2022/02/11 のログ
ご案内:「スラム」にアーヴァリティさんが現れました。
アーヴァリティ > 日が天辺から傾いた昼過ぎ。
陽の光が一切入り込まないこの暗い場所で少女がうずくまったまま、死んだ目でただ一点を見つめていた。

どれほど長い時間、ここでうずくまっていたのだろう。
長いと言っても、この無駄に長い人生の中ではほんの極僅かな時間のはず。
それなのにとても長く感じるのは、少し前までが充実しすぎていたからだろうか。
死を知って、あの少年の危機を知って。
もう何も出来なくなったこの身にとって虚無な時間は何にも代えがたき苦痛でしかなかった。
だからといって、下手に動けばまた死を振りまくかもしれないと考えると、動こうとは思えなかった。

「きり……ひと……」

彼はまだ殺されていないだろうか?まだ生きていてくれるだろうか。
何もできずにいる間、それだけは頭の中に在り続けた。
今あるただ一つの望みは彼が生きていてくれること、それだけ。
その為なら、今であってもなんだって出来るように感じた。

ご案内:「スラム」に清水千里さんが現れました。
清水千里 >  
歩くさなか、何かの気配がした。
怪異かとも思った。
事実、ある人々にとってはそうなのだろうと思った。
しかし清水にとってはそれは、粗末な布切れをまとった少女でしかなかった。
だから私は目の前に立って、目の前のひとに話しかけた。

「いつからここにいる?」

目の前にいる少女がなぜここにいるかについて、私はよく知らなかった。
ただ今そこにそのようにいるということだけが問題なのだった。
彼女からはにおいがした――自分と同じにおいだ。

アーヴァリティ > 「……ずっといる」

いつから、と言われてもそんな事わからなかった。
何年か、何か月か、何週間か。
もしかして何十年とか経ってるかもしれない。
少し明るくなったり暗くなったりを何度か繰り返した記憶から何日かは経っていることだけは、間違いないと思えた。

声の主の気配はなんとなく察せていた。
それでも、避けるだけの気力ももう残っていなかった。
敵意も感じなかった。
視線は上げず、うつむいたままだったが、かろうじて掠れた声で言葉を返した。

清水千里 >  
「こんな暗い部屋の中にいるのは善くないな」

 つか、つか、と。
 私はアカシアのサッシに近寄り、長い月日の間にがたつくようになった窓枠の抵抗を退けてそれを解放した。部屋に強い日の光が差し込んだ。私は眩しさに思わず目を細めた。
 委員会街にもスラムにも、同じように日は差し込む。そんな当たり前のことさえ、この街の裏路地を通ると信用できなくなる。
 その存在を否定され、見捨てられた街。だがこの地域こそ、おそらくこの島でもっとも人口密度の高い地域だ。

「メシは食ってるのか?」

 目の前の存在は十中八九それを生理学的には必要としないだろうと私は考えていた。だが人はパンのみにて生きるのではない。

アーヴァリティ > 「……」

目の前にいるであろう誰かの言葉に返す言葉を持ち合わせてはいない。
陽の光が届かない場所にいると生物は心が荒む、体調が悪くなるということは情報として理解はしているが、だからといってそれを元に行動できるかと言われれば否だった。

「食べてない…いらない」

食べようなんて思えなかった。
食べれば少しでも気はまぎれるのだろうが、動けないままただただ時間が過ぎ、もっと動けなくなっていた。

清水千里 >  
「そうかい」

 わたしは少女の言葉など意に介さないかのようにふるまう。
 スラムの集合住宅には珍しい備え付けの小さなキッチンを使って、わたしは料理を始めた。
 言葉とはすなわち思考である。自意識の中で際限のない堂々巡りを始めた思考の螺旋は、一人で抜け出せるものでないことをわたしは知っている。こういう言葉を信じてはならない。

 一汁一菜でいいだろう。
 米飯の準備をした後、鰹節を茹でて丁寧に出汁を取り、硬くなりがちな皮を削いだ茄子をよく煮たものを具に、味噌を溶かして汁ものを作る。
 それから野菜炒めを作ることにした。豚肉、ニンジン、キャベツ、もやし、ピーマンなどの具材を、豚の油や塩コショウをうまく使いながら上手にまとめていく。時間と共に、部屋には食欲をそそる香りが満たされていった。盆に少し遅めの昼食を乗せ、少女の前に持っていく。

「食べなさい」

 いらない、とさっきは聞いた。だがその言葉を信じているわけではない。
 もし動けないゆえに動かないのなら、食べなくてはならない。
 動きたくない、ゆえに動かないのなら、その時はもっと食べなくてはならないのだ。

アーヴァリティ > 「…………」

いるであろう誰かの作る料理のにおいが鼻孔を刺激する。
ほこりと血と死以外の匂いを嗅ぎ取るのは久々で、一瞬混乱に見舞われたが、すぐに思い出した。
これは、食べ物の匂いだと。
そして、”いい匂い”だと。認識した。

「……」

言葉と共に差し出されたいい匂いを発する食べ物に対して初めて顔を上げた。
しかし、その視界に映るのは食べ物のみで顔まではまだ見えてない。
食べ物をしばし見つめたのち。

「……食べさせて」

手を伸ばそうとして動かない手にまた僅かにうつむき、小さくつぶやいた。
弱弱しさがわずかに薄れたように聞こえるだろうか。

清水千里 >  
「……ああ!」

 声色を聞いて、私は感激した。あえてそれを隠そうともしなかった。隠す意味などなかった。ただ私は目の前の少女に感謝した。
 私はそれから、一口大の食事を彼女の口に運ぶことだけに集中することにした。食べやすいように大きい具材は箸で割り、汁物には底の深いスプーンを使った。零れ落ちないように、左手で支えながら。

「うまくできているかな。最近はあまりひとに、料理を振舞う機会がなくてね」

 実際には、その食事は決して豪華なものではなかったが、完成度の高いものだった。一般には肯定的に評される品質だろう。

アーヴァリティ > ーーこの体は異能によって作り上げられたかりそめの肉体。
人間のように老廃物は出さないし、通常汗を流すこともない。
腐ることも無ければ傷も肉体のダメージになるだけで傷口も残らないーー

「ーーーぁ」

目の前にいるであろう誰かの差し出してきたスプーンに乗ったいい匂いに口を開いた。
長年細々としか開かずにいた口を、スポーンに乗っている食べ物を食べるために空けるにはそれなりに努力が必要だった。
だから、肉体の維持という行為に対しておろそかになっていた。
口の端が粘土細工のように伸び、糸を引きながら柔らかくちぎれた。
しかし、気づかないまま、開いた口に料理が入るのを待っていた。

清水千里 >  
「――はい」

 清水はその異様な光景を見てもなお動じないで、少女の開いた口の中に料理を入れた。

 そうしてから、零れ落ちた肉体の一部を拾い上げた。

「落ちたよ」

 清水はそれをさも当然かのように彼女に見せた。
 普通の人なら、彼女がどれだけ慈悲深くいたいと願おうとも、湧き上がる恐怖にその精神を屈していたやも知れぬ。清水の精神はこれを典型的なものとして受け取るために耐えうる。清水の知識は、経験は、このような典型を知っている。典型的なものは人を冷静にする。個人的なものとして理解されるものだけが人に度を失わせる。

「美味しいかな?」

 もし少女が顔をあげれば、そこには底抜けの――理解しがたい慈悲と、傲慢にさえ思える善意の微笑が存在するだろう。