2020/07/21 のログ
ご案内:「特殊領域第二円」に神樹椎苗さんが現れました。
■神樹椎苗 >
光に囲まれたモノクロの世界。
落第街の中をコソコソとくぐり抜けて、椎名は再び、この場所へとやってきていた。
第二の領域を踏み越えるために。
『────────』
「今更ってやつですよ。
目的は同じじゃねえですか」
声無き声に返しながら、椎名はそそり立つ光の前でゆっくりと息を吐く。
間違いは起こらないだろうが、それでも無感動でいられるほど麻痺はしていない。
想定通りに行かなければ、領域の中で彷徨い続ける事になるのだ。
「──問題は時間制限ですね。
しいの体が保つのは、せいぜいが数分ってところです」
『──────────』
「信じてはいるのです。
けどこればかりは、計算しきれないところですからね。
頼りにはしてますが」
領域内での時間経過が、現実と異なっているのは把握している。
けれど、その違いはその時々によって変化してしまうのだ。
場合によっては──時間切れも十分にありえる。
■神樹椎苗 >
「分の悪い賭けですね。
負けたら、しいは終わりでしょう。
死ねないまま、壊されるでしょうね」
『─────』
「わかってますよ。
それでもやる理由はあるのです。
結末に何一つ、関われなかったとしても」
『彼女』のために何もしなかったのなら、きっと後悔するだろうから。
椎苗は手の届く相手はけして見捨てない。
相手が望んでいないとしても──自分の為に身勝手に助けるのだ。
「あいつを終わらせるのなら──しいでありたいですからね。
そうでなくともせめて、見届けるくらいはすべきです」
『────』
「どうなんですかね。
こんな感情は初めてですから、わからねーですよ」
瞳をとじて、胸の前で手を組む。
祈りを捧げるように、悼むように。
「──生は死と共に在り。
──祝福は安寧をその身に宿す。
──死を想え。
──死に眠れ。
──吾は黒き神」
渦を巻く黒い霧。
右目に灯る、黒い炎。
死神を宿した小さな身体は、その瞳で光を見上げた。
「──往くか」
椎苗の意識を奥底へと沈めて。
黒き神と呼ばれる死神は、光の中へと踏み入れた。
■神樹椎苗 >
──そこは神殿だった。
清らかな河の中に浮かぶ、イグサの茂る小島。
なだらかな丘の上に建つ、小さくとも厳かな神殿。
神殿の中には美しく磨かれた祭壇があり、その前には神官らしい装束の少女がいた。
跪き祈りを捧げる姿は美しく、そして儚くもあった。
(──そうか。
これはあの日の再現なのだな)
少女の名はトト。
名すら奪われた神の最後の信徒であり、最も敬虔なる神官だった。
そしてこの時は、世界から排除される直前の光景だ。
『ああ、我が神よ。
なぜあなたがこのような仕打ちを受けなければならないのですか。
誰よりも人々を想っていたあなたが、なぜ』
トトは行き場のない感情を湛え、悲しげな顔を上げた。
その先には黒き装束の影が一つ。
その力の殆どを、存在する意味を、名を、奪い尽くされた神格の残滓。
『人間が吾を必要としなくなったのだ。
死の恐怖を与える悪神など、誰も望まぬのだろう』
『そんなはずはありません!』
少女が声を上げる。
その声は痛みと悲しみが滲んでいた。
■神樹椎苗 >
『私達人間が人間らしく生きられるのは、死後の楽園が約束されているからなのです。
楽園へ至るために、人間は懸命に生きる事ができるのです。
あなたが世界を去り、死を失えば、人間はきっと堕落してしまう。
死を想う事を忘れ、生きる事を軽んじる様になるでしょう』
トトの言葉は、真実だろう。
この世界は、生を司る神と、死を司る神、その二柱によって成り立っていた。
常に傍らにある死を想い、畏れるからこそ、人々はその日を大切に生きていた。
死の神によって楽園へ導かれる事が約束されていたからこそ、人々は未来を恐れず懸命に歩んでいた。
生と死。
それはどちらか片方では成立しない概念だ。
ゆえに、死を排除すれば、残るのは形だけの生。
『それでも、人間は死の恐怖を捨て去る事を選んだ。
ならば、吾はこの世界にはすでに必要のない存在だ。
トト、お前も吾でなく、生の神へ仕えるがよい』
そう神が告げると、トトは立ち上がり、泣きだしそうな顔で訴える。
『それはあり得ません!
