2020/06/30 のログ
霜月 水都 > 「へぇ、そりゃあいい師に教わったんだな」

複数の流派を上手く教えられる、と言うのは相当な技量を要するだろう。
それを考慮すれば、いい師であったのが十分推し量れた。

「無骨でもあるけどな。だけど、だからこそ洗練されてるとは思うよ」

言って、連続の中段突き。
下半身に負荷をかけつつ突きの練習もする。鍛錬に向いた型だな、と考えつつ突きを繰り返しながら。

「もしかして太極拳もやってたりする?」

興味本位でそんなことも聞いてみる。
敢えてゆっくり稽古することで負荷をかけつつ精度を高め、実戦ではそれを加速させて強力な勁を発する……という方法論で有名なのが太極拳だ。
ゆっくりした動作、と言うのはあくまで表面的な話であり、太極拳の本領は、纏絲勁と呼ばれる螺旋の動きを活かした強烈な発勁と化勁と呼ばれる、相手の力を受け流す技法である……という話を、本家の槍術師範から聞いたことがあった。

山本 英治 >  
「超強い、謎の神父さんでしたね……師父は」

塀の中にいた頃にお世話になった。
自分の拳を暴力から武術に変えてくれた大恩ある人。
今はどこで何をしているのだろう。

「実戦向けというわけですか……」

色んな武術を修めた人がこの学園にはいる。
それぞれが、自分なりに力と向き合っているのだ。

「はい、陳氏太極拳です」
「太極拳は纏法なり……これが不明ならば(不明瞭であるなら)拳(太極拳)は不明なり」
「太極拳以外の拳法でも、抽絲勁(ちゅうしこう)という呼び方をされていますよね」

穏やかに話しながら、捻りを加えた拳を数度振る。

「これがぶん殴られるとまた痛い!」

と、冗談めかして笑って。

霜月 水都 > 「牧師か……なんだか変わった組み合わせだな」

西洋の宗教関係者である牧師に、東洋の拳法百般。
和洋折衷と言えばそうなのだが、ちょっと不思議な感じはした。

「そうそう。俺は大太刀もやってんだけど、どっちもなんていうか、コンパクトに無駄なくってコンセプトなのは、きっと実戦だとそういうのが強いってことなんだろうな」

花拳繍腿(かけんしゅうたい)という言葉がある。
見せかけばかりで内実が伴っていない拳法を揶揄して言う言葉だが、少なくとも自分の学ぶ霜月流がそのたぐいだとは思っていない。
対外試合でも、極めてコンパクトに、無駄なく相手を追い詰めて倒している光景が多くみられる。ああいう技を身につけたい、と思ったものだ。
そして。

「つっても、君のそれも花拳繍腿ってことはなさそうだよな」

横で稽古をしているアフロの拳も、実のこもったものであるのが見て取れる。

「陳氏太極拳って言ったら、太極拳の源流に近い奴だっけ。なんというか、螺旋の拳法って感じだよなあ、太極拳」

縦拳を好むことの多い中国拳法の中では特徴的かもしれない。
その後の言葉には、苦笑を交えて。

「わかるわかる、痛いんだよなあ。正拳も螺旋の技だけど、めっちゃいてえ」

そういって、ビチッ!と正拳突きを。
拳法の師範に、一度本気でやってくれ、と頼んでボッコボコにされたことがある。
死ぬほど、痛かった。

山本 英治 >  
「経歴一切不明ッ! って感じで……」

再びゆっくりと動き始める。
その拳は何も打たない。
その拳は何も壊さない。
今はそれでいい。今はそれがいい。

「その大太刀ですか? いやぁ、武器術も習ったんですが功が成らず…」
「鍛錬を開始して七年。七年程度……まだ拳に何も宿ってはくれません」

拳を振って破顔一笑。

「花拳繍腿という言葉も久しぶりに聞きました」
「拳を力任せに打つたびにその言葉を聞かされたものです」
「はい、源流に近い……古く、面白い拳法ですよ」

アフロをぐしぐしイジって苦笑い。

「曰く、コークスクリューブローにはなんの意味もない」
「曰く、力学的には回転を加えた拳は10倍の威力がある」
「どれが正しいのかはわからないですが……殴られて痛いのは捻りですね」

自分も白蛇吐信を打つ。白い蛇が身を伸ばす、を語源にした。
そのねじりの手は、空気を割いた。

「いやぁ、拳法トークができるのは楽しいですね…あ、俺は山本って言います」
「風紀の一年、山本英治」

霜月 水都 > 「なんかそれかっこいいな?」

謎のロマンがある。経歴一切不明の達人。
笑みを浮かべつつ、こちらも今度は蹴りを練習する。
下段と中段を中心に、その動きは極めてコンパクトで。

「そうそう、これこれ。俺は正直大太刀の方が得意なんだけど、大太刀ってまあ近距離に入られると辛いから。そのための拳法。両方10年以上やってるけど……まあ、俺もまだまだだなあ」

