かれた腕章があり、手には五芒星の描かれた手袋がはめられている。
この学園都市の生徒・教員なら、少女が「祭祀局」に所属する生徒なのだとすぐに理解できるだろう。
少女の名は禊川五十鈴。常世学園の二年生。
祭祀局に所属し、常世島内の霊的な調和や防禦に従事している。
五十鈴は小さく鳴り響く靴音をなるべく響かせまいと努めつつ、ガラスに遮られた展示物や説明を眺めていた。
■禊川五十鈴 > しばらくして、この展示の概要を表示しているパネルの前まで来ると、そのパネルを仰ぎ、内容を読み始めていく。
《大変容》以前の「地球」の信仰にまつわる内容であった。
「……大変容」
《大変容》――20世紀末、そして21世紀初頭の「地球」が遭遇した、空前絶後の災害。
それは、「地球」の歴史を、常識を、世界観を、何もかもひっくり返してしまったという。
近代文明のなかで、架空の存在として、信仰上の存在として在った者たち――神々、天使・悪魔、異世人――が現実に地上に現れた。
「異能」と呼ばれる超常の力を持つものが爆発的に増加し、これまで秘匿されてきた「魔術」の存在が暴露された。
世界には混乱が満ち、いくつもの戦いが繰り広げられ、大勢の犠牲者が出た果てに、この「常世学園」が作られた。
最も、《大変容》が発生したのは五十鈴が生まれる以前の話である。
だから、《大変容》以前の一般の人々が、それによって常識を破壊されたその衝撃というのは実のところ想像するのは難しい。
自身が生まれたその時から、世界には異能・魔術・異邦人が現実のものとして存在していたのだから。
《大変容》以前の「地球」の信仰史。特に近代以降は、「神々」の存在はあくまで人類の信仰上の存在として理解されるようになったという。
もちろん、宗教や信仰が消えたわけではないし、そういった世界の中で敬虔に生きる人々もいた。
それでも、古代などに比べれば神が現実に存在した、と理解する人々の割合は変化していたはずだ。
■禊川五十鈴 > この階の展示の説明パネルを見て五十鈴は思う。
そんな世界の常識の中で生きてきた人々が《大変容》に遭遇した時、どう感じたのだろう。
自らが信じてきた、人類が万物の霊長という常識の崩壊。理解の埒外から現れた異世界の存在。
それらが地上に姿を現したときの驚き、恐怖。とても五十鈴には想像できない。
異邦人も同様だ。「地球」という異世界にやってきた者の中には、己の世界観を打ち砕かれた者も少なくないだろう。
自らの信仰する神が創造した世界の外側に行くことの恐怖――理解は出来ても、五十鈴には実感として得ることは出来ない。
■禊川五十鈴 > ……そのように世界のありようが変化しても、今も日本には神社や仏閣が存在している。世界各国にも伝統的な宗教の礼拝施設は存在し続けている。
《大変容》を経験した人々は、現実に現れた「神」と自らの信仰を、どうやって折り合わせていったのだろうか。
そして……もし、自身の信仰する「神」を自称する存在が現れた時、それが真正に自らの信仰してきたそれだと、確信できるのだろうか。
果たして、《大変容》以後の世界で、「神」などを自称する存在が神話で語られた存在と同一かどうかなどと証明することができるだろうか。
そんな同一性など証明できるはずがない、と五十鈴は思う。
五十鈴の実家の神社にも神は祭祀(まつ)られている。《大変容》以前から連綿と一族が奉仕し続けてきた神だ。
だが、その神が現実に五十鈴たちの前に現れて、自ら神だと名乗ったことはない。
それでも、五十鈴はその神を信仰している。
しかし、もしその神を名乗る存在が突如現れ、自らを祭神だと名乗った時――それに、どう対応できるだろうか。
古代の神話や歴史書の中には、現実に姿を現した「神」は少なくないと聞く。
だが、そういった時代と現代は明らかに異なるとも思う。
「神」やそれに類する存在が、人間と同じように現れ、生き、この常世学園に入学さえしている場合もあるのだ。
信仰上の「神」と現実に現れた「神」――その性質の乖離に、五十鈴も悩む時がある。
《大変容》の後に現実に現れた神と信仰上の神は違うのかもしれない、とそんな考えを五十鈴は仄かに抱いてしまう。
「……いいえ、いけませんね。私に出来るのはただ、神を祀り、この島の霊的な調和を保つことだけ」
神の実在・非実在を問題にしてはならない、と自らに言い聞かせる。
自身が行うべきは、現実に現れた「神」や霊的な存在への対応なのだ。
自らの信仰とそれは、分けて考えなければならぬはずだ。
■禊川五十鈴 > 《大変容》以後の信仰の問題。自らの信仰をどう守り続けていくべきか。
祭祀局員として「神」やそれに類する存在と対峙した時、それを「怪異」と断ずる基準は那辺にあるのか。
いずれこの世界が解決していかなければならない問題だ。
「モデル都市」としてのこの学園都市が示していかなければならない未来の形だ。
されど、思考は停止する。
祭祀局員として、破壊的な霊的存在を「怪異」として断じ、戦うこともある。
島内に現れた「神」を説得し、常世島の宗教施設に遷座してもらい、霊的な国防を強化する。
そういった業務の中に、「信仰」の形はあるのだろうか。
ただ常世島を守るために、神を「装置」のように扱っているのではないか。
そんな不安が過る。現世利益的といえば、そのとおりなのかもしれないが。
祭祀とは「敬」の心の表れであるともいう。古代の中国の典礼に関わる書物にそのように買いてあるらしいのだが、五十鈴は読んだことがない。
しかし、祭りを行うには対象を敬い、信じる心が必要なのも事実だと思う。それがなければ、祭りというものはただのパントマイムに過ぎないのではないか。
……とはいえ、常世島内に現れる神性や霊的存在が、五十鈴の信仰と合致するとは必ずしも限らない。
もちろん、祭り方を間違えれば祟りが発生するというのもよくある話だ。故にこそ、対象に近い信仰を持つ局員が選ばれることが多いのだが――
異邦の神であれば、どうであろうか。誰も祭り方を知らぬ、信仰も持たぬ、異邦の神。
それを神として祭ることは可能だろうか。怪異と断ずるしかないのだろうか。
そのようなことを考えては、意味のないことをしているなと自嘲の笑みを浮かべる。
何がどうあれ、五十鈴は祭祀局員としての職務を全うせねばならない。現れた神性が怪異と判断されるのならば――
祓わねば、ならないだろう。
■禊川五十鈴 > 五十鈴は心に一抹の悩みを抱えた、ため息をつく。
やはり、自身の信仰と職務は別に考えなければなるまい。
自らの職務は、常世島に現れた神性や霊的存在と交渉し、祭祀を行い、然るべき社や祠に遷座させることである。
昨今話題に登る異邦人と怪異の関係……それはまさしく、神と怪異とにも通ずる話だ。
現れた神性全てを怪異と断じて祓い、封印するなどの手法も手段としては考えられる。
しかしそれは、異邦人を全て怪異と判断するというぐらい乱暴な話であるとも、五十鈴は思う。
されど、この島の霊的な防禦を考えるならば、どこかで区切りはつけなければならない。
「……行こう」
今、答えが出る話でもない。
今はとにかく職務に専念すべきときだ。
自身にそう言い聞かせ、五十鈴は静かに展示室を後にした。
ご案内:「常世博物館中央館 特別展示会場」から禊川五十鈴さんが去りました。