2024/09/20 のログ
ご案内:「逆しまの満月」にノーフェイスさんが現れました。
■ノーフェイス >
――月を。
くっきりとした満月を、水鏡が映し出している。
島中を血管のように流れる河は、浄水設備のおかげか美しく澄んだ水質のものが多い。
学生街の端、ほどなく未開拓区に差し掛かろう自然豊かで人の気配の薄い区画の、
深い河のうえに渡された、どこか古臭いコンクリートアーチの小橋から俯瞰する清流も。
欄干にもたれるように突っ伏して、ぼんやりと鏡像を見下ろしている。
少しだけ勢いづくせせらぎも、季節を告げる虫の鳴き声も、うるさいほどなのに不思議と静かだ。
月光と、ちかちかと頼りない――生活委員会に報告したほうがいいのか――少ない街灯だけの、
頼りない明かりは闇を払いきれず、残夏の夜の深さを物語るかのようだ。
――水。
プールや海。そういったレジャーの娯楽を、今年は一切断っていた。
死神に取り憑かれてから、引きずり込まれそうな感覚を覚え始めていたからである。
……いまも。体が重い。
ルサールカにいつかの誰かの面影が重なり、誘惑の囁きを幻聴する。
ご案内:「逆しまの満月」に藤白 真夜さんが現れました。
■藤白 真夜 >
──月が。
空にくり貫かれた満月が、紅い瞳に映り込む。
見上げた空は、煌々と照らされていた。
行く雲は緩やかで、叢雲というには些か弱々しい。
視界いっぱいに広がる暗闇のそらは、黒々と艶めき星々に着飾られていた。
夜のさんぽ。
ただそれだけの、散策。近頃、真夜は頓に調子を崩す。当たり前だけど。
そうなると、わたしの出番。
そして、ただただ、妄想をする。
どんな場所で、どんな人が、どんな方法で、と。
たとえば、この月夜。
──良くない。
満月は、その妄想には明るすぎる。やはり、狙うなら月の無い夜がいい。
いや、そうだろうか。月明かりの元、相手の血を浴びながら追いかけるのも──
そんな妄想の最中、ふと目を下ろせば闇に浮き上がる紅を見つけるのだから……満月も、たまには悪くないのかもしれない。
「やっほ。
……もしもーし。生きてる~?
暑いからって飛び込んじゃダメだよ?」
遭遇。
ふと、ここでやったら誰にもバレないんじゃん? と常日頃ささやく声が大きくなる。そういう相手。
……とはいえ、約束がある。ノーフェイスにも、真夜にも。
月を見上げるこちらとは対照的に逆しまの満月を覗くその顔を、こちらから覗き込む。愉しむように両手を背中にまわして、首をかしげて。さらり、と垂れおちた黒髪が、落下を幻視させた。
■ノーフェイス >
果たしてその不意打ちは、水に魅入られた瞳を月から奪い去るに至った。
――否、不意打ちではない。そうするには、この存在の耳は聴こえ過ぎた。
微睡むような静かな黄金が、じっとその瞳をみつめる。
「……夜這いが好きだね、殺人鬼」
寝台での穏やかで甘い微笑が、数秒ののちに浮かんだ。
白く大きい掌を欄干につくと背筋を伸ばして、髪を揺すった。
むき出しになる、うたうものの喉と首。引き締まり、細くも力強いライン。
死の誘惑。与えるものか、迎えるものかの違いで。
「見ての通り健在だ。こっちの幽霊は足がないんだってな。
長ぁいのが……ホラ、この通り。安心したかな?目移りしてなくて」
そぞろ交差させていた足のつま先が、トントンと橋上を叩いた。
少しだけ意識が戻ってきたようだ。
「……久しぶり、……って言わないのは、そうか。
キミからはボクが視えてたのか。回り道の、お茶の熱さも」
■藤白 真夜 >
「ひどいなぁ、わたしどちらかっていうとウサギなのに。
……逆しまで見るとこは気に入ったけど?」
首を撥ねるもの。
そんな挑発と誘惑にはほいほい乗らないぞ、と言いたいとこだけど、ノーフェイスはカラダが良い。最後の音も期待できる。
一瞬、空想の刃がそこを通り抜けるさまを、妄想した。吹き上がる色を、漏れ出る断末魔を。
……妄想するだけ。それだけでも、たまに怒られるのだから。
「ん? うん。っていっても、わたしもよく眠っちゃうから、少し曖昧だけどね。
真夜はなんかカッコつけてたけどね、あれハッタリだよ。
味なんて全然わかんないからね、わたしたち。
連想出来ると、それだけで味がするものってあるでしょ。ウィンドウショッピングくらいで、ちょうどいいんだよ」
真夜のことを話すと、ちょっと口数が多い。有り体に言って、楽しげ。それが本心からの愉しみかは、わからないけれど。
「貴女と会うのも、感覚じゃ久しぶりだよ。あなたはちょっと目に痛いくらいの鮮やかさ。
わかる? 気絶するくらいず~っと眠くて、やっと目が醒めたら目の前でロック演りはじめました、みたいなカンジ。
……で」
空を見上げる。
空は、明るくて、暗い。なにせ、満月だ。水面に映るくらいの。
──あの昏いばかりの絶望の『病』とはずいぶんちがう。
「──もしかして、死ぬには良い夜だと思ってた?
