2024/09/10 のログ
ご案内:「学生街 路地裏」にノーフェイスさんが現れました。
ノーフェイス >  
学生街にも路地裏と呼べる場所は数多く存在する。
急激な都市発展にはこうしたスペースの発生がつきもので、
知っていれば得する近道になることも多ければ、
悪さをするには絶好の死角になることもある。

とはいえ風紀委員会の巡回も当然あるので、
そこまで危険地帯というわけではない――筈だ。

ノーフェイス >   
九月も半ばだというのに、いやに湿度の高い夜だった。
まばらに配置された街灯や、自販機のディスプレイの照明が、
建物の裏と裏が隣り合って出来た細い路地のすがたを浮かび上がらせている。

学生街のフェデラル風のアパートメントに本拠を移してしばし、
いくらか猫のように学生街の地理を把握するに至った。
古巣といえる落第街ほど歩き慣れてはいないが、だいたい何に出くわしても対処できる自負もある。
流血色の頭髪を揺らしての歩は――しかしその余裕とは裏腹に鈍い。

(あっつ)……ホントどーなってんだよこの島の気候は……」

絡みつくような汗。バニラを匂い立たせるほどの熱帯夜の不快感――だけではない。
件の演目を終えれば、自分の用事に向き合わねばならなかった。
片手に提げた商店の買い物袋の重みが煩わしく感じるほどに、
真綿で首を締めるような奇妙な閉塞感のなか、欲求不満(フラストレーション)はつのるばかり。

「ッ……ああ……歌いたい~……!
 ……舞台から離れてると、こんななっちゃうのか……?
 つぎの予定まで、まだだいぶ――――んン?」

不意に、進行方向、すこし離れたさき、街灯が落とす照明が、
ひとりの陰影を切り取っていることに気づく。
この路地はそこまで狭っ苦しくはないものの、
相すれ違う存在を否応なく認識せざるを得なくなる。進んで道を譲る性格ではないせいだ。

ご案内:「学生街 路地裏」に五百森 伽怜さんが現れました。
五百森 伽怜 >  
闇を照らす街灯の下に佇んでいるのは、少女の影である。
齢にして14,5といったところか。
古風な鹿撃ち帽を頭に乗せたその少女は、
路地裏の灰色(ビル)に背を預け、
その小さな肩をゆっくりと、大きく上下させていた。

珍しい程に丈の長いスカート。
しっかりと制服を着込んでいる姿からは、
少なくとも路地裏(ここ)に留まるには似つかわしくない、
真面目そうな生徒の印象を受けるであろうか。

「……こんな時に、ひったくりに遭うなんて……最悪ッス……」

静寂がどしりと構える路地裏に、静かに、快い音が響いた
夏場に不意に耳に入る風鈴の如きその声色はしかし、ひどく震えていた。

頬は赤く染まり、口元は軽く開いて荒い息を漏らす。
瞳はかすかに潤んで光を受けている。
その立ち姿と表情には、ただ走り疲れただけのそれとは思えぬ、艷があった。

右手でぎゅ、と。己の制服の襟を必死に掴んで何かに耐えているその少女は、
どうやらその場に現れた来訪者に、気づく様子はないようである。

歩を進めるならば、そのまま息を荒げている彼女に近づく形になるであろう。

ノーフェイス >   
「……なあに?お財布でも盗られたー?」

独り言に言い添える、距離があるのに耳元にふれるような声。
独白――心拍、息遣い。意識すればこの距離なら、手にとるように聴こえる。

「ボク、だれともすれ違わなかったぜ。
 撒かれたか、建物のうえをいかれたか」

声、といえばこちらも奇妙。奇妙に――よく通る、通り過ぎるほどに鳴る甘い声。
声だけでなく視界の横、白い手が伸びて、
なんともベーカー通りの風合い漂う帽子のつばに指先をかけると、

「どっかで風紀委員会(ふーき)のひとたちが捕まえてりゃいい。
 いずれにしても災難だったねえ、学生街(こんなとこ)で。
 そんなになるまで走ったのに――」

ぐい、と帽子を取り上げて、その顔を覗き込んだ。
闇のなかに爛々と輝き、少女の瞳を覗き込む炎の双眸はといえば、
すくなくとも他人(だれか)のため――善意の助力をするような人間ではなかった。

