2022/10/22 のログ
ご案内:「委員会街」に黒岩 孝志さんが現れました。
■黒岩 孝志 >
冬の太陽は、この広大だが狭小な島のうえにひろがる大空に浮かぶ薄巻きの雲をぬうように、
乳色に弱弱しい、わずかな光を放っているのみであった。
気のぬけたようなねずみ色の鉄筋混凝土づくりのビルが立ち並ぶ委員会街の一本小路は、ビルの間に吹き込んだ強い風で冷え込んでいて、
それでいて前日に降った雨の水気いまだ抜けきらぬアスファルトが黒く照らされるほどに湿っぽかった。
しばらく黒岩がそこでたたずんでいると、雪ともつかぬ、雨ともつかぬ、みぞれのような降下物が、ぐるぐる地上を回る人びとの頭におおいかぶさって、
みなはそれを気にして傘をさしたり、かばんを掲げたり、あるいはフードをかぶったりした。
それでも黒岩は頑としてそれを無視しようと心に決めて、あえて空を見あげるようなこともしないで、木の下や軒下にはいるようなこともせず、
どこからでも自分のすがたをすばやく見つけられるようにと、そこに立ちつくしていることをえらんだ。
■黒岩 孝志 >
一時間と二十四分がたったころ、黒岩は不意に、自分の懐にしのばせたスマホがふるえるのを感じた。
いちど黒岩は、そのふるえがこの寒さによるものだとかんちがいしたが、スマホを取り上げてみてみるとそうではないことが解った。
黒岩はスマホの画面をしばらくながめたあと、何もいわなかったが、その目はくもった。
今日の昼、いっしょに夕食をともにしようと約束したのを、彼女は忘れていたのだろうか、
それを今になって思い出し、直接会って伝えるのでも、電話でもなく、わざわざスマホのショートメールを使って謝罪を伝えようと思い立ったのにちがいない。
彼のほうはその約束をしてからというもの、午後の仕事をしているあいだも、ほとんど片時も忘れずに楽しみにしていたというのに。
■黒岩 孝志 >
黒岩はあまり人付き合いのいい方ではなかった。
夕食の時間を他人ともに過ごそうとすることも、彼女と違って、彼にとってはめずらしいことだった。
それでも彼があえてそれをしようと決めたのは、ひとえに黒岩が彼女のことを大切に思っているからである。
そして、それは彼にとって苦難であり、これ以上ない悲痛をもたらすものだった。
なぜなら、最も多く愛するものは敗者であり、悩まなければならぬからである。
この単純できびしい教訓を、彼はもうずっと前に会得していた。
そしてこのようなことがあるたび、彼は自分の中でこの言葉を反芻して、その意味を自分にいいきかせた。
しかしながら、このことを聞いて人びとの心にまず浮かばれるようなこととは全く逆に、そのたびに彼の心はいっそうすがすがしい心持になることさえあったのである。
■黒岩 孝志 >
どうしてそういうふうになったのだろう、と黒岩は考えた。黒岩は彼女に、これまで、それこそ何度となく会っていたのである。
おおぜいの招待客が笑いあう、絢爛なパーティー会場で食事をともにしたことさえあった。
ところがある晩、黒岩はある照明のもとで彼女をながめた。
薄暗いあかりしかない給湯室でグラスに水を注いで飲む彼女が、徹夜でくたびれたスーツや、目のくまを気にすることもないように、
なにか格別落ち込んだ様子でもなく、また水あかによごれたグラスのくもりをふきもせず、和らげとも、乱雑ともいえない、一種独特なしぐさで、
その左手を、それほど太くもなく、細くもなく、肌のあれて格別きれいでもないその女風紀委員らしい左手を、
髪の調子を整えようと、じぶんの頭に親指と人差し指の腹をそえ、しばらく髪を指の腹でこすっていると、
不意に髪に付けた髪留めのピンが床におちるのをながめた。
その時彼女があることば、ひとが聞いてもとくだん気にすることのない、数秒後にはわすれてしまうような間の抜けたことばを、
一種独特のアクセントで口に出したとき、その言葉に黒岩は、どこかの方言とおぼしきそのアクセントの調子とまったく別のところで、
不意に暖かいものを感じ、そしてはげしいよろこびを覚えた。
■黒岩 孝志 >
黒岩はそれの正体を知っていた。経験が彼に教えた。
彼が前世の記憶を持つのでなくとも、小さい愚かな少年であったあのときの自分でさえ、その正体に気付くことができた。
それを得たからには、そう近くない未来に多くの不幸と屈辱が降りかかることを彼は知っていたし、
