2021/07/07 のログ
ご案内:「スラム」に黛 薫さんが現れました。
黛 薫 >  
例えば明確な転機、生活の変化があったとして、
それが必ずしも己の変化に繋がるとは限らない。

ふと振り返ってみれば変わったのは環境だけで、
自分自身は何も変わっていなかったなんてことは
よくあると思う。決めつけられるほど人生経験を
積んではいないから、あくまで思うだけだが。

利害の一致する相手と出会い、不自由しない範囲で
必要な物を取り揃えてもらえる生活。ある観点から
見れば間違いなく幸運だった転機はその実、自分を
変えてはいないと勝手に思っていた。

「……何かあったように見えます?」

馴染みの情報屋との情報交換、その合間の世間話。
最近何かあったか、と半ば確信の込められた問いに
虚を突かれて、返事の仕方に少し悩んだ。

『視線』から察するに、探りを入れているつもりは
ないらしい。この街で耳を澄ませても耳に入るのは
気の滅入る話題ばかり。倦んだが故の好奇心が偶々
自分に向いた、といったところか。

黛 薫 >  
逆に根拠を問うてみたものの、はぐらかされた。
確信を持って聞いてきた癖に明確な理由などなく、
ただ何となく分かったのだという。

「んんー……」

あえて外見的に読み取れそうな根拠を探すなら、
栄養状態だろうか。少なくとも食うに困ることは
無くなったし、健康体に近づいたのかもしれない。

逆に言えば、それくらいしか心当たりがない。

衣食住が確保されたからといって贅沢をするように
なったわけではないし、寧ろ一般的な学生の基準で
考えるとやりすぎなくらい切り詰めている。

帰る場所が出来た以外は行動パターンも変わらず、
後ろ盾があるからと欲を出してもいない。細々と
生きるための情報だけを集めながら、いざこざに
巻き込まれて踏み潰されないことだけを心がけて
生きている。

だから、外での態度に変化はないはずだ……多分。
けれどもし、自覚がないだけで気が緩んでいたら。

そんな不安を見て取ったのか、情報屋は愉快そうに
笑った。此方からすれば笑い事ではないというのに。
黛薫は苦々しげに眉を顰める。

黛 薫 >  
「別に?心当たりが無ぃとは言わねーですけぉ?
そんな見て分かるくらいに変わってんのかなって
ちょっと不安になっただけですが?笑うなし」

情報屋という身分を隠すための建前、偽装として
置かれている煙草を1箱購入する。落第街でも特に
安価で、安価故の粗悪さを誤魔化すために違法な
成分が混入された銘柄。

ショルダーバッグの中には他所で買った酎ハイの
ロング缶が1本。酒も煙草も別に美味しいものでは
無いが、悪習慣として身についてしまっている。

そう、自分は悪い意味で何も変わっていない。
ただ漫然と、前にも進めず漂っているばかり。

落第街の情勢は目まぐるしく変化しているように
見えて、大きな力関係はあまり変わっていない。

絶え間なく序列が替わるのは底辺の小競り合いで、
その変化を大きく感じるのは、些細な波風でさえ
致命傷になりかねない卑小な立場の者だけ。

自然とため息が漏れる。

黛 薫 >  
しかし落第街では……というより多分表社会でも、
そんな自己嫌悪にも満たない感傷は抱くだけ無駄。

傷に涙が染みるように、心の弱くなった部分は
痛みに敏感になるだけで何の得にもならない。

臨時収入でもあったか、研究が前に進んだか、
それとも良い人でも出来たか、と冗談めかして
聞いてくる情報屋の声を無視して踵を返した。

悪意のない視線、一般の感覚ではきっと世間話の
範疇に収まるはずの話題さえ踏み込んで聞かれた
気分になって気持ち悪く感じる。

(あーしが気にし過ぎ、なのかなぁ)

人気の少ない路地を見繕って腰を下ろし、酎ハイの
缶を開ける。日が落ちたとはいえ、未だ夏の暑気は
ひび割れた舗装路に熱を残している。半端に冷えた
缶の表面を水滴が伝い落ちていく。

黛 薫 >  
アルコールをはともかく、煙草は人のいる場所で
吸いたくない。他人がいなくても、定期的に人が
訪れる場所では気が咎める。

だから煙草を吸いたいとき、腰を落ち着ける場所は
大体路地裏になる。屋外で煙草を吸うと、落第街の
淀んだ空気の方が煙草の煙よりまだ美味しいのでは、
なんて感じてしまう。

もしかすると、煙草を好む人は当たり前の空気を
楽しむために嗜んでいるのかもしれない、などと
詮無きことを考えてみたり。

お酒にしてもそうで、飲み続けてはいるものの
未だに美味しさは分からない。

(あーしの舌が子供なだけなのかな?)

煙草に関しては比較対象がわからないので何とも
言い難いが、酒については同じ飲み物カテゴリで
比べればジュースの方がずっと美味しいと思う。

黛 薫 >  
軽く缶を振ってみる。まだ半分以上残っている。
好きでもない味の飲料を飲み切るには結構時間が
かかるのに毎回ロング缶ばかり買ってしまうのは
値段と量の比を考えてしまうから。

我ながらさもしい考えだな、とまたため息を溢し、
煙草の吸殻を携帯灰皿に収める。最近は表の街から
足が遠のいているお陰で随分灰が溜まってしまった。

汚濁を詰め込んだようなこの街に暮らしていながら
わざわざ灰を捨てるためだけに表の街に足を伸ばす
自分の方が少数派なのはよく理解しているけれど、
染み付いた習慣はなかなか変えられない。

以前、仕事ついでの雑談で依頼人にそんな愚痴を
漏らしたら、良い子気取りかと酷く笑われた。

(こんな街にいる時点で良ぃ子も何もねーのにな)

表の街で出会った知り合いの顔を思い出す。
『良い子』と評するなら、真っ当に生きている
ああいう人たちのことを言うべきだろうに。

黛 薫 >  
酔いが回るにつれて、自分がどれだけ飲んだかを
思い出せなくなる。ときどき缶を振って酎ハイの
残量を確かめつつ、一定のペースで消費する。

好きでもない飲酒にそう悪い記憶がないのは、
飲んでいる間の不快感が酩酊感で上書きされて
何も残らないからなのかもしれない。

どの程度時間が経ったか把握できなくなった頃、
ようやく缶が空になった。事前に把握しておいた
水場で缶を洗い、立てかけて水気を切っておく。

これも後で回収して、表の街に捨てに行く予定。
落第街にもゴミ箱はあるが、回収されているのか
定かでなかったり、蹴り倒されていて用を為して
いなかったりする。

(慣れねー方が……おかしぃんだろな)

モラルも遵法意識も、この街では邪魔なもの。

半端に守って半端に破り、そのくせ罪悪感だけは
生きている。何も酒や煙草だけの話ではなくて、
そもそもこの街に慣れていない。馴染めていない。

いい加減に例外的な梅雨が明けたのか、それとも
たまたま今宵が晴れていただけか。大きく欠けた
月を見上げながら帰路に着く。

置いていかれた缶が、軽い音を立てて転がった。

ご案内:「スラム」から黛 薫さんが去りました。