五百森 伽怜 >  
紫髪の少女、五百森 伽怜は危機に陥っていた。
彼女の身に流れる、サキュバス(淫魔)の血。
その力を抑え込み、彼女をただの人間で居させてくれる為の薬。
その薬が、先の引ったくりで鞄ごと奪われてしまったのだ。

薬の効果が切れ始めた五百森の内側から、今が機と言わんばかりに
じわじわとした熱がその手を広げ、彼女の心を舐めるように焦がしている。

つまる話が――人に会うには、最悪のタイミングだということだ。

『に――財布でも――』

風に乗って、僅かに彼女の耳に届く(オト)

『――すれ違わなかった――建物のうえをいかれた――』

それは次第に(コエ)となり、彼女の耳に入り始める。
己の内側にのみ向けていた集中を、そこに来て漸く外界に向ける
五百森であったが。

その時には、時、既に遅く。
魅了の瞳を万が一でも人に向けることがないように、
慎重に、目深に被っていた鹿撃ち帽は――いとも簡単に奪われてしまった。

そうして()に焦がされた双眸は、帽子の向かう先――つまり、
来訪者の顔へと、反射的に向けられてしまったのであった。

全てを飲み込み、包み込むような魔性の瞳――。

頑なに肌を見せることを拒んでいるのだろう、かっちりとした襟元。
袖口のわずかな隙間。
そうしたところから、そっと見えている白い肌。
そこに滲む瑞々しさが街灯の光を受けて、ほんのりと輝いているのが、
近づけば見て取れる。

そうして震えるその輝きは、
突然の出来事に一瞬ぴたりとその動きを止めるのであった。

「あっ……」

その声色には、察するに余りあるであろう、恐怖が感じられた。
それは、果たして来訪者にのみ向けられたものだったであろうか。

ノーフェイス >  
――瞳。
視線に込められる力は時として、たとえそれが魔術や異能に頼らずとも、
人の心を動かし、騒がせ、また凍らせて釘付けにする。
そこに魔性が乗ればなおのこと。故に、練達の魔術師はそうした視線の干渉に非常に強い。
まして精神力の防護もあれば鉄壁、といえる――

「……そんなにビビらなくってもイイじゃない、傷つくんですケド」

市街地にあって野生の狼のように、強靭な、過剰なまでの生命力に満ち満ちた心身。
夜道に出会うにはいっそ、不気味ですらある整った顔立ちは、牙を剥くように笑った。
生白い腕が持ち上がり、大きな手のひらが顔より高い位置に手をついた。

――だがどこにも例外や抜け穴はある。
パズルのピースや鍵と鍵穴――

(あれ……?)

熱に浮かされながら、肘がその顔の横についた。
吸い寄せられるように、その瞳を覗き込んでいた。我知らず。
額の触れるほどに近づいた貌は、いつしか笑みが失せて、瞬きも忘れたように。

「……綺麗だね、キミの()
 あんまり視た憶えが、ない――」

――DNA(遺伝子)の相性から出身地、身につけた宗教観、伝承や逸話になぞらえた、
人々が築き上げてきた歴史が絡め取る、ある種の強制力とでも言うべきか。
うっかり効いてしまう、ということは――ないではないのだ。

五百森 伽怜 >  
彼女が抱える魔性(サキュバス)の血。
恐怖に立ち竦む彼女の理性(こころ)とは裏腹に、
月夜に吼える、猛き狼の如き(いのち)を持ったその存在に
手を拱くのは道理であったのかもしれない。

魔性は、そのような相手を求めているに違いないのだから。

 
何か一つでも、欠片(ピース)が抜け落ちていたのなら。

何か一つでも、歯車(ギア)が噛み合わなかったのなら。

起きなかったであろう現象が起きてしまったのだ。
相手を強く強く、惹きつけてやまない魅了の瞳。

それが、静謐な月光の下でどうしようもなく、艷やかに――妖艶に、熱を帯びて輝いていた。

「あ、あの……ごめんな……さ……」

潤んだ少女の瞳は、近づけられる狼の瞳を拒むように
彼女の傍らにある錆びたドラム缶へと向けられた。

「見ないで……ほしいッス……」

喘ぎ喘ぎの声の間に言葉を挟んで、何とか眼前の相手にそのことを伝えきる五百森。

それが限界で、精一杯だった。
走って逃げることも、今の彼女には最早できなかったのだ。

ノーフェイス >  
「それは」

みないで
赤い唇が、失笑のふるえを零す。
缶やら何やらが詰まった買い物袋が地面に転がった。
なんともまあ、らしくなく――詰めた襟などは、長い指で緩めてしまおう。
こんな夜に戒めなどいらない。布の擦れる音をひいて、襟元をくつろげて。