ちょっと、暗鬱さが足りないけどなあ。あの暗い夜みたいに。……ね?」
にこにこ。
混じり気ない笑顔を浮かべながら、問いかけた。ちょっと、嫌がらせまじりだ。でも、それが届くとも思ってない。
しかし、そこに浮かぶ笑顔は、楽しげ。こっちこそ、本心からの愉しみだ。
■ノーフェイス >
「――ああ、なるほど……ミルクも砂糖もいらないワケだ。
あの店、ボロネーゼがおすすめだよ。ソースが真っ赤で酸味がクセになる。
……なんて言ったら泣いちゃったかな」
視線は、清流のすすむほうへ。
――意外な、話ではある。
血が香る少女ではあったが、てっきりこっちだけのものかと思っていた。
あっちのほうもそうなのか。
色、温度。少しだけ遠く、しかし連想し得るもの――あるいは、慰め。
「だれの味を妄想して……って聴くのは野暮?」
いくら夜だからって。返答を期待しないといかけは、笑い声に霞む。
「……脳髄にどろどろした殺人遍歴流し込んどいて……
ぐちゃぐちゃに犯されたボクに、それでも鮮烈さを視てくれるならすこし安心はしてる。
いいや。うっかり引き込まれそうなほどに、月がきれいだと思ってたんだよ。そして」
残念ながら――……白い指が、欄干を艶かしく撫でた。
視線はふたたび、鏡像の月に落ちる。空に浮かぶほうは、今日は視ない。
「あそこに飛び込んだら、どこにたどり着くのかってね」
それを視てしまえば、ぼうっと霞む瞳は――やはり、魅入られているのだ。
「鏡の国かな。ジャバウォッキーやろうか。演技は最近経験したよ、首刈りウサギ」
■藤白 真夜 >
「ひどーい! あそこまで化け物なつもりないんだけどー!?」
死を誘った次の瞬間には、頬を膨らませてぷりぷりと怒っていた。
日常と死が隣り合うさまは化け物と呼ばれてもしかたなかったかもしれないけど。
「ん~……真夜は、どうなんだろ。あの子のほうが、飢えてると思うよ。そう見えないかもだけど。
わたしはほら、つまみ食いしてるから。
……あの子はそれこそ、誰でもいいんじゃないかな。そんな余裕、ないと思う。
見た目真面目な分、ね。その分、貞操も硬いだけ。
泣きはしないだろうけど、……あの子、わかりやすく食事が嫌いなの。そういうこと」
ここで妄想して、なんて言われても。
目の前の紅い髪を闇に流す者以外、想像し得ない。
……でも、結局のところ。
わたしは、悦びから。
真夜は、禁欲から。
誰のものであれそこに在るだけで、意味と美味を見出すに違いないから。
「じゃ、行ってみる?」
魅入られるように水底を覗き込むノーフェイスに、つられるようにして自分も見た。
月は、どうでもいい。
水も、どうでもいい。
でも、そこにある同じものを映す概念──水鏡には、感じるものがあった。
同じ形だが、偽物の月に。
「アリスを名乗るにはちょっと、あなたは大きすぎるけどね?