武の極みとは何ぞや、と問われると、思った以上に曖昧でわかりづらいものであるのだがしかし、自分が知る中には、数名『極み』と言える域にいる人間がいる。
技に、完全な術理も、己の信念も、全て宿して振るうことが出来る本物の達人。
それに比すれば、自分の技はまだまだ何も乗っていない、軽いものだと思える。

「俺も、その言葉で直に言われたことはあんまないけど、力みが出てると似たようなこと言われまくったなあ。脱力できないなら死ぬだけだ、なんて」

筋肉が発する出力と言うのは、動作前から動作時への振れ幅で決まる。
大きな力を出そうと力を籠めまくるのは実際は逆効果。この振れ幅が小さくなり、筋肉の動きからしなやかさも損なわれ、見た目以上に威力のない技になってしまう。
脱力から力みを瞬間的にシフトするのが筋肉の力を効率よく引き出すためのコツであり、要点である。

「古流ってのはほんと面白いよなあ。実は結構興味ある。そして、その古流でずっと使われ続けている以上、まあ多分捻り加えた方がいいんだろうなあってのはあるよな」

古流に見せかけの技は多くない。
と言うのも、そうしないと『実戦で死ぬ』からだ。実戦という極限で取捨選択されていくがゆえに、無駄が少ない。
その古流が、拳の打ち出しにおいて縦拳に劣るというデメリットを踏まえてもなお採用し続けたのなら、きっと意味はあるのだろう、と。
そんなことを考えながら、今度は手刀を放つ。
霜月流拳法の特徴の一つともいえる、剣術の動きを流用した強烈な打ち下ろし。
ボッ、と空気を割く音がする。

「ここまで話せるのはそうそういねぇよな。あ、俺は二年の霜月水都。よろしくな」

最初のアフロヘアーに対する偏見は吹き飛び、純粋な親しみを込めて名乗る。

山本 英治 >  
「かっこいいんですよ……俺もいつか経歴不明のアフロになろうかな?」

幾度にも渡り、拳を振る。
汗が滲み、弾ける。それが今は何とも言えず心地よい。

「十年ですか……名実ともに先輩ですね」
「オトコは強くなければならないという言説・風潮もありますが」
「どれくらい強ければいいんでしょうね……?」

自分が本当に強くならなければならないのは、心。
故に無心で拳を打つ。空隙にこそ、自らの心は映るのだ。

「脱力、大事ですよね……僕は力が強いのですが」
「そのせいで、肝心なところで力んでしまう悪癖が…」

暴力を自分から追い出したくて始めた拳法。
それが通じなくて行う最後の手段が暴力。
今はただ、己を恥じるばかり。

「回転させた拳は相手の攻撃を弾き易いのもあるんでしょうねぇ」

自分も相手の手刀を見てから劈拳を打つ。
打ち下ろす際に気をつけるのは……糸を切らないことだ。
繊細な糸が、切れない様に切れない様に、丁寧に丁寧に…

「はい、霜月先輩。よろしくお願いします」

笑顔で挨拶をした。
それからしばらく体を動かし。

「おっと、そろそろ警邏に行かなくては」
「楽しかったです、また会えたらお話しましょう」
「それでは」

ビシッとわざとらしい敬礼をしてから。去っていった。

ご案内:「常世大ホール」から山本 英治さんが去りました。
霜月 水都 > 「経歴不明のアフロは不審者でしょ」

くつくつと笑いながら、手刀での攻撃をいくつか繰り返しつつ。

「――俺の知ってる人は、自分が取りこぼしたくないものを取りこぼさないくらい、って言ってたけどな」

そう言っていた人は、実際に守ると定めたものを完全に守りぬいている。
その姿は、憧れの一つだ。

「脱力の方法な……俺も難しい。どうしても力む瞬間、あるよなぁ。
それこそ、回転する拳での弾きやすさも、脱力ありきだからなあ……」

おそらく、究極の脱力とは、武に生きるすべての人間の目標の一つだろう。
それほどまでに、難しい境地だ。

「先輩なんていいよ、そんなガラじゃないし。っと、警邏頑張れよー」

風紀は大変だという話はよく聞く。
それに身を投じているのは、何かしらの覚悟があってのことなのだろう。

「――俺も何か、考えるかな」

そんなことを呟きながら、自分もその場を後にした。

ご案内:「常世大ホール」から霜月 水都さんが去りました。