2021/03/01 のログ
ご案内:「商店街」に黛 薫さんが現れました。
■黛 薫 > 「……嘘やん……」
商店街の一角、ごくありふれた大手スーパー。
あまりこの辺りでは見かけない少女が商品を見て
絶句していた。しかし周囲の『視線』に気付き、
すぐにそそくさと邪魔にならない位置へ移動する。
当たり前だが、本来なら普通のスーパーの品物を
見て歩くのも忘れるほど驚くことはまずない。
彼女は何を見て、何に驚いたのか。
はっきり言って、何も特別な品ではない。
スーパーでなら珍しくも何ともないカット野菜。
しかしそれは──信じ難いほど『安かった』。
■黛 薫 >
実際のところ、このスーパーの商品は野菜に限らず
どれを取っても適正価格、他より極端に高いことも
安いこともない、標準的な値段だった。
それなのに少女は3度も値段を確認し、嬉々として
買い物カゴにカット野菜を入れた。一体何故か。
……実のところ、彼女は違反学生である。
落第街からここまで足を伸ばす違反学生は珍しいが
彼女は一応の遵法意識と復学への意欲を示しており、
(社会復帰に成功こそしていないものの)ある程度の
お目溢しを貰っている立場だ。
そして彼女が暮らす落第街では、今急激に物価が
釣り上がっている。詳しい理由は分からないが、
極貧生活を送る彼女の場合、生活に支障が出る程。
■黛 薫 >
今回は大きめの臨時収入があったため、少し贅沢に
嗜好品でも買おうと思った……のだが、諸事情により
何となく……ただ何となく、気が乗らなかったため、
堅実に食費として使うことにした。
真っ先に候補に挙げたのはスティックシュガー、
或いは冷たい水に溶けるタイプの粉末ジュース。
それは食費ではなく嗜好費では?と侮るなかれ、
値段当たりのカロリーが高いこれらの『食品』
……一般的には食事に満たないレベルのこれらを
食品と言い張らねばならない彼女のお財布事情は
さておき、これらの食品は値段当たりのカロリーが
高い。つまり最悪常備しておけば生存率は高まる。
そう、謎のインフレに追い詰められている現状、
先を見据えてカロリーを摂取できる『食品』を
溜め込む予定だったのだ……ここのスーパーの
値札を見るまでは。
■黛 薫 >
突然の物価インフレに襲われた落第街とは異なり、
ここの物価は正常である。付け加えるなら、復学を
望むために落第街では爪弾き者になりやすく、かつ
異能にはほぼデメリットしかなく、魔術も使えない
彼女は落第街では非常に足元を見られやすく……
結果、価格の落差におかしな錯覚を起こしていた。
人間、誰だって提示された価格の1/4以下で品物が
売っているのを見たらビビる。そういうことだ。
しかも落第街ではない、正規の学生が通うような
お店での値段、浮かれるのも仕方ないと言える。
野菜は別に好きではない、というかドレッシング
無しでは出来れば口にしたくない代物なのだが、
健康に良い高級品なので定期的に身体が求める。
そういう意味で、今日は逃せない機会だった。
■黛 薫 >
因みにカット野菜より普通の野菜の方が安いのは
何となく理解しているが、彼女の寝床には冷蔵庫は
おろか台所すらない。そのためカット野菜の袋に
ミニパックのドレッシングをぶちこんでしゃかしゃか
振って食べるのがいつものやり方。今回は胡麻ドレ。
さて、野菜が確保できたのは嬉しい誤算だったが、
他に何を買うべきか。育ち盛りとしてはたんぱく質が
欲しいところだが、台所がないので自力での調理は
難しい。かといって刺身以外の魚の生食は勇気がいる。
■黛 薫 >
当たり前だが、刺身は1番高い部類の買い物になる。
もっと手頃に食べられそうな肉か魚は無いものか。
そんな彼女の目に入った品がある。そう、ハムだ。
とはいえ、やっぱり大容量のものは買いたくない。
貧乏性が祟って残してしまったり、空きっ腹が
食べ物を受け付けなかったりする可能性がある。
それが原因で腐らせたら多分立ち直れない。
そういうわけで軽く売り場を見渡して、容量が
1番小さい物を手に取り、値札を確認する。
「は?高っっか……」
確認した品は生ハムだった。普通のハムより数段
値が張る。しかし、そんな区別のできない彼女は
こっちの街でも値上がりが始まっていて、野菜が
たまたま安かっただけなのだと勘違いしている。
■黛 薫 >
お肉食べたかったな、と肩を落としつつ先に進む。
途中飲み物のコーナーも目に入ったがスルー安定。
見れば欲しくなるが、買ってもお腹は膨れない。
強いて言うなら、甘くてお腹に溜まる飲み物が
あれば少し惹かれるかもしれないが。
次に立ち止まったのは、惣菜コーナーの前。
今回の買い物の主目的、メインイベントである。
彼女は並べられた品を前に、再び硬直した。
『ジャンボチキンカツ 398円』
肉が、お手頃価格で大きい肉の塊が、ある。
■黛 薫 >
今度は最初から邪魔にならない位置で立ち止まり、
考える。さっきの(生)ハムより安い値段で、かつ
自分の手を3枚並べたくらいの大きさがある。
しかし、懸念事項がある。先も考えたことだが、
果たして自分はこれを食べ切れるのだろうか?
