2024/09/06 のログ
ご案内:「喫茶『Detours』」にノーフェイスさんが現れました。
■ノーフェイス >
晩夏というには些か陽射しが強すぎる日が続いた。
ふらりと入った小さな喫茶店は、どこか渋めの内装と薄暗い店内照明が特徴だ。
昭和レトロ……というらしい。新築であるのに古びたように造られているこだわりが、
なんとなく好みで、まばゆい昼下がりでも涼しく過ごせていた。空調も効いているし。
学生たちは後期に勤しんでいるころだ。だからこうして、
昼下がりから日暮れ時まで過ごしても良い――という許可も、部員から降りている。
■ノーフェイス >
壁際隅のボックス席を占拠して、アイスコーヒーを注文した。
バッグから取り出したのは、過日に購入した個展『苦』の図録。結構な厚みがある。
おそらく大半はライターが好き勝手書き散らかした与太であろうとは思いつつも。
そもそもは高精細に撮られた作品の面影が目当てだ。あれから読む暇もなかった。
現地は……もう、寄り付きたい空気でもなくなっているだろうから。
――大仕事を終えて、このさき、自分の舞台が控えている。
けれどそれもすこし先になり、水面下の動きをよそに自分の行動もいくらか制限されている。
こうした余暇にも、まるで鎖を総身に巻かれているようで落ち着かない。
「歌いたいなぁ……」
スタジオで、ではない――つい先日も全力で録ったばかり――のだ。
半死人の体にむらむらと燃える欲求不満は、むずがゆく這い回り、内側から灼き焦がす。
それでも、いまは雌伏せねばならず――涼しいのにじっとりと汗が滲む。
ご案内:「喫茶『Detours』」に藤白 真夜さんが現れました。
■藤白 真夜 >
回り道。
そうとしか、言えなかった。
祭祀局の夏は、慌ただしい。夏特有の、肝試しなどに始まるそういった雰囲気が、本当の霊を呼ぶからだ。
とはいえ、それらの全てが全て危険な霊現象というわけでもない。先日の、心霊騒ぎのように、だれにも被害を与えない低危険度の事案ということもある。
結局、夏季休暇だからといって休むことなど、無かったのだけれど。
そのせいかも、しれなかった。
「……ふう……」
疲れを溜め込む体質じゃない。終わりゆく夏にも未だ強い日差しに、真っ黒な姿をした女は汗一つかかない。
でも、ほんの少し、遠回りをしたい気分で、普段曲がらない角を曲がったのだ。
「……あ」
喫茶店が、目に入った。
さしたる興味は無い。飲食にこだわりがあるわけでもない。休むべき時間はまだ訪れない。
でも。
ただなんとなく、扉を開いた。しいていうなら……そういう魅力が、その店にあっただけ、か。あるいは──
「──あ」
おそるおそる、立ち寄った雰囲気のある喫茶店で。
──謝るべき相手に、出会う必然のため、か。
「あ、あの、……その。
……こ、ここ、構いませんか」
顔を紅くしながら、壁際に座るおしゃれな先客に尋ねる。
おどおどしたわたしとは、ずいぶんと違う。あるいは、有名なその顔に駆けつけた熱心なファンに見えなくもないかもしれないけれど。
……理由はもっとはっきりしていて、情けないものだった。
「……せ、説明と、謝罪を……させていただきたく……」
しょんもりと小さくなりながら、消え入りそうな声で。
……単純に、自分のやらかしてしまった相手を見つけてしまった……そういう、お話だった。
■ノーフェイス >
荊棘で舗装された途が、如何に蛇のごときうねりを示したとて、
意志の示すままに脚は前に出続けるのだから、それらすべてが途だった。
だが――で、あっても。
人に惑う夏だったことは、疑いようがない。
そのなかでも特に重たく、いまなお付きまとう迷妄の黒い靄。
いますこしで誕まれそうな珠玉の一作につながった、
自分の心を一度破壊し尽くした、あの殺人鬼の面影を、
「――――」
不意に声をかけられて、顔をあげた瞬間、
視界に飛び込んできたその不安げな貌のなかに……一瞬だけ、捜してしまった。
「どの?」
ぱたん、と図録を閉じる、頬杖をついてにまりと微笑んだ。
なんともまあ、かしこまった真面目ちゃんに対して、余裕と洒脱の微笑。
「ほかのお客様に対して抜け駆けしたことか、演者の寝所への不法侵入。
あるいはそこで起こったあんなコトやこんなコトへの……?」
頬杖が、ぴっと長いひとさしゆびを伸ばした。
向かい席、空いていますけれど。
■藤白 真夜 >
「……そ、そんなことまでっ!?
