2021/03/08 のログ
ご案内:「スラム」に黛 薫さんが現れました。
■黛 薫 >
落第街のスラムから、大通りに向かう道すがら。
黛薫は壁に手をつくような姿勢で呼吸を整える。
「……クソ、クソ……」
昼頃、見覚えのないホテルで意識を覚ました。
自分が生きているという事実に驚いたのも束の間、
働かない頭を無理やり動かして、ようやく状況を
把握できたのがその1時間ほど後のこと。
頭の中を掻き回し、胸の奥で焼け付く言いようの
ない感情は……怒りでも嫌悪でも、失望でもない。
正体すら掴めないままに、目が腫れるほど泣いた。
名前の付けようがないその感情が、せめて昨日の
出来事に、或いはその出来事の中心にいたあの男に
向けられていたのなら、八つ当たりで気が済んだ
かもしれない。
だが──その感情は『自分』に向いたものだった。
行き場のない感情を発散するため、衝動のままに
自分を傷付けようとしたが……何の意味もないと、
むしろ傷付ければ『負け』だと、理性ですらない
自分の内の冷めた感情に冷笑されるばかり。
■黛 薫 >
目覚めたとき、自分の荷物には人を殺せるだけの
掌サイズの『力』と、宿泊費には多すぎる枚数の
紙幣が勝手に加えられていた。
自分には過ぎたそれらはささくれた心を逆撫でする
ばかりで……けれど、その逆上も不当なものだと
他ならない自分に嘲笑されている。
制御不能で衝動的な感情に心の内を占領された今、
少なくとも『何もしない』という選択はなかった。
別の何かで心の中に自分のスペースを作らないと
気が狂ってしまうのではないかとさえ感じられた。
行き場を無くした衝動と、言いようのない虚脱感の
板挟みになりながら『自分の手持ちから』宿泊費を
支払い、宿を飛び出したのが数刻前のこと。
■黛 薫 >
何より最初に、渡された金銭を手放したかった。
しかし自分のために使うのも、無駄にするのも、
偽善的に使うのも、仕返しのために使うのも嫌で
手放し方がなかなか思いつかなかった。
最終的に、ちょうど使い切れるだけの酒を買って
スラムに居を構える飲んだくれの名医に押し付ける
形で小銭も残さず手放すことに成功した。
どうせ酒にしか興味を示さないだろうと踏んでいた
医者に向けられた驚きと困惑の『視線』は非常に
居心地が悪かったが……それを理由に八つ当たりが
できたら、今の自分はこうも苦しんでいない。
妥協案としては及第点にあたるはずだ……と、
自分に言い聞かせてはみるけれど、溜飲が下がる
ことはなく、ただ嫌な気持ちだけが膨らんでいく。
そのままスラムを離れようとしたところで、
とうとう足が動かなくなり……このざまだ。
抑えきれない衝動の陰から自分を苛む虚脱感は、
大方アルコールと煙草の所為だと踏んでいたが……
どうも二日酔いの感覚ではない。体力でも気力でも
ない、活動のために必要なエネルギーを根こそぎ
喰われたような、異様な疲労が身体を蝕んでいる。
■黛 薫 >
身体は動かないのに、心は強迫観念にも似た勢いで
自分を駆り立てる。それも何がしたいという形では
なく……『したくない』という形で。
このまま立ち止まっていたくない。
情けをかけられたままでいたくない。
無意味に反抗や当て付けもしたくない。
傷付かず、痛みのないままでいたくない。
自傷に逃げるのも八つ当たりもしたくない。
落第街やスラムの暗がりの中にいたくない。
学生街や商店街の光の下にも向かいたくない。
否定に基く衝動は『したい』とは異なり、目的が
見えない所為で解消のための正解が分からない。
その上いくつかの衝動は相反するものであり……
どちらかに従ってももう片方に苦しめられる。
■黛 薫 >
ずるずると身体を壁に預けたまま崩れ落ちる。
歩けない、歩きたくない。動けない、動きたくない。
だがここで立ち止まるのは、自らスラムの破落戸に
餌として自分の身を差し出すようなもの。誰とも
分からない部外者に今の感情を邪魔されたくもない。
自分を苛む感情が重すぎて、抱えきれなくなる。
捨てるのが下手だから?背負うのが下手だから?
きっと、その両方だ。捨てずに抱えて歩く覚悟も
なければ、割り切れる思い切りの良さもない。
動かない身体に鞭を打って歩を進める。
この先には滅多に人の寄り付かない廃ビルがある。
休むにせよ、次を考えるにせよ、移動してからだ。
■黛 薫 >
廃ビルの入り口に辿り着き、瓦礫の陰に隠れるような
姿勢で身を横たえる。限界だ、これ以上は動けない。
風紀に渡されたお金は全部手放したし、なけなしの
手持ちは宿代の支払いに使って綺麗に無くなった。
手元にあるのは安価で粗悪な煙草数本と、拳銃1挺。
きっとこの感情が過ぎ去るまでは、煙草にも酒にも、
薬にも銃にも手を付ける気にはなれないだろう。
同時に、バイトにも社会奉仕にも参加したくない。
『良い顔』もしたくない、『悪い事』もしたくない。
人権の、尊厳のある1人の人間ですらいたくなくて、
その癖自分の身を捨てるような自暴自棄も嫌だ。
疲労に、心の痛みに耐えかねて目を閉じる。
(……眠りたく……なぃ、な……)
意識を手放す直前、そんなことを考えた。
ご案内:「スラム」から黛 薫さんが去りました。