「誘い文句としては、上等過ぎやしないかな……?」

体を寄せた。熱を宿した獰猛な体温がぬるい壁面との間に閉じ込める。
脚の間に潜り込む、引き締まった太腿は、逃さない。
喉元を晒せばあとは喰らいつくのみ。

(―――、うん)

なにかが、おかしい気がする。
自分――としては、……そう、なにもおかしくはない。
据え膳は食べるし。……よく見ると、ずいぶん可愛らしい顔立ちをしていて。
抑え込まれた匂い立つ色気は、むしろその落差でより艶かしく輝くようだ。
なによりもこの瞳から、自分の瞳が逸らせない――逸らせない

(……なにか、……)

大切なことを、忘れて――忘れさせられているような。
いや、そう――
頭上に

ノーフェイス >  
「…………ああ、」

ぽた、と雫の落ちる音がした。
汗でもなく、涙でもなければ。犬歯を突き立てた唇から溢れる、真紅の一筋が、
白い細顎から、その白い制服に伝い落ちて染みを作った。

「……恒常発動型(パッシブ)か。
 盗られたの、眼鏡かなにか……?」

多少、頭が冴えた。
間近にいながら、視線を外す。上気した頬、荒い息。体を離すことはできないまま、潤んだ黄金を俯かせながら。

五百森 伽怜 >  
「ち、違……」
 
――斯くの如くして、禁制(せいふく)(はだけ)られた。

月光の下で、影と影が重なり合った。
身体を寄せれば、か弱くも早鐘の如く感じられる鼓動と、息遣いが感じられよう。

はだけた制服の下から覗く、黒の下着――女性らしさを際立たせぬように
纏われたその周囲に滲む、汗。
それが、彼女の内に秘めた衝動を静かに語っている。


同時に。
五百森の脳裏を過る、嫌な記憶。
情欲のままに、獣性のままに。
伸ばされてきた数多の手。
耳に注ぎ込まれてきた、数多くの陰湿な言葉。
あらゆる負の感情が、彼女の心に罅を入れ始めたその瞬間――

五百森が目を閉じた、その瞬間に。

――白は、(あか)(いろどら)れる。

目を閉じてから、どれだけ経ったろう。
数秒が、五百森には何時間にも感じられた。

目を、開く。
相手は動かない。必死に耐えているようだ。
血を流してまで。
恐怖の感情は胸の内側からじわじわと引いていき、次は重苦しい罪悪感が
彼女の胸に居座ることとなった。

自分のせいで、こんなことになってしまったのだ。

五百森 伽怜 >  
まだ身は寄せられたまま。
少女の鼓動は未だ激しく打たれているが、それでも理性が顔を覗かせれば、
次第にその音も、ほんの少しばかり緩やかに感じられることだろう。

「……薬を、とられたッス」

ただそれだけ、口にした。

サキュバス(淫魔)の力。
彼女が生まれた時から植え付けられていた、どうしようもないそれを。
抑えてくれる、人間で居させてくれる唯一の救いの道。
それが、学園の医療機関から貰っている薬なのだ。

「……ごめんなさい……痛い思いを……させてしまったッス……」

少女は俯いて、まだ上下している肩を何とか落ち着けようと深呼吸をしながら。
懸命にその言葉を紡いだように見えた。

ノーフェイス >   
「――ン、ぁ……?」

肩で息をして、どうにか落ち着かせ、心身の主導権を維持しようとしていたから。
言葉は聞き流してしまった気がするけど、謝意を向けられれば顔を上げ、

「いや、イイよ。血豆ができちゃいそーだけど……人前にたつ予定、しばらくないし。
 痛いのは慣れてるし適度なのならキライじゃない、し」

すぐに視線を横に逸らした。危ない。

「むしろ……(よご)してごめ、」

雫が落ちて、くっきりと紅の染みができた制服に視線を向け、
膚と黒のコントラストが目に入った。やり場がなさすぎる。
不自然にどぎまぎさせられながら、さっき聴こえた言葉を頭のなかで反芻(リフレイン)