あ、っ……」
思わず、声が出た。
静かで薄暗い雰囲気のある喫茶店で、大声は出すべきじゃない。が、出た。
また小さくなりつつ、どこへとも知らず頭を下げながら……こっそりと、指された席へ着く。
「す、すみません……色々と……。
どのと言われると……全部……としか言いようがないのですが……」
……記憶が無い。
そうとしか、言いようがない。
わたしは、少なくとも……良い子であろうと、まじめであろうとしている。そんなわたしから、想像も出来ない状況に、目が覚めたら放り込まれていた。
寝ぼけながら見つめ合うその顔の整いに魅入られるよりも先に、恥ずかしさと申し訳なさが爆発して……逃げてきて、今。
思い出す。運命からは、逃げられないものだった。
「わたし、夢遊病のケがあって……。たぶん、そういうことなんだと、思います。
……すみません……大変、その、ご迷惑を……おかけしたんでしょうね……」
平謝り。あんまり謝りすぎても感じが悪くみえることもある。それはある種の思考停止と、謝罪という免罪符に逃げているから。
でも、今はこれしかない。本当に、わからない。……記憶が無い以上の意味を秘めた、自身への理解の諦めがそこにあるから。
■ノーフェイス >
「いやあ?とーってもきもちよくって、刺激的な夜だったよ。
ブリューゲルの絵の前で、顔を寄せられただけでどぎまぎしてた真面目ちゃんが、
まさかあんなケダモノじみた本性を隠していたなんて……スゴかったなぁ……♥」
どこか陶然と、頬杖にしなだれるように体重をかけながらうたった。
恥じらう乙女のように、いつぞやの夜の追想に脚色の造花を添えて、
もう片方の手はメニューをひょいと取り上げて彼女のほうに。頼むのがマナーだ。
「――公演の中断があったワケじゃないから、謝らないでいいんだよ。
ほんとに、キミが悔やむようなコトは起きてないケド。
むしろ心配なのは……その病気のほうかな。
くちぶりからして、こういうのはじめてじゃないんだろ?」
最も迷惑――避けたい事態は起こらなかったと。
なんの慰めにもならないだろうが、そもそもそうなるように仕向けたのは自分なので。
からかいもそこそこに、緩和するほうに話はもっていきたい。
自分と殺人鬼に、利害一致があったが――眼の前の藤白真夜からすればそうではないのだった。
「キミの身のまわりはその事情を……えっと、そもそも真夜って、どこのヒトなんだっけ……?」
委員会とか、そういうの。
そういえばなにも知らなかった。
美術館での邂逅では、こちらは名前も告げないまだ無名の音楽家だった。
■藤白 真夜 >
「……!? ど、どういうっ……! ……こ、こほん。
……す、すみません~……」
……しんなり。また声が大きくなりそうなのを我慢し……喫茶店の椅子にまとまりながら、頭を下げながらちっちゃくなる。
そんなことまで!? と思いはしつつ、本性を隠していることには、真実とは違えど心当たりもある。というか、悪いことをしたのは事実なのだから。
「ビョーキ……そうなんでしょうね……。
お医者さんにはかかっているんです。異能が大きいことと思春期の影響で起きることがままある現象だ、と……。
……でも、ここまで、一人の方に迷惑をかけたのは、はじめてかもしれません……」
病気という言葉には、自分でも知らず腑に落ちた。
だからか、夢遊病という事実に、申し訳なさこそあれどこか真実味を欠く要素は、事実を知っているノーフェイスには少し滑稽に見えるかもしれない。
あるいは……。
本性を現した殺人鬼が、目撃者を生きて帰すこと自体が稀なだけだったか。
「……は、はいっ。そうでした、そこからでしたね……!