もしかしたら、幼心が残ってるかもしれないよ」
……もちろん、鏡の国に通じてる、なんて思ってない。
でも、馬鹿をやったっていい。そんな気分になる満月だった。
──月狂いの病の逸話を思い出す。そういう意味の言葉だったのかもしれない。
幸い……ノーフェイスがどうかはわからないけど、わたしはそっち側だ。
■ノーフェイス >
古い映画を思い出しても、隣にいるやつこそぞっとしない。
壁を割って出てくる狂った父親も、次々と倒れていく騎士も、
虚構であれ恐怖は恐怖だったが――死にはしばしば取り込まれそうになるがゆえに。
魅力的なのだ。
「『ですが言いましょう。
情欲を抱いた瞳で相手を見たその時点で、
心の中で姦淫の咎は犯されているのです』」
流暢な英語で、静かに諳んじた。
「咎……」
笑いながら、藤白真夜を穢し続け、あるいは満たし続ける藤白真夜は。
果たしてどちらも、一体なんなのか、不意に思考を飛ばしかけた不覚の、
その脇腹を刺す誘い文句に、はっと横顔に釘付けにさせられた。
「……大人になるつもりがあるなら。
生きる意志があるなら、物語は行きて帰りしが王道だケド」
そういえば、試してみたことはなかった。
実際やってみて超克できるのかどうかの実験。
散弾銃では出来ない愚行を、しかしうっかり誘われてしまえば、
その細腰を抱き寄せた。月の下、幻想的な狂気を描くような有り様ではあるかもしれないが。
「姉にはあるの?」
贖罪を願う、妹とは別に。
ボクにはあるケド。そう言外に告げる不敵な声。
そう問うて――とん、と靴底が橋を叩いた。舞う。
「――『月まで飛ばして』?」
愉しげに笑った貌は、すでに逆しま。
ともに頭から、鏡像の月にダイブする。
いまこのとき、すべてから、藤白真夜のすべてを奪う。世界からも、一瞬だけ。
■藤白 真夜 >
「うわっ! やめてよ、引用なんて。
聖句、ホントにニガテ……。ちゃんと効くんだよ、そういうの。
わたし、ちゃんとソッチに傾いてるんだから」
感覚だけの話じゃない。ぴりぴりとカラダに走る悪寒。糾されるものの弱み。借り物の、そういうものの属性としての話。ある種の呪術の代償とも言えるそれ。
とはいえ、本物の詠唱ではない──ないはず──の言葉の与える影響など微々たるもの。
「……どうかな? アリスにそんな知性は描かれてた?
無垢ゆえの無謀が、たまたまご都合主義で現実を避けてただけだとしたら?
わたしがアリスなら、ドジスン先生の首をはねて終わりだよ」
ダンスに誘うみたいに抱き寄せられる腕に、少女らしく身を委ねた。やっぱり、アリスというより、男役が似合うと思う。似合う役を探して諦めた。わたしも、ノーフェイスも。不思議の国に出るには刺激的すぎる。
「ヒドいなぁ。わたし、結構ロマンチストだよ?
……いっつも好きなもののコト、考えてるもん」
嘘偽りなく輝く瞳で告げた。
落ち行く逆しまの中で。
無垢ではない。純真でもない。でもすくなくとも、純粋だ。
血まみれのアリスを言い張ったっても、許される。
夢の少女は、その心があれば誰にだってなれるんだから。
「……その先に、星は無いと思うけど。
だから、ハグもキスも無し。
でも──」
おっこちてく。どちらかっていうと、ハンプティ・ダンプティおっこちた、だ。
でも、アイツと違って、わたしは戻る。
どれだけ砕けて、奪われても。
だから鏡に溶けて、混ざり合うくらい、日常事。
だって──夢を見る度、わたしたちは奪われてるんだから。
わたしの浪漫を、悦びを、あげる。
そう続けようとした言葉は、水の音にかき消えた。
■ノーフェイス >
見下ろす月を主観とするなら、
視えなくなった時点でそこに何があるかはわからない。
鏡像の月のむこう。
ふたりそろって、真っ逆さま――
小石をすべりおとしたように、とぷん、と無抵抗に。
世界のむこうがわへ消えたふたつが。
もともとふたつだったのかさえ、証明は不可能だ。
――匣の中の猫のように。
曖昧に
およぐ ゆらめく とける まじりあう
せかいがふたりをうしなったのか
ふたりがせかいをうしなったのか
■ノーフェイス >
『きみは、一度死して蘇る必要があるのだ』
男の声が響いた。
■ノーフェイス >
