2021/03/06 のログ
ご案内:「常世渋谷 中央街(センター・ストリート)」に黛 薫さんが現れました。
■黛 薫 >
常世渋谷、中央街。学生通りや商店街と比べれば
遥かに治安が悪く、しかし常世渋谷の中では最も
安全な、様々な意味で『明るい』街。
サブカル系の男女がジャンクフードやスイーツ片手に
闊歩するこの街では、怪しげなチラシ配りや客引き、
広告業に勤しむ人もそこかしこで見受けられる。
「こんにちは!宜しければこちらどうぞ」
そんな喧騒の街の一区画、煌びやかなファッション
ショップの店頭で試供品の化粧水を配っている1人の
バイト学生の姿があった。
■黛 薫 >
普段の彼女を知る者なら一体何事かと思うだろう。
いや、そもそも気付けるかすら定かでないレベル。
髪はインナーカラーが目立たないように後ろで纏め、
色素の薄い左目もカラーコンタクトで誤魔化している。
普段付けているはずのピアスも今は見当たらない。
何より顔を隠していないのだ。長く陰気な前髪は
ヘアピンで留めてあるし、フード付きのパーカーも
着用していない──あえて失礼を承知で言うなら、
『まともな学生のような』出立ち。
そして何より──『笑顔』で『敬語』である。
……実のところ、彼女は違反学生にしては珍しく
バイト中は結構弁えている。数々の違反を起こして
いる癖に、根は真面目と言って差し支えない。
少なくとも、理性が生きている間は『真面目な』
バイト学生として振る舞うことも、楽ではないが
出来なくもない。
■黛 薫 >
試供品配布のバイトは、日雇いのバイトの中では
難しいものではない。少なくとも、一般的には。
勿論、長時間立ちっぱなしでいる必要があるとか
人に声をかけるだけのコミュニケーション能力が
求められるとか、人によっては良い顔をされない
ためメンタルが強いに越したことはないとか……
細かいことを挙げればキリがないが、さておき。
そんな比較的簡単な仕事でも、黛薫には重労働。
落第街暮らしではまともな栄養が摂れない日が
多く、立ちっぱなしがキツいのがひとつの理由。
しかし、彼女にはもっと深刻な理由がある。
つまり──異能『視線過敏』。
他者からの『視線』を『触覚』として受け取る
この異能は、人の多い場では大きな負担になる。
■黛 薫 >
人間の視界はおよそ前方120°ほど、結構広い。
だが『視線』の範囲は意外と狭く、例えば正面に
立ったり声をかけたりしなければ結構避けられる。
しかし、人が多い場所では話が変わる。
人の『視線』は意識せずとも案外よく動くもの、
大勢集まれば掠めるような『視線』はほぼ絶えず
ぶつかってくる。
制御されない見えない指先が気まぐれに撫でたり
つついて逃げていくような感覚。精神的疲労は
恐ろしい勢いで溜まっていく。
また『視線』は物理的に存在するものではないため、
本来なら不可能な『重複して同じ場所を触られる』と
いう感覚がしばしば発生する。
うっかり注目を集めようものなら非常に気持ち悪い
思いをすることになるが、試供品配布のバイトでは
声を出す必要がある。『何となく声が聞こえた方に
目を向けた』人が複数人発生すると、それだけで
息が詰まるほどに苦しい。
■黛 薫 >
作り笑顔に明るい声、一見すると元気で真面目な
バイト学生だが……既に足は震え始めているし、
暑くもないのに額や首筋には汗が浮いている。
無意識に向けられる視線だけでも苦痛なのに、
配布相手から向けられる視線は輪をかけて辛い。
例えば100人に配ったとして、配布物を好意的に
見てくれる人は両手に収まるくらいしかいない。
お出かけ気分を邪魔されて不快を隠さない視線、
バイト学生を見下すような視線、急いでいるのに
わざわざ声をかけるなという視線、広告配布と
いうだけで何となく嫌な気分を覚えている視線。
手に、顔に突き刺さる視線が痛くて気持ち悪くて
頭が痛い、目眩がする。時間が経つのが遅い。
それでも『仕事』だからと心を殺して配り続ける。
■黛 薫 >
配布物にも色々あるが、化粧品は精神的負担が
比較的軽い方。というのも、化粧品の配布対象は
基本的に『女性』だから。
これがティッシュ配りやチラシ配り、対象の性別を
気にしない配布物だと苦痛の種がまたひとつ増える。
つまりは異性からの『下心』の視線だ。
当然ではあるが異性全員に下心があるわけではない。
しかし子孫繁栄、繁殖に根差した本能というものは
無意識下でも働いているもので……胸や腰、尻への
撫でるような感触は年頃の乙女としては許容し難い。
学生通りや商店街では、ある程度社会性を保って
いるというか、理性で自分を律している人が多く、
我慢すれば許せる範囲に収まってくれる。
しかし歓楽街や落第街になると『下心』を隠しすら
しない『視線』もしばしば遭遇する。敏感な場所を
舐めるようになぞっていく視線は嫌悪という言葉ですら
生温く、吐き気を催すほどの気持ち悪さを残していく。
■黛 薫 >
例えば、一般的な試供品配布のバイトの条件に
『通りすがった人は好きなだけ身体を触っても
構いません』という一文が追加されていたなら、
一体どれくらいの人が耐えられるのだろうか。
黛薫は、そういう世界で生きることを余儀なく
されている。付け加えると『視線』は通常なら
感知されない、されにくいものであり、肉体的な
接触よりモラルもマナーも守られにくい。
『視線』に耐えること、5時間。
意識が朦朧としてきた頃、漸く勤務時間の終わりを
告げられる。最後の方はきちんと声を出せていたか
記憶が曖昧だが……少なくとも致命的な粗相はせず
無事に業務を果たすことができた。
勤務時間5時間、時給は800円。
しめて4000円を受け取り、店を後にする。
視線に怯えるあまり、誰にも見られていなくても
見られているかのような感覚が皮膚を這い回る。
ひとまず、精神が落ち着くまでは休みたい。
出来るだけ人の少ない『視線』の無い場所で。
ご案内:「常世渋谷 中央街(センター・ストリート)」から黛 薫さんが去りました。