いつぞやの美術館では、お世話になりました。
わたし、祭祀局に所属している三年の、藤白 真夜と申します」
わたわたとしながらも、自己紹介を。わたしは、わたししか見えてないのだから。
「……美術、お好きなんですね」
ほんの少し落ち着いたのか、ふと目にしたパンフレットを眺めながら、なんとはなしに話を振った。
店員さんを呼ぶ。会話の邪魔にならないのであれば、熱い紅茶を頼むだろう。恥ずかしがりで、申し訳なさには汗をかくけれど、暑さは全く気にしていなかった。
■ノーフェイス >
反応の大きさに、たのしいなあ、なんていう感想を隠しもしない、観察と愛玩の微笑。
――そのなかで、彼女の姉との相対性を見てしまうのは、すこし申し訳なくもあった。
「…………」
彼女の言葉を聞きながら。
無自覚に――演奏者の長い指が、喉仏の目立たない白い首筋を、つ……、と緩慢に撫でていた。
蜜のように滴った睦言に流されて、あのままナイフでここをブチ抜かれていたら、
おそらくは彼女は迷惑をかけた自覚もないままに日常に戻っていたのか。
「あのときの……ボクがなにものでなかったときのハロウィンの夜の、
スピーカー越しの声を、おぼえてくれていたのかもしれないね。
来てたの、しってるよ。マーケットのほうにいたんだってね。
そうだったとしても、公演のほうの記憶もトんじゃってるんだったら。
ボクが一番ショックなのはソコかも。次はおきてるときに観に来てくれる?」
出禁だなんて言わないから。
そうやってにっこり笑った。作法を守ってくれるなら、大事なお客様――夢遊病者であれ、なんであれ。
「祭祀か。エクソシズムとかそういうのやってるトコだよな。
あるいは……巫女さん、とか。そういう?
ああ――ボクはノーフェイス……でもいいし。最近はアルフライラって名乗ることが多いかな。
すきに呼んでくれて構わないよ。このなまえも、いつまで使うかってカンジだし」
――飼い主は祭祀局か。
朗らかな微笑の裏で、ぼんやりと得心した。力と性質の由来と傾向。
おそらく局の上役はこの姉妹のことを把握済みであろうとも。
「――ん? ああ、いや。すきかでいえば、どうだろ?
いうほど詳しくもないし……な。水墨画となると完全に守備範囲外」
図録を、互いが同じ視点で観られるように、縦向きにして広げた。
個展に行けばすきなのか。絵を観ればすきなのか。
目的意識がある観覧だったし、よく美術館も博物館も行くけれど。
はっきり断言できるほどの愛好ではない気がした。
すきか否か、の判断のラインが高めの人間だった。
「この各務遥秋って画家の――四連作が有名って話だったんだケド。
その、最終作。未完の一作が気になってて。観に行ったんだ」
■藤白 真夜 >
「うっ……。
あのときは、ちょっと……お忍び、でしたから」
あのマーケットの記憶も、当然ある。……今は大分、あのあとにやらかした苦々しいもので上塗りされてはいたけれど。
やっぱり、このわたしは音楽はわからない。当時で覚えているのは、あのシャウトだけだった。音楽と言っていいかすらわからない、叫びを。
「……わたしに、音楽が理解るかはわかりませんが。
夢の中で見聞きしたものの記憶は、わたしにありません。
でも……頭に残る音楽って、ありますよね。たまに、聞きたくなくても頭の中で鳴る、あれです。音楽って……夢や記憶より、強く人の中に残ることも、あるんじゃないかな、って。
だから……記憶にはなくとも、今度はきっと……もっと鮮明に聞こえるはずですから」
音楽は、きっと思っているより強くて……悪く聞こえるかもしれないけど、生き汚い。
記憶という表面に映りはしなくとも。
残そうという意思があるものは、きっと残る。……奏でる人間に、その意思があるならば、なおさら。
「う、う~ん……っ。巫女とはたまに呼ばれるのですが、そんなに大層なものでは……。どちらかというと、雑用係です、色々やっているので……。
ノーフェイスさんのことは、少し噂にもなってわたしでも知っていましたから。
