2024/12/16 のログ
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コラム:常世学園の理念について >
匿名者による秋月秀顕著『大変容』に対するネットワーク上の書評より、常世学園 学園憲章冒頭部についての一考察部分を抜粋
惟れ天地は万物の父母にして、惟れ人は万物の霊なり。
――『書経』泰誓・上
歴史は激変によって支配されている。世の中の仕組みはそれであって、今も過去もこれからも、それしかない。歴史なんてない――偶発性があるだけなんだ
――ウィリアム・ギブスン、ブルース・スターリング著、黒丸尚訳『ディファレンス・エンジン』角川書店、平成三年
常世学園創立時、常世財団によって定められた学園憲章に曰く――『あらゆる「世界」に存在する“人”は、常世学園の学生・教職員になり得る資格を生まれながらにして有す』と。
ここでいう「“人”」とは、「地球」に居住するいわゆるホモ・サピエンスに限定されるものではない。生物学的な分類を超越した定義であり、すなわち――この宇宙・時空連続体の外側より来たりし《異邦人》も、有機物・無機物の区別なく、天使や悪魔も、霊的・幻想的な存在も、あるいは現実に現れた“神”でさえも、そうあろうとするのであれば、“人”なのだ。
“人”として扱われることを望まぬ者もいるだろうが、少なくとも常世学園の理念上ではそう定められている。《大変容》という、世界の理そのものを変容させた一大異変を経た「地球」は、そうあらねばならないという理想がそこに示されている。
《大変容》の後、「万物の霊」の長たる“人”は、「地球」の現生人類のみを指す語ではなくなった。
「万物の父母」たる“天地”は、我らが「宇宙」/「地球」に限定されるものではなくなった。
“人”という語は、極めて広い意味を持つに至った。
“世界”という語は、極めて広い場所を指すに至った。
もはや人は「地球」の人類のみではなく、もはや世界は「地球」の天地のみではない。故にこそ、常世学園に入学することが出来る者は、あらゆる“人”なのだ。あらゆる“世界”の“人”がその対象者なのだ。
それが我々「地球」の人類の姿形と大きく違っていようとも。
それが肉体を伴わない霊的な存在であっても。
それが我々の宇宙とは異なる世界から来訪した者であっても。
「地球」の上で“人”としてあろうとするものは、等しく常世学園の入学対象者である。
そうでなくてはならない――学園憲章は、明言せずともそう宣言していると言えよう。
かつて、ミルチャ・エリアーデは人間を「ホモ・レリギオースス」――宗教的人間――と表現した。異世界にも“神”は存在し、それを信仰する者達がいる。上の定義に照らせば、《異邦人》もまた“人”に他ならない。人類史の中で提示された「人間の定義」に、多くの《異邦人》は当てはまる。
天使や悪魔であろうとも、あるいは形而下に現れた“神”と呼ぶべき存在であろうとも、彼らが常世学園にて“人”としてあろうとするのであれば、入学対象者となる。“人”と見なされるのだ。
《異能》の有無などは関係がない。《異能》を有していたとして、その能力の内実は問われない。
《魔術》の使用の有無などは関係がない。使用する《魔術》が些末なもの/強大なものであろうと、入学の可否には影響しない。
年齢も性別も知識の程度も、何もかも問われない。“人”としてあろうとするものは、“人”として扱わねばならない。
学園憲章における“人”の定義とは以上の如きものであり、それが、《大変容》後の「地球」における理念であるべきだと、常世学園は提唱しているのだ。
そうしなければ、既に大いなる変容を遂げた我らが「地球」は、人類社会は、近い将来に成り立たなくなるであろうと。
現実として、個々人の身体的な能力差は《大変容》以前より大きくなり、“人”のあり方は旧世紀と比べ物にならないほどに多様化した。《大変容》という激変により歴史は突き動かされ、“人”も「世界」も全てが変容させられ続けている。
《異能》により――その能力の実態はあまりに多種多様ではあるが――武器を持つことなく絶大な力を持つ者の数は年々増加し続けている。《異能》を持つ者を「新たなる人類」などと呼称する者たちもいる。ある日突然、隣人が超越的な能力に芽生えるという状況は、増え続けている。
かつては選ばれた者たちに伝授されてきた《魔術》の秘奥は暴露され、多くの人々が用いる技術となりつつある。隠秘の学を学びしヘルメスの末裔たちだけではなく、開かれた《魔術》を用い、物理法則を超越することも可能とする者たちも増えている。神と人とを合一させ、神を人へ、人を神へとするが如き古の神秘主義が、グノーシス主義的人間観を持つ者たちが、新プラトン主義的「一者」への回帰を求める者たちが、エメラルド・タブレット的観念を持つ者たちが、現れてきている。
《大変容》以前では、空想でしかあり得なかった存在が、「門」を通じて「地球」へと姿を現し、おおよそ人間とは思えぬ姿・能力を発揮し、「地球」の人類社会へと参入しようとしている。彼らの多くは、自らの世界へと変えるすべを持たない。そんな彼らを、異“邦”人――異なる世界を「邦」と表現し、同じ「世界」――多元的「世界」――の“人”であるということを、認めなければならないと提唱する者たちがいる。
全て、《大変容》以前はありえぬものであり、近代の歴史の中に隠され、あるいは存在しなかったものたちである。
それでもなお、目の前の存在は“人”であるのだと、「地球」の人類は認識すること。しなければならないのだということ。それに至る階梯を示すのが常世学園なのであると――
概ねそのようなことが、大著『大変容』にて知られる秋月秀顕博士の著した『常世学園について』において記されていた。その解釈の是非はここでは措く。秋月博士の論に対する反論も当然存在している。そして、常世学園の学園憲章はあくまで「理念」であり、現実の常世学園の状況がそのまま学園憲章通りであるというわけでは勿論ない。全ての“人”に入学の権利があったとしても、全ての“人”が入学できるわけではないのだ。
それはそれとして、形而上生物学・神化人類学の分野にて比肩する者がいないほどの業績を上げた秋月博士は――自らそう称したことは一度たりともなかったが――《大変容》研究の大家として知られている。《大変容》という言葉は彼が考案したものだという説が今もなお様々なメディアの中でまことしやかに語られているが、秋月博士はそれを生涯否定し続けた。
《大変容》の発生により「地球」より「神秘」や「幻想」は消え失せたという逆説的な発言も彼は行った。一般的には、《大変容》によってあらゆる「神秘」が《復活》/《復権》を遂げたと表現されるが、あらゆるものが「ありえてしまう世界」と成り果てた「地球」には、もはや「神秘」「幻想」はありえないのだという悲観的な思想に晩年至ったことも知られている。
全てを“人”に収斂させ――無論、“人”と呼ばれることを厭う者もいるだろうが、ここでいう“人”は「人間」を意味するものではない――形而上の存在さえも自らの範疇に取り込もうとする「地球」のあり様、常世学園の理念を、秋月博士は理解しつつも恐れ、グロテスクに思い、かつての「神秘」「幻想」を懐かしんだのである。
これは、《大変容》以前に生を受けた者だからこその思想であり、必ずしも《大変容》後に生まれた者たちに受け入れられるとは限らぬものであり――
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