2024/08/09 のログ
ご案内:「個展 各務遥秋『苦』」に或るひとつの命さんが現れました。
■或るひとつの命 >
雲間を翔ぶ、痩せさらばえた鳥を観る。
「…………『生』」
ふと意識に引っかかった作品に足を止め、題を確かめた。
件の連作のひとつめ、であるらしい。
付随している解説は、当人によるものではないし、
受付で購入できる図録にも同じものが記載されているはずなので、流し見にとどめておく。
観覧が終わったあと、帰路に適当な店でそれを眺めて余韻を味わうのがよい。
白黒の濃淡で描きぬかれる、二色の世界とは思えぬ風景。
空は涯てなく。
あらためて正対し、しばらくながめた。
「…………」
羽ばたくその背を追う視点。
それをみたとき、すこしだけあつくなったのだ。
■或るひとつの命 >
各務遥秋は、本来なら不世出の画家で終わるはずだった人間だ。
画壇においては高い評価を得てはいたものの、それこそ知る人ぞ知る。
本人は動画配信サイトで作業風景の録画を公開していた素人である。
生前においても、再生数は伸びやかでなかったし、収益をもとめてもいなかったとか。
「広く見せるためのものじゃない、か」
展示場ひとつを借り切り、コンセプトに応じて配置するだけの作品数はあるものの。
多くは習作が、のちに作品という役を羽織ることになったものだろう。散発的だった。
水墨画――という時点で個人的には既にハードルを感じているのもあるが。
どことなく難解なものが多い気がした。強く描きこまれているもの、余白が過剰なもの。
時折胸をざわつかせるものがありながらも、さっきのものよりは強烈な情動を催すわけでもなく。
そもそも絵画美術に通暁しているわけでもない。
三大、あるいは五大と呼ばれる故国の展示場にも二つしかいったことがない。
……まだあるのだろうか。
「…………」
本来の日程からずれこんだとはいえ、開催からすこし日がおいて、しかも閉館時間が近い。
観覧客はちらほらといる程度。
にも関わらず、時折見える、仲睦まじげな二人連れ。
■或るひとつの命 >
(誘うべきだった……?)
話を振っておいて、ひとりで来たという形にはなった。
まあ一緒に行こうだなどと言ったわけでもないし、自分はこういう時は黙ってしまうから。
サービスができない。デートコースとしては自分向きでもない。
いちゃつくものばかりでなく、真面目に見ているものたちもいた。
(……………)
あいつのことを考える時間が増えていることを自覚して、かぶりを振った。
雨の香りが鼻腔に蘇って、すこしばかり足早になる。
いっそ墨の匂いに満ちていればと思うほどに。
――ひとりの、身なりの良い老爺がいた。
学園の教員だろうか。その隣にすこしスタンスをあけて立つ。
(『老』……)
湖中より水面を望む、双つの魚は。
そうして描きこまれながらに、あの鳥とは違って。
ずいぶんと瑞々しく満ちているように思った。真白き天は、眩くさえ思う。
各務遥秋――各務遥は齢二十七の若さでこの世を去った。
その指先が導いたものがなんなのか、よくはわからない。
それなりに知られた広告代理店の支社に勤務し、
今日び珍しくもない独り身だが、交友関係はそこそこ広かったとか。
魚はふたつ。対を描いた陰陽魚。
……ピンと来ない。
長らくの時をかけて、人が忘れつつある苦しみ。大変容を経ても、なお。
同じものをみて、感じるものはそれぞれであろう。
老爺の視線はきっとまっすぐこの作を。だから横顔を盗み見ぬように、先へ。
――――であれば次は?