……ふふ、失礼ながら、どんな名前でも、こう呼ぶのがしっくりきてしまって。
どう名乗っても、なにもない場所に意味が浮き上がるみたいなんです」
最初に名乗った名だったからかもしれない。
名前がいくつもあることは、不思議には思わない。確か、そういう身分でもあったはずだから。
「……奇遇です。
わたしも、個展だなんて……この方のものを除けば一度しか行ったことありませんし。水墨画も、ぜんぜん……。それこそ、祭祀局の仕事で行っただけでしたから。
芸術は……音楽もですけど、……やっぱり、難しくて……贅沢で」
パンフレットが、奇遇にも先日立ち寄ったあの個展のものだったことは気づいていた。
音楽も、美術も、芸術にはとんと、付き合えない。
でも、或る一点に魅入られている事実だけは、隠せなかった。
「……わたしも。
あの花を……みました」
評する言葉は、ない。
くだせる判断は、たくさんあった。
魔術的、呪術的、異能的要素無しにして、死に触れる。祭祀局員としていえば、あれは凄まじい技であるけれど、そこまでだ。人の命や魂というものは、それだけ強烈だから。
でも……表情はやはり、隠せなかった。
意識してかせずか、ノーフェイスに向ける表情は柔らかい。いや、恥ずかしがったり、申し訳無さそうな顔をしたり、もしたけれど。
いま。
その表情は、……一心に、遠いどこかを眺め……ただの無表情を、浮かび上がらせていた。
憧憬や、決意ではない。……永遠に届かない、どこかを。
■ノーフェイス >
「遺伝子を刻みつけられたように」
理論が感覚に追いついたような言葉に対して、浮かんだものはそれだった。
奇しくもあの夜にそういうことを囁かれた気がしたから。
「……だったら、種を芽吹かせ、愛の花を咲かすためにも。
つぎは会場が変わるだろうから――連絡先、教えてくれない?
演るときにチケット贈っちゃう。ほんとうにそうなのか……?
キミのココロとカラダで実験してみよーぜ」
なんて、ひらひらとオモイカネ8を取り出して、誘ってみた。軽薄な微笑で。
――果たしてアイスコーヒーに、熱々の紅茶が届いた。
豆も茶葉も、ちょっとマイナーな銘柄ながら良いものであるらしい。
どこをめぐって、どうめぐって、これを見つけてきたのか。
最短距離では、見つからない。
「……おなか、冷やしちゃうほう?
ボクもオレンジペコとか頼めばよかったかな――いつもストレートで?」
ミルクとブラウンシュガーもついていた。レモンも卓上に用意してある。
こちらはミルクとシロップを垂らした。ちょっと甘めの気分。地獄のような苦みは今日はご遠慮。
「それなら、さんはつけないでもらっていい?」
柔らかく。しかし鋭く拒んだ。記号であるため――敬称はいらない。
呼び捨てして。という若干踏み込んだわがままでもある。
あるいは、各務遥秋を呼ぶように――だ。
「……あァ~……、
怪奇譚は祭祀局の担当だしね……そっか」
仕事で、というと、個展がいまどんなふうになっているかの確信が持てて、苦笑した。
事件を起こすべき空白地帯でないあの場所は、物見遊山で埋まっているのだろう。
すこしだけ興ざめな気持ちで、髪を後ろに流してからストローに口をつけた。
苦みは控えめ。コク深め……あ、美味しいかも。
「…………」
伏せていた睫毛の影がうごいて、黄金の双眸が無に隠されたものを見据えた。
理性と知性の指先が、内側を這う、まさぐる。密やかに、夜のように。
「感性とかじゃなくってさ。
もっとストレートなところをブン殴られた貌してるね」
ちょっと困ったように、笑ってしまった。
さてどれが良かった、と話そうとしていた矢先、そんな深刻そうな無を見せられてしまえば。
死――どうやらこっちにとっても、大事な主想のようだった。
ふたたび、頬杖――今度はグラスを倒さぬように避けながら、ぐっと肘を前にして領域を侵犯した。
「おしえて、藤白真夜の感想」
■藤白 真夜 >
「あ、愛の花は、咲かないかもしれませんが……。
