2021/08/26 のログ
ご案内:「浜辺 岩陰の潮溜まり」に黛 薫さんが現れました。
■黛 薫 >
空を見上げたのは久し振りだった気がする。
無意識の内に視界には入っているのだろうけれど、
今の今まで昼の空が青かったことすら忘れていた。
(……灰色じゃ、ねーんだな)
放棄された街の中で、彩度の高い色を見る機会は
思いの外少ない。晴天とも曇天とも言い難い空の
青さえも明るく見えるほど。
(赤なら……偶に見るのにな)
重い荷物は全部置いて来た。ショルダーバッグも
その中身も、スマートフォンも、きらきらと光る
八面体の結晶も、何もかも。
いつもより身軽なはずなのに、頭が、身体が重い。
(暑……)
夏の終わり際の日差しはそんなに強くはなくて、
気温だってそんなに高いはずはないのに暑かった。
海辺まで来たからか、蝉の声も殆ど聞こえない。
なら、代わりに何が聞こえるだろう。
波の音、風の音、それとも、他に何か──。
分からない。何も、何も分からない。
■黛 薫 >
目蓋を開ければ目に光が入ってきて、色が分かる。
同じように耳を澄ませば波の音が聞こえるはずで、
息を吸えば潮風の匂いと味が分かるはず。
(……どうやって?)
海辺だから波の音がする。潮風が吹いている。
知識ベースの判断と自分の知覚が一致しない。
色んなものが分からなくなっていく。
音はどうやって聞けば良かったんだっけ。
今までどうやって呼吸していたんだっけ。
どうしてやり方を忘れてしまったんだろう。
胸の奥に重い何かが刺さって取れなくなって、
溜め込んでいたモノがどろりと流れて出て行った。
途切れ途切れの記憶を手繰り寄せる。
見たくないモノを見た。知りたくないコトを知った。
積み上げて来た『自分』が全部崩れ去る音を聞いた。
■黛 薫 >
スタートがマイナスなら、まずゼロに辿り着くまで
積み上げないといけなくて、暗くて冷たい谷底から
抜け出したくて、行く宛のない闇の中で集められる
何もかもをかき集めて、スタートラインを目指して。
石だと思って積み上げていたのは、きっと氷だった。
光のある方を目指して積み上げ、いつかは谷から
出られるはず、なんて強がりと無茶を押し通して。
スタートラインより遥か高く、導にしていた筈の
日の光で足場が溶けて崩れ去った。
努力の無価値、無意味を知った。才の絶対を知った。
積み上げた足場が消え去ったのは人生で2回目だ。
崖から突き落とされたら体も心も壊れるのが道理。
一度奈落の底に叩き付けられて、這う這うの体で
もう一度積み上げたボロボロの心なら、尚更だ。
でも仮に壊れずに済んでいたとして、積み上げた
足場が無事だったとして、壊れる前にスタートに
辿り着けていただろうか。
きっと突き落とされなくても些細な衝突があれば
同じように心は砕けていただろう。とっくの昔に
壊れていた心を継いで接いで、平気なフリをして
無理をしていただけなのだから。
■黛 薫 >
さらさらと一定の感覚で落ちるはずだった砂時計の
砂が涙で濡れて泥になったよう。塊になった時間が
途切れ途切れに落ちていく。
記憶も知覚もぶつ切りで、合間に何があったのかも
思い出せない。価値が感じられなくなった本の山を
眺めていて、瞬きをしたらベッドで涙を流していた。
いつ寝付いたか、いつ起きたのかも分からないのに
湯船に浸かっていて、気付けばテーブル前の椅子に
座って湯気を立てるスープを見ていた。
(味、分からなかったな)
ストレスや不安に晒されて精神が限界になったり、
薬物に逃げた後は当たり前に知覚出来ていた物が
唐突に分からなくなる。今回も同じだろう。
呼吸の仕方が分からないけれど、死んでいないから
きっと無意識のうちに息を吸っている。吐いている。
潮風の匂いは分からない。スープの味も分からない。
分からないだけで、感じてはいると信じておく。
潮溜まりに手を浸し、海水を飲み干してみる。
痺れるような、刺すような感覚はきっと塩の味だ。
知識と感覚は思ったように結び付いてくれなくて
確信には至らないけれど、間違ってはいないはず。
■黛 薫 >
味や匂いが分からなくなったり、音や言葉の理解が
出来なくなったり、感覚がおかしくなることは度々
あるのに、不思議と色だけはいつも分かる。
(元から半分欠けてるから、か?)
右の瞳を閉じると『何もない』が見える。
その表現は正しくない、正確には『見えない』と
言うのだと笑われたのはこの学園に来る前だった。
どうも自分の左の眼は『何も見えない』らしい。
灰味かかった青空も、煤けたような白い雲も、
空の色を映した薄昏い海面も砕ける波も見える。
右眼が景色を映し、左眼は『何もない』を映す。
潮溜まり近くの岩場には、丁寧に脱ぎ揃えられた
ボロボロの靴があった。どうして此処に来たかも
分からないのに、水の中に踏み込む前にきちんと
靴を脱いでいたと知ると、変な気持ちになる。
足元を見たら、水面に自分の酷い顔が映るだろう。
そう思うと、空から目を離すのが気持ち悪かった。
割れた貝殻も、尖った岩も、真っ赤に染まった
潮溜まりも、黛薫の目には映っていない。
■黛 薫 >
日が傾き、潮の引いた岩場に海水が戻ってくる。
長居すると波に拐われてしまうかもしれない。
(いっそ、その方がイィのかな)
どうせ実行出来ないから、水底の景色を想う。
『生きたい』も『死にたくない』も日に日に薄れ、
ただ渇望という軛が自分を離してくれないだけ。
ハンカチで軽い止血だけ済ませてその場を後にする。
赤く染まったタイドプールは波に洗われて、消えた。
ご案内:「浜辺 岩陰の潮溜まり」から黛 薫さんが去りました。