そのうえそれは心の平穏を破壊し、あらんばかりの力で心をかき乱すので、人間から正常な洞察力をうばい、
後にのこるのは後悔ばかりであることも、また分かっていた。
それを分かっていながら、彼はその恋を受け入れた。そしてその身いっさいを恋にゆだね、あらゆる血と涙と汗をそそぎ込んだ。
なぜなら彼は、恋が人間の生活を豊かにすると知っており、
だからこそ彼は、おのれの洞察力をもちいて他人の言葉と行為の奥にひそむ心の深いうちをあきらかにするよりも、
豊かで満ち足りた生活を通して生き生きとしてありたいと、常日頃よりあこがれていたからである。
■黒岩 孝志 >
洞察は彼の天職であり、彼はそれにずっと悩んでいた。
物心ついたころから、彼は自分が風変わりな人間であることを自覚していた。
彼を外の世界の奇異な目線から救ったのは、ひとえに彼の生まれ持った光輝く美貌と、特筆すべき文武の才でしかなかった。
生涯多くの人間と衝突し、他人を最期まで理解できず、多くの妻を持ちながら誰一人と心通わすことさえできなかった。
晩年彼は、ふたたびするどい洞察力をとりもどし、人に「まめやかに、さうざうし」と言われたことを、滑稽に思った。
世の人を見るがいい、模範的で、平凡で、真面目なことであるよ。
そしてあの連中は、人にふりかかる天運を滑稽におもうようなことはないのだ。
考えを深く思いめぐらすようなこともせず、ただ素直で率直な郷愁と哀愁を詩にし、
誰でも考えることだけ、誰にでも共有できることだけ、美しいものだけ、口に出してよいものだけしか考えないのである。
あの者どもはきっと、心のどこかで、人はなにごとでも、どのようなことでも、
さいごには心通じ合うことのできるものだと考えているにちがいない。
さぞ心おだやかに、具合の良いことであろうか。
……私には、彼らのようになることなどできはしない、と。
■黒岩 孝志 >
それでも、ひんぱんにみじめな気持ちになりながら、
彼は彼がこの世でもっとも価値をおく力、それに奉仕することだけが人生において価値あることだと感じる力、
すなわち、ひとりの人間の生の下に黙してたたずむあらゆる言葉の力に、全霊をささげた。
そうすると、この力もまた、贈りうるよろこびのすべてをもって彼に報いた。
その代わり、この力は、代償としてそれ以外の人生のよろこびのすべてを、情け容赦なく彼から取りあげた。
彼の洞察は、彼に人生の現実をいやおうなく直視させた。
その力は人びとの心のなかを、そしてなにより彼自身の心のなかに刃をつきさし、えぐりだすように彼にみせつけた。
そうしてまた、世間にあふれる言葉と行為いっさいにひそむ究極の生物的原理を、彼に示した。
すると、認識の苦悩と自負とともに、すぐに孤独が訪れた。
快活で愚かでなにより善良きわまる連中とのつきあいは、彼には我慢のならないものだった。
苦痛と恐怖が彼の心を支配し、平凡な生活へのあこがれはますます強いものとなったのである。
■黒岩 孝志 >
誠実が大事だ、と黒岩は考えた。彼の心の最後のとりでは、おのれが誠実であるということだった。
愛をこそ命かけるものであるべきだ、あってほしい、という気持ちを、その善意を、彼は間違いなくもっていた。
しかし同時に、彼の洞察という悪魔は、彼に、いずれ彼女のことも忘れる宿命にあるのだということを、怖れと悲しみをもってささやいた。
そして彼は、その言葉が真実であることをみとめてもいた。それはいとわしく、なさけないことである。
恋という純粋な炎が、純粋であるがゆえに時とともに消えゆくのを見ていることしかできないと悟った彼の心は、
ひどくみだれ、おどろき、失望して、消えたろうそくの前に立ち尽くしていた。
■黒岩 孝志 >
いまや彼は、この寒空の中、ふたたび行かねばならぬ道を行くしかなかった。それはたいそうみじめなことであった。
彼はあくまでひょうひょうとした態度を崩さず、気まぐれに、鼻歌を歌いながら、遠くのもやがかった青垣山の山頂をながめながら、弾むように歩いていった。
どこに向かおうが、彼にとってはもともと正しい道などありはしないのだから、かまいはしなかった。
その通り、人生においては、どこに向かいたいと思うことは自由でも、実際には、
そこへと至る道のほとんどは、自分の意志とはまったく関係のないところで、塗りつぶされ、ふさがってしまうからであった。
ご案内:「委員会街」から黒岩 孝志さんが去りました。