連絡先は、……はい。先のお詫びに、とは言いません。
ただもう一度……あなたの音楽を聞きたいだけですから。
……そ、それだけですからっ」
はたして、……あの夜、わたしは何かを刻みつけたのだろうか。夢の中は、わたしにとって存在しない。でも、夢の中の旋律が残る、と嘯くなら。
……紅い液体の舞う夢見も、わたしの中に残るのだろうか。
ただ、それを確かめたかった。
……音楽ではなく、このヒトの芸術が気になるのは、本当だけれど。……ちょっぴり、素直に頷き難い、お誘い。
おずおずと取り出したスマートフォンは、オモイカネ8より旧式のものだった。
「体は強いほうなんですけど、アイスは……色々飛んでっちゃいますから。
……ふふ、セイロンが好きなんです。わかりやすくて……、香りもそう、主張しませんし。
ミルクティも嫌ではないですけど、紅茶といえば、ですから」
何も注がずに一口だけ口にして……紅茶を眺める。
味よりもむしろ、その姿を求めているかのように。
「……ブン殴られた貌……」
あまり自分では使わない表現はしかし、胸中に刺さっていた。
……結局のところ、言葉で語れはしないのかもしれない。アレは、そういうものだった。
「……“本当の美の前で、ひとは隠し事ができない” 」
どこかで聞いた言葉を、自分のものに変えて使いまわした。
ノーフェイスの黄金の瞳も、彼女の領域も、名前を呼ばわる距離も、すべて……気にしないまま、受け入れる。
いま、其処を見ていないから。
「いっぱい、思ったんです。各務遥秋は、彼女は……生きてたんだって。同情も、憐憫も、敬愛も出来たはずです。
でもわたしは、たぶん……。……嫉妬、してたんです。
……ああ、なんて……なんて、綺麗に死ぬひとなんだ、って……。
ちょっと、失礼ですよね。……見るべきは、作品だと、思うんですけど……」
ほんの少し、魅入られた瞳が戻ってくる。
主張しすぎないがシックで洒脱なテーブルにずい、と乗り出しているノーフェイスを前に、ちょっぴり身を引いた。
「その、……ノ、ノーフェイスは、どう思ったんですか?
…………よ、呼べてます? こ、これで……」
さらりと呼び捨てしてみたつもりが、全く慣れない。恥じらいながら、確認する。……たぶん、気を抜くと敬称が戻ってくる。
■ノーフェイス >
事実を突きつけるのは――まだ早い、と思った。
曖昧な微笑で、「そぉ?」って微笑み、会場を満たす熱を予期させながらも。
次なる公演で想起させるのが、もし、殺人鬼との対面だったとして。
――彼女が試練を乗り越えられるのかは、ひどく興味をそそった。
藤白真夜は前に進もうとしている人間なのだろうか。
ひどく冷たい思考が、こうしている時は顔を出す。
「――なんかすっごい大人びた嗜み方をするね。
甘く淹れたアイスのがスキなボクは、もしかしたらお子様かも。
ちいさいころからミルクとコーヒーとジュースばっかで。……紅茶、って飲み物はさ。
ボクの故郷にとっては、けっこう曰くつきの飲み物だったりするんだ」
思ったよりも風流か、あるいはその紅色を愛でているのか。
トマトジュースを見せたら鼻血を吹いてしまうのでは、と思いつつ。
ブラディ・マリーをごちそうするには、場所も時間もそぐわないか。
外はずいぶん明るくて、しかし、不意に迷い込むような路地だから、人通りは少なかった。
■ノーフェイス > 「いや」
まず、言葉を継いだのは。
「あれはそう見えるように仕組まれてるものだと思った……ちがうかな。
否が応にも、作者の人生を、人格を……生と死を、そこに思い描かずにはいられない。
あれが無題の絵だったら、あれが無名の画家の作だったら。
おなじことを思えたか、といえば……ボクは違うとおもう。
言っちゃえば販売戦略……でも、管理団体を走らせてるのは、各務遥秋だから」
自分もそうだ。純粋に作品だけをみていたわけではない、と。
「画だけでいえば、ボクは『生』にいちばん惹かれた。
キミは――………、」
殺人鬼なら。
「『病』……じゃないか?