「くすり……ああ、抑制剤(ミルク)ってヤツ……?
 ……キミ、もしかして夢魔(サキュバス)の……あー、あーあー……」

魔性を抑える薬品が、そんな不名誉な俗称で呼ばれているのを聞いた覚えがあった。
そこで思い至った。既に信心はなくとも育ってきた宗教圏、文化と風土。
信徒の禁欲を惑わす、羊頭狗肉の魔性――その伝承と歴史に絡め取られたわけだ。
壁に追い詰めていた肘を離すと、顔を手で覆った。すごく熱い。

「とりあえず、ボクはだいじょう――」
(――――)

どうにか安心させようと口にしたところで、ばっと体を離した。
背中を向けて、横身を壁にくっつけた。

ノーフェイス >  
(――ぶじゃなーい……)

背中を向けたまま、ポケットからオモイカネ8を取り出して示した。

「……これで、水と……キミはなに飲みたい?
 冷たいの飲めば、ちょっとは落ち着くんじゃない」

すぐそこに自販機が横列を組んでいる。
一旦色々と冷静にならないといけない。アテネの都の物語のようにはなってはならない気がする。
自分の意志を捻じ曲げられてのことは、あまりおもしろいものではなかった。

五百森 伽怜 >  
眼前の人物に対して怖いと。
先までの五百森がそう感じていたのは、確かなことだった。
だが、眼前の人物の飄々とした言葉を聞いている内に、
先に少々薄れていた恐怖心は、熱いコーヒーに浮かべた氷が溶けるように薄まっていった。
熱が、少しだけ引いていく。

途切れる彼の言葉。
はっと気づけば、己のはだけた制服を、きちんと整えていく。
黒子の浮かぶ胸元が、赤模様のついた制服ですぐに覆われた。
生地はすっかり火照った身体によって湿り気を帯び、
その白の向こう側に、未だに先の黒を仄かに映し出していたが、
それでも、ずっとましな出で立ちになったであろう。

「……そう、ッス」

サキュバス。
夢魔とも淫魔とも呼ばれるその異形(バケモノ)の血を、少女は引いていた。
そのことを見破られれば、素直に肯定をする。
このような状況に陥らせてしまったのだ。誤魔化すことはどうしてもできなかった。

抑制剤(ミルク)
そのようにも呼ばれるその薬は、決して安価なものではない。
生まれつきの特性を抑える為、少女は日々バイトに勤しんで、己の生活を守っている。
それが先ほど鞄ごとすっかり奪われてしまったのは、致命的だった。

今頃財布は中身を漁られ、今や化石となっている大事なオモイカネ4は――
中身(パーツ)だけ取り出されて、適当に売り捌かれて
しまうかもしれない。 気が重かった。

五百森 伽怜 >  
そんな気が少しだけ晴れたのは、眼前の人物の提案を聞いた時だった。
見ず知らずの自分に、飲み物を奢ってくれるという。

逡巡。知らない人物――それも、先にあんなことがあった相手から、
物を受け取るリスクは重々承知。
しかし、断るのも失礼であると判断した五百森は、
その提案をありがたく受けることにしたのだった。
実際、身体は火照っており、まだ顔も熱かった。
喉はからからで、今にも倒れそうだった。

「……財布もオモイカネもとられちゃって。
 だから、とてもありがたいッス……その、じゃあ、同じ水で……」

ちら、と自販機を見る。
最も安い商品を確認した上で、相手にはそのように頼んだ。

ノーフェイス >  
「『彼の御方はいわれた。
  "貧しきものたち、あなたは幸福である。
  神の国はあなたのものだ。
  飢えしものたち、あなたは幸福である。
  いずれ満ち足りることができるからだ。
  泣き濡れるものたち、あなたは幸福である。
  いつか大声で笑うことができるからだ。
  我が弟子であるゆえに憎まれ、排斥され、
  罵倒され汚名を被せられたなら、あなたは幸福である。
  そのときは―――"』