今日の食事は缶入りのお汁粉(餅無し)が1杯のみ。
その前は2日間公園の水飲み場で得られる水だけで
過ごしていたし、更に遡っても最後の食事は乾いた
パンが1個だけ。ここに揚げ物を入れても自分は
吐かずにいられるのだろうか?
例えば隣には108円のメンチカツがある。
3個買ってもチキンカツよりサイズは小さいが、
お手頃価格であることも含め、食べられなかった
場合のダメージは少ないのではないだろうか。
アジフライは128円、かき揚げも同じく128円。
何で末尾が8ばっかりなんだろうという疑問は
さておき、魚や野菜は何となく肉よりヘルシーな
イメージ。お腹に優しいのはこちらではないか?
■黛 薫 >
実際のところ、思う存分タンパク質を堪能できるなら
揚げ物に拘る必要はない。ただ他のお惣菜は野菜が
メインの傾向にあるから、カット野菜を買い物カゴに
保持している現状、あまり惹かれない。
となると、やはりこの中から選ぶべきだ。
ジャンボチキンカツの贅沢な見た目は、お腹だけで
なく心も満たしてくれる気がする。しかしやはり、
食べ切れるかという懸念はどうにも拭い難い。
メンチカツはチキンカツに次ぐコスパの良さがあり、
1つあたりが小さいので、買う個数によってリスクを
減らせるという利点が大きい。
その他はコスパこそあまり良くないが、空きっ腹に
ダメージが入るリスクを軽減できるのではないかと
いう期待がある。
■黛 薫 >
だが彼女は忘れていた。もしくは知らなかった。
ここはスーパー、即ち──主婦の戦場である。
客は当然自分だけではなく、倹約上手な奥様方は
お手頃価格のお惣菜を放っておいてはくれない。
「あ、っ……」
目の前でジャンボチキンカツが買われていく。
特に足早にやってきた大柄なおばさんなんかは、
育ち盛りの息子でもいるのか4枚も買っていった。
「こんな、こんなひどいことが……」
悪いのは悩んでいた自分だ、おばさんは悪くない。
分かってはいるけれど、長らく口にしていなかった
大きなお肉が目の前から消え去る光景は悲しかった。
■黛 薫 >
だがしかし、悪いことばかりではない。
それは逆に選択肢が減ったことをも意味する。
悲しみを堪えて背筋を伸ばし、改めて売り場に
対峙する。自分が買うべきものはどの品なのか。
1番心を迷わせていた品物が消え去ったお陰で、
今度はすんなり決まった。メンチカツを買おう。
別にチキンカツが売り切れたショックで肉を食べる方に
欲が向いて、野菜かき揚げやアジフライが選択肢から
除外されたというわけではない。断じてない。
備え付けのポリ袋にメンチカツを2つ……3つ目を
買うかどうか悩んだが、平時でも3つ食べ切るのは
難しそうなので我慢した。
何故か惣菜を選ぶだけに酷く消耗してしまったので
今日の買い物はこれで切り上げる。明日か明後日、
気力が残っていたらまた砂糖を買いに来よう、と
心に決めてレジへと向かった。
■黛 薫 >
お会計はセルフレジを通して行う。
通常のレジの方が手間は少なくて済むし、
不慣れな自分がやるよりきっと早いが……
『視線』を避けられるに越したことはない。
結局、バーコードが無い商品(メンチカツ)の
会計の仕方が分からず店員を呼ぶ羽目になり、
緊張の所為でまともな意思疎通ができなくて
生優しい視線を向けられたのも必要経費だ。
……異能なんてなくても、落伍者に社会は生き辛い。
激戦、もといただの買い物を終えた少女は、
空に向かってゆっくりと大きく息を吐いた。
疲労は大きいが、どこか晴れやかな気持ちだ。
■黛 薫 >
そんな彼女の背に、店内アナウンスが届く。
『ジャンボチキンカツ、ただいま揚げたてです。
この機会に是非お買い求め如何でしょうか』
何故……何故、このタイミングなのか。
「こんな、こんなひどいことが……」
少女は顔を覆い、嘆息する。
本当に悪かったのはおばさんでも自分でもなく
──そう、ただ単に『運が悪かった』のだ。
しかし悲しみにくれて立ち止まることは許されない。
同じように買い物を終えた客からの怪訝そうな視線を
ひしひしと感じているからだ。
破れそうなエコバック片手に、違反生徒は寝床に帰る。
その背中はとても、とても小さく見えた──。
ご案内:「商店街」から黛 薫さんが去りました。