私が仕える神はあなただけです。
私はあなたの司る『死』にこそ救いを得たのです。
私が今も、こうして日々を生きていられるのは、死を想うあなたの教えがあったからに他なりません!』
トトの懸命な言葉は、神を震わせる。
最後に残った信徒は、本当に、どこまでも純粋に神の教えを信じていた。
その信心に、しかし神は、もはや応える術を持たない。
■神樹椎苗 >
『吾はもはや、神としての力も持たぬ。
お前の信仰心に、報いてやることも出来ぬ身なのだ。
やつであれば、お前の事も迎え入れるだろう。
お前もまた、やつへの信仰心も持っているはずだ』
『あの方もまた、私の敬愛すべき素晴らしき神です。
ですが、私がお仕えするのは、あなた以外にはありえません。
私のこの身、この魂、全てをもってあなたにお仕えする。
それこそが私の『生』であり、道なのです』
トトの想いは本物だった。
だからこそ神は、突き放すことも出来ず、そして連れていくことも選べなかったのだ。
『――ならばこそ、お前はこの世界で生きるべきだ。
正しく死を想う事の出来るお前だけが、何時か訪れる生の堕落を、循環の停滞を、正しく導く事ができるだろう』
トトへと振り返り、神は一振りの鎌を差し出す。
それは神が魂を安寧へ導くために振るっていた、神器の一つ。
あれも、これも、と奪われつくした神に残った、数少ない力の一片。
『お前が語り、遺し、伝えていけば。
この世界は、人の手で紡いで往けるだろう。
そのために、お前にこれを託す』
トトは、その鎌を恐れながらも恭しく受け取った。
そして愛しきものを想うように、その腕に抱きしめる。
『私はけして忘れません。
あなたの教えも、あなたと言う神がいた事も――』
トトの泣き出しそうな顔は、急速に遠のいていく。
そう、これが神と少女が交わした最後の言葉。
満足な別れも告げられず、神は世界を去り、寄る辺を失ったのだ。
■神樹椎苗 >
(――ああそうだ、だからお前は)
目の前に少女がいる。
かつて神に仕えていた敬虔な信徒は、一振りの鎌を持って、その刃を『椎苗』の首へと押し当てていた。
その瞳に映るのは、絶望か、憎悪か。
神に見捨てられ、信ずるものを失った少女がどうなったのか。
幾度、幾日、幾年、考えたところで知る術はない。
(吾を憎むか。
吾を恨むか。
――ああ、それも当然だろう)
神は、最後の信徒を見捨てたのだ。
共に世界を去る事も出来ただろう。
従者として傍に置くことも出来ただろう。
けれど神は、それをしなかった。
少女の信仰心に報いることができず、逃げ出したのだ。
愛する民を、先の見えない旅路に連れ去る、覚悟も出来ず。
(そうだ、吾はお前に報いることができなかった。
ただ、吾のすべき役割を押し付け、一人取り残し、重責を負わせた。
人には過ぎた重荷と知りながら)
その神も、今はすでに残骸となり果てた。
神としての格は地に落ち、肉体も朽ちている。
(吾はすでに、神ですらない。
だが――しかし、それでも。
吾を神と呼ぶ娘がいる。
吾を必要とし、信仰するものがいるのだ。
そう、かつてのトト――お前のように)
鎌を持つ少女へ、ゆっくりと指先を向ける。
地に落ちた神格に、それでも残った、始まりの権能。
(なれば、その望みを叶えてやらねばならぬ。
信ずるものを救えず、導けず、何が神と云えるのか。
吾は今度こそ、報いてみせると決めたのだ)
そして指先へ炎が灯る。
かつて死を司る神として、魂を送った葬送の黒き灯。
それを、かつての信徒へと向けた。
(――恨むなとは言わぬ。
そして吾は、いつかその罪を贖わなければならない。
だが、それは今ではないのだ――今再び、さらばだ、トトよ)
世界が砕ける。
すべてが泡沫へと消えていく刹那。
少女の幻影はわずかに、微笑んだように見えた。
■神樹椎苗 >
目が覚めれば、そこはまたモノクロの世界だった。
そこには誰もおらず、新たな光が立ち昇るだけでしかない。
「――時間切れ、ギリギリでしたね」
足元に倒れている自分の死体を見下ろして、大きくため息を吐いた。
どうやら賭けには勝てたようだった。
椎苗の意識は、光に踏み入る以前と変わらない。
『――――――』
「疑うわけがねーのです。
ただ、物事はそう上手く運ばないのが常ってもんですからね」
椎苗はそのまま、新たな光へと歩み寄る。
これが後どれだけ続くのか。
蓄積された情報によれば、観測されているパターンはあと二つのはずだが。
「――後悔、してるのですか」
静かに問いかける。
答える者はいない。
「しいには、神様の気持ちなんてわかりはしねーです。
しいは、そのように祀られてただけですからね」
愛し育んだ世界を去らなければならない悲しさも。
愛おしい民から排斥される苦しみも。
椎苗には一つだって、理解することは叶わない。
「ですが、信じた人間の気持ちなら、解らなくもねーです」
その少女はきっと、共に往く事を望んでいただろう。
その少女はきっと、神の手で送られたかっただろう。
その少女はきっと、信ずる事をやめなかっただろう。
「――恨んでなんか、いねーですよ。
今でもきっと、信じ続けています。
それだけは、間違いないと断言してやります」
信じた神に、役割を託されて。
それを頼りに、いつまでも信じ続けていたのだろう。
信仰が失われれば、神は存在しえない。
かろうじて、その残滓であっても未だ存在しているのが良い証拠だ。
「そいつには、感謝しないといけないですね。
そうでなければしいは――ずっとあのままだったでしょうから」
空虚な操り人形。
教団の次は神木の、中身のないただの木偶として、利用され続けるだけだっただろう。
『――――――――――――』
「知らねーですよ。
そんなの、いつか自分で確かめやがればいーのです」
そして椎苗は踵を返す。
次は次で、備えをしなければならない。
このまま向かうのは、無謀だと判断して。
『――――――』
「何回言えばいーんですか。
しいは、敬虔じゃないかもしれないですが。
過去の女に負ける気はねーのですよ」
そして、振り返らずに戻っていく。
また一度、光に呑まれて。
ご案内:「特殊領域第二円」から神樹椎苗さんが去りました。