ノーフェイス >  
ぶつぶつとなにやら英語(ネイティブ)で暗唱していろいろと落ち着かせようとしていた。
効果はまあ――いまひとつ。
さすがに公演後の火照りほどじゃなくとも、体がいうことをきかない。

「ずいぶんとおくゆかしいコトで」

苦笑して、水をふたつ。
なにやらぎくしゃくした動きで戻ってくると、コンテナのうえに膝を抱えて座った。
隣に水を置いて、どうぞ、と。

「クリーニング代にはちょっと足んないだろうケド、どーぞ。
 盗られたモノは……学生街(ココ)じゃしょーがない、ってワケでもない……。
 朝にでも、最寄り駅の分署にでもいけば届いてるかも。完全に気休めだケドな」

盗られるのが悪い、という考えは、隠そうともしなかった。
取り返そうとしていれば助力はしたけども、憔悴のほうが上回っていそうだし。
――多分半分以上は、自分が流されたせいだ。

「……ホンモノの夢魔ははじめてみたかも。
 薬、けっこうするんだってね――朝になればおさまったりしない? ……ああ、」

キャップをあけて、喉を潤す。口元の血を濯いでから、半分は頭から被った。
冷え――……気休め。

「名乗ったほうがいい?」

濡れた前髪をかきあげながら、炎の瞳が流し目でうかがった。
カメラ――報道系の部活か何か。情報には通じていそうだけども。

五百森 伽怜 >  
キャップを開ける。
そうして水を一口飲んで初めて――五百森は、視界が少しだけクリアになったのを感じた。
そうして横に座った人物の方を改めて、ちらりと見やった。

何処かで見たようなその顔は、驚くほどに整っていて。
耳に甘く響く中性的な声色は、何処か心をそわそわと波立たせる。

「……名乗らずとも、分かるッスよ。
 落第街に咲く薔薇(ワイルドローズ)……
 あの、ハロウィン廃劇場占拠事件のノーフェイス……さん、ッスよね……」

風紀や落第街周りの情報を追っていれば、自然とたどり着く存在だ。
五百森は、新聞同好会の一員である。
故に、それなりに情報は手に入れている立場だった。

「まさか本物に会うことになるとは思わなかったッス……」

お騒がせ程度とはいえ、犯罪者に違いはない。
先とは別の震えが身体を僅かに支配するが、五百森は頭を振ってそれを追い出す。

「そうッスね、きっと朝になれば少しは落ち着くッスけど……
 多分夜の間は、ダメッスね……いつまた発作が起きるか……」

もう一口、水を飲む。
視界と思考が、更にクリアになっていく。

「気休めでも嬉しい言葉ッスよ。感謝……するッス」

そうしてふと、視界の端に映るノーフェイスの唇に目が奪われる。
濃い紅に染まる、その艷やかな肉。


「……その。嫌でなければ、唇……そのくらいなら多分、問題なく治せると思う……ッス」

そう口にして、自らの人差し指を差し出した。

ノーフェイス >  
さんはいらないよ。記号的なもんだしね」

これ毎回言ってる気がするな――と、小さく笑った。

「どうも。そのとおり。歌姫の墓に手向けられた花のように――
 通報はしないでもらえると助かるかな、最近はこっちがわによくいてね。
 ――いまのとこは騒ぎも起こしてないから」

ね、と仏教式に両手を合わせて、片目を瞑った。
汗じみて透けた色も、火照った膚も、ましてや目も。
正直、あまり顔を見ずに話すのはすきではないが――直視はしづらい。
なにやらぎこちなく視線を盗み見たりの空気がつづくなか。

「発作……っていうか、アレじゃない。
 "飢え"……食欲とか、そーゆーカンジの。
 種族的な特性って、性徴に応じてつよく出てくるってきいたけど。
 それも気休め、くらい……だったりしたり?」

見た目、同世代――くらいに思えるので。
ある程度身長が出来上がり、成熟の段階に入ろうとしている。
それでここまで乱れるならなおのこと、薬の効きが鈍くなるのでは、とも。

「えっと、そういや、キミのなまえは……」

呼ぶ名に窮して問おうとしたところ、さしだされた人差し指。

「ん」

あらためて両手で前髪をあげると、目を瞑った。
白い膚、人工と月の灯りが綯い交ぜになった光が睫毛の顔を落とすなか、
ずい、とその貌が差し出された。どうぞ、と。