2023/01/27 のログ
ご案内:「過日、街路樹の記憶」に崩志埜 朔月さんが現れました。
崩志埜 朔月 >  
忙しくも年末を乗り越えて。
少し先に一足遅れてやってくる寒波の事なんて露知らず、
例年よりも少し寒さが控え目だろうかだなんて言い合って。
そうして三が日を過ぎると私にとって一つの節目がやってきます。
一月四日、一年に一度の誕生日。

「ハッピーバースデーです、私」

人通りも少ない道を街路樹のイチョウが落とした黄色い葉を踏み歩きながら、
一人で呟いて。

独り言ですから誰に伝える、というものでもありませんが。
もう歳を取る事にめでたさやありがたさを感じるようなことも無いのですが、
それでもハッピーとは言っておきましょう。
自己暗示のようなものです。
書類整理に追われて草臥れた状態で言っても恰好が付きませんが、
言ったもの勝ちと言いますか。言ってる内に幸せが寄ってくるかも知れませんから。

崩志埜 朔月 >  
良い事ばかりが起こる日々でもありません。
どちらかと言えば、そうでない事の方が目に付く事も多いくらいです。
そんな荒波の中にある生徒たちにとって、果たして私は何か力になれたでしょうか?

特段問題無く過ごしている人や、友人同士の中でもトゲやズレは生まれるもので、
それを上手く咀嚼して飲み下す事ができる人もいれば、喉奥に引っ掛けてしまう人もいます。
私がするのはそれを取り除くことの手助けに過ぎません。

抱える疑問や辛さに共感して、否定せず関心を向けて、その思いを理解する。
これだけとは言いませんが、おおよそ私たちのする事はそのくらいの事です。
傾聴やカウンセリングといった専門的な言葉を省けば、ただ寄り添ってくれる人です。
いえ、その上で適切な助言を基に正しい方向に導くというのが模範解答なのですが、
学生が相手の場合そこまで求められる事があまり無い、というのも実情と言いますか。
友達でも無く、純粋な教員とも違う第三者に思いを吐露するだけで解決した、という事は多いもので。
皆さん、存外したたかなのです。ふと迷ったり不安になったりするだけで。
――ただ、それもおおよその場合においてのお話。

折角心を開いてくれた人の手を、取れなかった事もあります。
再訪をお待ちしていますと告げる声は穏やかであれたか。震えてはいなかったか。
そんな不安を飲み込んで、飲み込んで、飲み込んで。
ハッピーバースデー。
言い聞かせるのです、自分に。
えぇ。これはきっと、空元気です。
良くないものですよと、人にこそ言いますが、貫く限りはこれだって元気と相違ありません。

崩志埜 朔月 >  
ふわりと香るイチョウの葉の香り。
去年の落葉は風が吹けば飛ぶあっさりとした物でしたが、今年はどこか濃厚で。
大きく息を吸いこむと落ち着く、不思議な甘い香り。

胸いっぱいにそんな冬の香りを抱いて、再度自問自答。
盛大に祝うでも無く、祝われるでも無く。
寒空の下で黄色い絨毯を蹴散らし歩くこの身は幸せでしょうか。

「ふぅ」

息を吐く。少しばかりの温度をはらんだ吐息。
無色透明。
真っ白な息が溶けていく、なんて事を期待していたのですけれど。
何事もイメージ通りとはいかないものです。
そんなくだらない事にくすりと笑って。

――えぇ、幸せですとも。
両の手には足りずとも、数えられるくらいには満足に人を助けられたと自負できているのですから。
一年間頑なに口も聞いてくれなかった生徒が、相談室にお菓子とお茶をたかりに来てくれるようになったのですから。
職員寮近くのコンビニが帰りの時間には値引きのシールを貼ってくれるようになりましたから。
何でも良いのです。
私の機嫌は、私が取りますから。
普段は買わない唐揚げでも買って帰りましょう。

「ハッピーバースデー」

独り言にしてはちょっと大きい声量で。
どうせ誰が見ているという訳でもありません。
ザクザクとかき分けて歩いている内になんだか少し楽しくなって来た心のそのままに、
パンプスの先で積もったイチョウの葉をえいやと蹴り上げて――
トゥーミー、そんな続く言葉は短い悲鳴に変わります。
27歳になった私は尻もちをつくのでした。

ご案内:「過日、街路樹の記憶」から崩志埜 朔月さんが去りました。