2024/08/16 のログ
ご案内:「もぬけの殻」にノーフェイスさんが現れました。
■ノーフェイス >
「片付ければサッパリするものですこと~」
フローリングの床に大の字に寝転がり、流血のような頭髪が広がる。
デスクやチェアといったオフィスにあるべきものは存在せず、引っ越し後か解体前かというがらんどうの空間。
エアコンの電力供給も停めてある。じっとりと汗ばんだ体に服が張り付く不快感は、沼のなかで泳ぐようだ。
「……ほんっとに」
置いてあるものは、物品だけだった。
ほんの短い間だけ使っていた仮宿のひとつ。
――こうして。
ビル下に、荒れた道路を動くトラックのエンジン音が遠ざかっていく。
運び屋に搬出させた物々は、然るべきところに売りに出される予定。
楽器機材の数々やら、拘ったテーブルにソファも。何もかも。
■ノーフェイス >
「そこに……」
首をめぐらせた。床材の冷たさと、頬の柔らかさが混ざる。
「やすい革張りがあって」
前の持ち主が残していったものだ。
おそらくはスタッフ休憩用の、家具屋で紙幣数枚で買えるような。
「……廃屋に布敷いて寝るよか、ずいぶん快適だった。
……寝て起きたらホコリまみれで、本当にサイアクだったケド」
こんな感じだ。
寝返りをうって横ばいになり、硬い床の感触。
起き抜けたときに、全身が痛くて。虫に体を這われるし。
なにかが動いて、うごめく気配に、ずっと煩わされていた。
■ノーフェイス >
廃墟でコピーを歌って口に糊をしていたことも。
全部吐き戻すくらいのバカな飲み比べで底辺の面子を競い合っていたことも。
ずっと、遠い昔のように思った。
怪人は、落第街の怪談となって、名物となって。
現と幻のはざまを、都市伝説が手足を生やしたかのように、自由に闊歩していた。
十代の子供にとって、年月の経過はあまりにも鈍く、濃密で、熱かった。
そしていつものとおり、すべてを置き去りにしていく。
床から体を剥がす。追想に、郷愁の痛みはなかった。
踏みしめてきた道を懐かしむような、空虚な現在ではなかった。
■ノーフェイス >
「…………――」
座り込んだまま。
口ずさむのは、遠い昔のうた。
百年ほども前になる。
あの、大変容が起きる前につくられたもので。
そこから何年も、何十年経っても、いまだにラジオで流れてくる。
手札に持つべきは、ハートのクイーンだと。
そんなお節介を歌った、なんとも古臭い曲だ。
■ノーフェイス >
独りきりで生きることを、自由と嘯くものいれば。
それこそが広すぎるほどの監獄だと諌められもして。
なにを言っているのか全然わからなかったのに、
はじめてこの曲をきいたときに、
わけもわからず泣いたことをよく覚えている。
ただがむしゃらに頑張れば褒めてもらえると思っていた、
他の子供と同じようにあれると思っていた昔日の失敗と重なる記憶に、
しかし、どうして泣いたのかのこたえは、まだ出てはいないけれど。
■ノーフェイス >
ものの数分のことだった。
曲が終わってしまっても、今はもう、そのタイトルを探すのは簡単だった。
必死に覚えた旋律を口ずさみ、聞いてまわる必要もない。
目元を擦ってから、立ち上がる。
街路に見えた複数の影を認めてから、身を翻した。
通報があったのだ。
だから、来るのは当たり前だ。
自分から呼んだのだから。
■ノーフェイス >
あとに残ったのは、もぬけの殻。
そこは確かに怪人の住まう地下の館であったはず。
ひとつずつ、ひとつずつ。
地図に×が刻まれていく。
ご案内:「もぬけの殻」からノーフェイスさんが去りました。