2022/10/21 のログ
挟道 明臣 >  
『……ホントにこんな話でお金貰って良いんすか?』

向かいの席で赤褐色の肌の少年はやや震えたような声で言った。
二股に分かれた舌が目を引く、異世界からの来訪者だ。
そんな少年と向き合った机の上には無造作に放り出した茶封筒。
その中身は先刻少年が口にした通りの物。

「こんな、とは言うが書物やウェブに転がってない”異界”や”未来”の話は貴重なもんさ。
 それこそ、何気なく君が喋った事が未来を変えるかも知れないだろ?」

良い方にとも悪い方にとも語らずに、大仰に手を広げて嘯いた男はカップの中の黒い水を飲み干した。
適当に頼んだそれは島外から仕入れられた豆を使った上物のコーヒーだったが、味の違い等分かりやしない。
泥水を啜ってもさして変わらぬ感想を抱いただろうが、同じ物を飲んだ少年が苦い顔をして水を頼んだあたり、
恰好を付けるという目的は果たせたと言えよう。

「さて、1時間だ。まぁ割の良いバイトだったんじゃあないか?」

音もなく時間を刻み続けていた砂時計が最後の砂塵を吐き切って。
お開きだ、と言いつつテーブルの端にあったバインダーを裏返すと視界の端で少年の身体が小さく跳ねた。
歓楽街の奥まった店でメニューも見ずに同じ物を、などとのたまう事の危険性を知らなかったのかも知れない。
適当な店で軽く何か食べながら話そう、等という誘いに乗らず立ち話を強要するくらいの豪胆さを学ぶのも良いだろう。

挟道 明臣 >  
とはいえ――

「からかい過ぎだ、"マスター"」

少年の飲みかけのグラスを引っ掴んで伝票にペンで刻まれた数字の辺りに向けて傾ける。
落ちる雫。
それは小麦色の紙の上に染み込むことも無く留まり、一番右端の数字を魔法のように吸い取っていく。

「まぁ、支払いは気にするな」

一桁減った伝票をヒラヒラと揺らして笑えば、少年は逃げるようにして店の外へと飛び出していった。
一度痛い目を見れば街の裏側を歩くのにも慎重になるだろう。

挟道 明臣 >  
「さて……」

机の上には手も付けずに残ったままのベーコンエッグ。
自分も何か頼まなければ少年も言い出しづらかろうと頼んだ物ではあったが、
数刻前に出された時から比べると干からびたようにその見てくれは落ち込んでいた。
端的に言ってマズそう。
とはいえ出された料理を残す趣味も無いので、雑にフォークで突き刺して一口に飲み込む。
半熟のまま放置され、銀食器の刺突に破られた黄身が舌の上に幾らかの不快感を残す。

『――マズそうに物を食うのはやめないか』

こちらを見る事もせず、キッチンの奥から低い男の声が聞こえてくる。

「美味そうに食ってる奴の前でこんな真似できないんでね。
 残さないだけでも褒めてもらいくらいだ」

別に料理人を怒らせる趣味があるわけじゃない。
ただここ数か月、肉を食っても砂を食っても同じ味がする。――味がしないのだ。
腹は減るし、匂いを嗅げば美味そうだとは思う。ただ、それを味わう事が叶わぬというもの。
生きる為に腹に何かを詰めるだけの動作を楽し気に行える程、己は演技派では無かった。

「ごちそうさん、美味かったぜ」

吐き出した言葉は、気心知れている相手だからこそ吐ける嫌味だった。
否、習慣的に口に出していたはずの言葉が嫌味になってしまった。
立ち上がれば軋んで音を立てる椅子から腰を上げ、静かにメモ帳を閉じて懐にしまう。

挟道 明臣 >  
結論から言えば、少年が語ったことは博物館の『西側』に収録されている内容と殆ど変わりない。
死生観、教育、社会の制度。
彼がでこちらの世界に漂着し、保護された際に学園側に話した内容の焼き増しと言えるだろう。
とはいえ、その殆どに該当しない事が多少なりとも聞けただけでも充分だった。

なにせ仕事の合間の道楽だ。
まれに研究職の連中や技術屋連中が血眼になって追い求める手段や、デザインが転がり込んでくる事はあるこそあるが、
殆どの場合が空振り。今回もその例に漏れなかったというだけの話。

「あぁ、そうだ。せっかくだし聞かせてくれよ」

少年の分と自分の勘定、合わせても余るだけの紙幣を机に並べてキッチンの方へと振り返る。

「――初めて半熟卵食ったガキの顔見た感想」

少年が学園に語っていなかったことのいくつかに、こんな事があった。
少年の来た世界には、ヒトが生物の卵を食べる文化は無いらしい。
そのせいか、おっかなびっくり手を付けた卵の食感はいたく気に入ったらしく――

『――子供の笑顔は、良い』

暫しの沈黙の後に、低い声がBGMも無い店内に小さく響いた。
それは、釣銭分くらいには価値のある返事だった。

「そうか」

背中越しに小さく述べて、重たい樫の木でできたドアを押し開ける。
また来る、そう述べた背中に冗談めかして投げられる二度と来るなという声。
パラドックスと川添春香の激闘の様子を知るまでの僅かばかりの、穏やかな時間がそこにはあった。

ご案内:「喫茶『ブランディーユ』」から挟道 明臣さんが去りました。