2021/10/04 のログ
ご案内:「常世神社」に黛 薫さんが現れました。
■黛 薫 >
10月初頭、突如として常世学園に届いた予告声明。
曰く、街中に幽霊が放たれるという荒唐無稽な話。
ある者は怪談を信じるが故に怯え、またある者は
この学園ではよくあることと軽く流してしまう。
多少不謹慎ながら、イベントのような物と捉えて
密かに楽しんでいる者さえいるだろう。
いずれにせよ、根拠のない声明は単なる愉快犯の
可能性も高いし、もし仮に本気だとしても亡霊を
大量に呼び込むような大規模な儀式は風紀や公安に
止められるのが目に見えている。実行出来たとて
悪戯の域を出ることは無いはず。
よしんば上手く仕済ましたとて、常世学園には
祭祀局という霊的存在に関わる専門の機関がある。
最悪後手に回ってもいずれは鎮圧されるだろう。
とはいえ、影響は出るところには出るもので。
「クソがよ」
ぐったりと鳥居にもたれかかる違反学生、黛薫。
大絶賛お疲れ中──もとい、お憑かれ中である。
■黛 薫 >
そもそも霊的存在とは何を指すか。
狭義では死者の残留思念ないし魂を依代に存在を
確率する死霊を表すが、定義を広げれば物理的な
肉体を持たない精霊や妖精、存在自体が曖昧性の
上に成り立つ都市伝説の類をも包括する。
例えば死霊の発生条件は様々あるが、そのうちの
ひとつは『此の世と彼の世の境界が曖昧になる時』。
此度の予告犯が便乗したと思しき10月と11月の境、
所謂ハロウィンも古代ケルトの年変わりに当たる。
『境』という概念はそのものを捉えること能わず、
その前後を持って定める他ない極めて曖昧な概念。
暦の境もまた然り、境界の曖昧性を持って亡霊が
現世と幽世の境を越える事例は珍しくない。
当然『境』が大きいほど揺らぎも大きくなる。
日の境より月の境、月の境より年の境という具合。
ある暦での年の境、現代に於いてはハロウィンと
いう概念の補強により死者の行軍の条件が整うのが
他ならぬ今月の末である。
そこに投げ込まれた『幽霊を放つ』という声明。
存在強度の低い霊体の実在性を保証するためには
『認識』が必要。幽霊がいる『かもしれない』と
いう広く薄い意識が幽明を繋ぐ呼び水になる。
要するに、それらの要因が絡み合った結果の現在、
9月と10月の境を越えたばかりの常世島は月末には
及ばないものの、霊的存在の発生、及び存在確立が
しやすい条件が整いつつあると言えよう。
■黛 薫 >
また、魂や思念をベースに形作られる死霊以外にも
広まった認識そのものを依代に存在を確立する霊も
生まれ得る。所謂都市伝説というものだ。
噂や風聞をベースに出来上がる『いるかいないか
曖昧な霊体』は実しやかに語られるほど実在性が
増す。今回の予告は格好の『核』と言える。
無論、所詮大半は根拠のない噂話。話した当人は
嘘と知っているし、聞いた人もすぐ忘れるような
弱い話では霊が生まれても自然消滅するのがオチ。
どうあれ死霊も都市伝説も実在性が保証されない
限りは生まれてはすぐに消えるだけの儚い存在だ。
しかし予告が原因で絶対数が増えているのも事実。
試行回数が増えたなら偶然に偶然を重ねて自己を
確立する霊体が増えるのもまた道理ではある。
では、更に霊が存在しやすい『環境』があれば?