ボクはあれ、すごくこわかったケドな。
はじめてあったときも、あの夜も、きょうも黒いセーラー服だ……キミは」
死をまえにした人間に、強い愛情を見せるのではないか。
あるいは、月から遠ざける闇そのものか。
「……なにより、嫉妬。べつに悪いコトじゃないだろ。
ごく普遍的であたりまえの感情だし、ボクにもすっごくあるコトだし。
でも、……なに。てことはキミ、綺麗に死にたいのか……?」
昔日の画家を、この手で縊り殺してやりたかった。――なんていうのではなく。
その裏側は、あるいは表は、死を望む相を見せたことに。
……強く惹きつけられた。そんなだから。
「ん」
ぱちり、と黄金の瞳を瞬いて。
……にひ、と子供っぽい、すこし演技を忘れた笑顔。
「イイね~、その調子!」
よくできました。素直に呼んでくれないコが多いので。
「――で、ボクか。
…………ンー……、正直ちょっと、言語化がむずかしいんだよな……」
と、そこで、すこし悩む。
あのとき抱いた感情は、こちらも一言では言いづらいもの。
「………あ、じゃあさ。
なんだと思う?キミから観たボクが、ちょっと気になるかも?」
なんて時間稼ぎに、頭の運動もさせちゃうのだ。
■藤白 真夜 >
「……!」
驚いた。
いや、意識の内で考えてはいた。わたしは、そのどちらかはわからなかった。
あれが、ただ己の苦境と死の最中に書き上げられたのか。
己の死すらもそう、利用したのか。
必死に生き、必死に書いた各務遥秋は、わたしの中で笑っている。安らかに。
自らの死も、利用して一連の芸術を残した各務遥秋も、わたしの中で笑っている。静かに。
結局のところ、わたしは作品を通して各務遥秋を見てしまっていたから。
「『病』は……、……そうですね。絵、でいうのならばあれが一番……一番、掻き立てられました。
こわくて……きれいな、夜。
黒は、……あはは……わたしのこれは、一張羅なだけですけどね」
恐怖では、無かった。
でも、恐怖だ。
死への恐怖を忘れた躰に、ひとの感じるそれは、驚くほど新鮮に、染み入るように甘やかに受け入れられる。
……元より、そういう嗜好だから。
「……死……死にたいかと言われると、違うのですが。
最後の終わりを飾りたい、と思うのは……別に悪いことでは、ありませんよね?
わたしはむしろ……嫉妬のほうが、嫌になってしまいます。
嫉妬は、前に進める原動力になるから、良いのだと。わたしのものは、……楽になりたい、そんな、逃げるような嫉妬だと思いましたから」
各務遥秋が綺麗に、醜く、死んだとしても。自らの死を、描き出したとしても。
……鮮烈だった。見せつけられた。
まだたどり着いてはならない場所を、美しく。
まるで、向こう側から届く誘いの手のように。
「……だ、だって、実際、そうだと思ってしまってっ。
ノーフェイス、というのはどちらかというと記号です。距離の近さを失礼に、思わないように頑張っているんですからっ」
素直な笑みに、余計に頬を赤らめてちょっとふくらむ。敬称が多いのはただただ、失礼の無いようにと考えているだけだった。でも、このひとはそういう考えじゃない。初めて会った時に感じたどこかで見たかの違和感は、もう正しい意味で顔見知りとして馴染んだ気がしていた。
「……ノーフェイスから見た、ですか? ……ん……」
顎に手を当て、目線を落とす。時間稼ぎなどとは、思いもしない。まじめに、しかし本気で考えこんだ。
「……反り合わない、とは思います。あなたの死は……想像できません」
……それは、ノーフェイスの印象をうわべで触ったままの考えだったかもしれない。
あるいは、だれにでも節操なく死を見出すようなやつではなかった、とも。
「でも……あの、花は似合います。
……賞賛。
やり遂げた、最期のとき。
例え、未完成でも、その終わりは──」
そこまで口にして、閉ざした。……ちょっと、いや大分、失礼だったかもしれない。
重なる。同じ芸術家として、だけ。
……ううん、だからこそ、続けた。
「……芸術は、死後も残る。
あなたなら……あれを見て、勇気を……決意を、抱いたのではないですか」
藤白真夜は、明るいものを見る。だが、暗いものが好きで、属している。
だからこそ、ノーフェイスには……輝きの中にある芸術家を見た。
例えそれが、誰かの暗がりに目を向けなかったとしても。
ノーフェイスという記号の下に、何が書かれていたとしても。
記号を纏い、それを歌い上げる人間の裏を、なぜ見なくてはならないのか。
芸術を放つ人間の、芸術をこそ、わたしは見たい。……各務遥秋の時は、そういかなかったけれど。
「死は、芸術を途絶えさせない。……そうではないでしょうか。
いえ、或いは──」
……もっと。
各務遥秋が、そうだったように。
死が、芸術を高めることだって、あるのではないか。……そこまでは、口に出せなかったけれど。