少しだけうなじにぞわついたものを感じて、髪の奥に指を走らせた。
■或るひとつの命 >
「…………………」
ひとめでわかった。
遅れて、そのあたりにだけ、人が少ないことに気づいた。
黒く塗り込められた空、薄月夜。
夜明けを待つかのような。
昇る陽を視ることもなく、
極夜のままに終わるものも多かったろう。
各務遥秋の死因は公開されていない。事件性はないはずである。
これが何なのかを確かめるまでもない。
見ていられなかった。
それがすべてだ。
形にならぬあの曲。
しばらく公演をしていないことによる、むらついた欲求不満とともに、
寝台で、殺人鬼に刻みつけられた主想は、時に実像を伴う希死念慮となって身を苛む。
幾度みずから銃爪を引き込んだ散弾銃に撃ち抜かれたことか。
更には、そこに雨中のアクシデントを許す不覚。……有り体に言えば、
(不調……)
視線を外した。実物の魔力にとらわれて。
そこから抜け出すための、蜘蛛の糸、あるいは梯子。
一筋の光明でもよい。こんがらがった、形をもたぬ、要領を得ない、煮立つ混沌。
それでもなお。
最後の一作、目玉をもとめて、張り付くような靴底をもちあげた。
■或るひとつの命 >
「…………………」
斯くして。
主役として展示されていたそれには呆然とするほかなかった。
一切の情報をシャットアウトし、生のそれを求めた。
芸術家の、未完の傑作。
死後、そのように彩られた、堂々たるその風格は。
「……マジか」
すべてを描きぬかれることのなかった、
――花弁の欠けたる、一輪の花は。
毒々しい薔薇でこそないが。
野辺に楚々と咲き、伸びて、風に揺られる有り様が。
「『死』…………?」
ものさみしげではあるけれど。
ひどく優しく、穏やかなその風景は。
思わず、見入っていた。
見惚れていた、とは違う。
そうした感動や興味とは違うなにかがあった。
求めていた納得とは、まるで違う感慨ではあるけれども―――
引っ張られる。
■或るひとつの命 >
「……え?」
■或るひとつの命 >
痛み。
視線が落ちる。
自分の手首を掴む、その真白き女の手は。
その花から。
■或るひとつの命 >
「……ッ!」
思わず一歩を離れた。熱いものに触れたように、手を振り上げて。
意識が拡散した。吸い込まれるほどに集中していたことに気づいた。
全身に吹き上がる冷や汗と、遅れて心拍の荒れ具合を知った。
肩で息をしながら、振り払った瞬間には消えていた。
魔力を帯びた視野で見ても、画にも、手首にも、なにも残留していない。
痕のつきやすい白い肌に指が食い込んだ形跡も――相当な強さで掴まれていたのに。
細い指。確かなライターズカラスの凹凸と硬さ。
覚えている。目に焼き付いてる。画家の手だった。
掌をひらいて見下ろす。じっとりと湿っていた。
死神の見せたまやかしか、殺人鬼の憫笑か――――、あるいは。
(……各務遥秋は、死をもって名声を得て、)
そこを、高い体温の指先で、撫でさする。
感覚の上書きを、無意識に求めた。
(全世界に、この『死』を、)
――解き放ったのか。
■或るひとつの命 >
「…………、」
ぱたり、と両腕を脱力させた。考えすぎだ。
そんな危険物を不用心に公開しているはずもない。
夏の日に、走り回る日々に、疲れ果てていた。
『――――間もなく、閉館時間となります。ご来場のお客様は……』
静かなアナウンスが沈黙を割る。
先から何か気遣わしげに見ている学芸員に、大丈夫、と手振りで伝えた。
「…………いまのは」
改めて、その花を観て。
――なにもないことを確かめた。
後ろ髪を惹かれながら、足を進めた。
きっと、図録は買ってしまう。
手首に残った感触を、いつまで自分は覚えているのか。
夜道を帰るに不安がるなど、何年ぶりだろう。
背に微笑まれているような悪寒も――きっと、今宵も眠れない。
■或るひとつの命 >
すべては『死』を特別な一作とするための後付けにも思えた。
その遺作にまつわる怪談話はむこう数年は跡を絶たなかったが、
事件らしい事件もまた、起きることはなかったのだという。
個展はしめやかに期間を満了したのち、次は英国領へと運ばれるそうだ。
あの、一輪の花も。
ご案内:「個展 各務遥秋『苦』」から或るひとつの命さんが去りました。