■黛 薫 >
つまり、黛薫はその『環境』そのものなのである。
禊として機能するほどに高い霊媒としての適正。
霊に好かれやすく、そして憑かれやすい親霊体質。
生者も死者も問わず負の思念に満ちている所為で
陰の気が吹き溜まりやすい落第街という居住地。
加えて此度の予告声明。
あれよあれよと言う間に行き場を無くした低級霊が
消えまいと彼女に集まって来て、この有り様である。
黛薫はその親霊体質故に『気』を吸われやすい。
悪さすら出来ない弱い霊もこれだけ数が集まれば
霊障という形の不調が現れるのも無理ないこと。
「とばっちりだろ、コレ……クソがよぉ……」
何とか陰の気が溜まる落第街から這い出て来たが、
焼け石に水である。いっそお清めの塩でも買って
被ってやろうかとも思ったが、自傷で傷だらけの
身体に塩はヤバいと直前で気付いて諦めた。
『見える』人が見たら引くほど霊を乗せているので、
ここに来るまでの間めちゃくちゃ犬に吠えられたし、
通りすがった黒猫は全力で威嚇をして逃げていった。
実害というには弱いが、ちょっとショック。
■黛 薫 >
当然ながら自力で祓う力なんて持っていない。
だからどうにか霊を散らせそうな場所に来た。
死霊を形作る陰の気をケガレと同一視するなら
手っ取り早い浄化法は陽の気に触れさせること。
弱い霊なら日光や生命のオーラに当てるだけで
自然消滅する場合が多い。
しかし黛薫に限ってはその程度で祓えないのだ。
むしろ当人が霊的存在のエネルギー供給源だから
下手に消耗させるとその分気を吸われるだけ。
ではどうするか。祓えないなら追い払えば良い。
霊的存在が自己を保つには認識による存在強度の
補強が必要。より強い霊体のテリトリーに入れば
一時的、相対的に存在強度が希薄化させられる。
動物で例えるなら生存本能、一定のルーチンで
行動する存在は大抵自己、或いは群体の保存を
根幹に置く。それは霊体もまた例外でない。
霊が存在を保てないような環境にわざと身を置けば
取り憑ける(=保身の概念がある)霊体は逃げていく。
(とりあえず逃げるなり散るまで待つか……)
無駄に消耗したので思考が疲弊している。
煙草が欲しいが、神社の境内に灰を落とすのは
躊躇われたので諦める。以前立ち寄ったときは
そもそもお金がなくて煙草が買えなかったっけ。
■黛 薫 >
改めて神社の境内を見渡してみる。
月次祭でもない日に此処を訪れる人は少ない。
しかし幽霊騒ぎの予告があったばかりの今日は
普段と異なり、少しばかりの賑わいが見えた。
(居心地悪……)
お化けが怖いなら神頼み。間違ってはいない。
自分が此処に来た理由だって似たようなものだ。
しかし見方を変えれば神社に立ち寄るくらいに
幽霊を嫌がっている人が集まっているということ。
そこに霊の塊を持ち込むのは空気が読めていないと
捉えられても仕方がないのではなかろうか。
疲弊も相まってやや卑屈な思考が浮かんでしまう。
集まっているのが恐らく善良な学生ばかりだから
余計に悪事に敏感になっているのもある。
落第街ではもっと現実的な脅威が身近にあるし、
神なんて曖昧な恩恵よりも力と金の方が欲しい。
自分のように実害が出る例外でもなければまず
神社に来るなんて発想自体出ないだろう。
■黛 薫 >
悪戯じみた犯行声明を深刻な脅威と捉える必要も
なく、怪談やホラーゲームに興じるような楽しさを
交えて怖がり、神社を訪れて雑談や考察を交わして
また日常に戻っていく。
普段ならそんな呑気な学生の日常さえアンニュイに
捉えがちな黛薫だが、今はもっと差し迫った実害に
苛まれているのであまり気にならない。
「痛っって、ちょ、待て、やめ、おい!!」
具体的に言うと、カラスにつつき回されている。
感覚が鋭く、本能で行動する動物は得てして
理性で動く知的生命体より霊的存在に敏感だ。
犬猫然り、鳥もまた例外ではない。
低級霊の塊をくっつけてきた黛薫はここ数日の間
めちゃくちゃ動物に嫌われる羽目になっている。
■黛 薫 >
「あ゛ーー……もうホント、ヤダ……」
カラスにつつかれて生傷だらけになった程度で
助け舟を出してくれる人はそうもいないらしい。
同情の『視線』はあるが誰も彼も傍観するだけ。
むしろ面白いモノを見たと楽しむ『視線』すら
あるし、少し離れたところで笑いながら動画を
撮影する学生グループがあるのも気付いていた。
「霊より人の方がイヤだわこんなもん……」
憑いていた霊は半分も減っていないが、元より
対症療法。どうせ落第街に戻ればまた集まって
来るのだから嫌な思いをしてまで留まる必要は
何処にもない。
聞かれないようにぶつぶつと文句を呟きながら
とんとんとリズミカルに石段を駆け降りて行った。
……あ、転んだ。
ご案内:「常世神社」から黛 薫さんが去りました。