藤白真夜は歩道のうえにいる。
太陽が優しい季節だった。
すぐそばの車道には乗用車が賑わしく行き交い、エンジン音とクラクションが騒がしい。
林立する周囲の建物は、レンガ造りのものばかりで、どことなく欧州風。
すくなくとも日本ではないこの場所はしかし、外つ国である以上になにかがおかしい。
そのなにか、を悟りがたいほどには――曖昧な風景。
遠景はぼやけ、高いところもぼやけるなか、音だけが鮮明だった。
聴こえる音は、日本語ばかり――それはきっと、認識を合わせているからだ。
藤白真夜の真横を、少女が通り過ぎて、三歩先で立ち止まった。
半袖シャツにオーバーオール。履き潰したスニーカー。
活動的な印象だが、陽光に透ける金髪は伸び放題でぼさっとしている。
不潔な感じはない。身だしなみに気は使っていて、だがお金はかけられていない。
なにかの包装された箱を大事そうに抱えた少女は、
やがてあなたのほうをくるりと振り向いた。
年の頃は10に満たぬ頃。
身長は、140センチに足りないくらい。
長い前髪のすきま、碧眼がじっとあなたをみつめている。
どこか無垢で、どこか陰気で後ろ向きな気弱さを宿すその顔は。
おぞましいほどに整った人形のような風貌は。
知れた面影からは遥かに幼くとも。
しかし、紛れもなく――――あなたの知った顔である。
そのあと、きょときょとと周囲を見渡している。
あなたのことは、視えてはいない。
■藤白 真夜 >
■■■■■とわたしの意識は重なってる。ふたつ。その視座が正しいのだから。
夕暮れ時。
小さいけど暖かな居間。夕食。団らんのひと時。
記憶は曖昧だったけれど、家族で食事をするのがだいすきだった。……はず。
父は気弱だが優しく。母はしっかりもので、父を半ば強引に料理を手伝わせることがおおかった。
その仲の良さが羨ましく、わたしもその間に挟まって料理を手伝うと言い出したのだった。
そのはず。…………はずだ。
きっと、その“前”の記憶は、わたしに無い。
わたしの、最初の記憶はそこだ。それが何を意味するか、深く考えたことは無い。……真夜がどうなのか、すらも。
「もう、なんでそうへたなの?」
「お父さん、へたー」
不揃いに転がったにんじんが、まな板に並ぶ。
父は、家事が下手だった。母も、それをつつく。そして、間に挟まったわたしがころころと笑いながら真似をする。
父はそれを嫌がらず、困ったように笑うだけ。母は、そんな父を大切そうに見つめる。驚くほど、嬉しそうな瞳で。
そんな中で家事にわたしが興味を覚えるのは当たり前の流れで。
すぐにわたしは、慣れない手付きで包丁を持った。
それはもう、傷一つつけてはならんと両側から挟まれたまま。
指は丸める。脇をとじる。手を洗い、ちゃんと拭く。
やりすぎなくらいの過保護を、でもわたしはちゃんとこなす。
幼心に、それをなんとなく、きれいなものだと解っていたから。
傍観者は、解っている。そこには踏み入れない。……きっと、記憶の持ち主ですら。
過ぎ去っていった大事なものは……顧みたとき、意味を変質させるから。
それはもう、大切な思い出などではなく。
……忘れ難き、終わりと始まりの日。
■ノーフェイス >
『…………』
壁に背を預け、ボクは家族の憩いを見つめていた。
きっと彼らからは自分は視えない。
どこからどうみても、ささやかながら幸せな日常がそこにあった。
『臨死体験……?』
自分に、相手の記憶を盗み見るような能力はない。
幻覚――というには確か過ぎ、かつ、真に迫った光景。
これは、どちらの真夜のものだろう。
『……悪いコトしてる気分になるケド。
認識のなかで、ボクのほうがはっきりと意識を保ってるってコトは……
引っ張り上げる必要があるのか。キミの生きる意志を』
ちょうど識りたいと思っていた。
好きなもの――それは、血と、死か。
嫌いなもの――あるいは、藤白真夜。その咎を。
『……ボクは』
腕を組んで、静かに。団欒を眺めていた。
その時がくるまでを、見つめていた。
この人間は――
『この光景が、嫌いだケド』
――自分が持ち得ないものに、嫉妬するのだ。
■藤白 真夜 >
『……一度死ぬ、ね。
何回死んだか、もう覚えてないんだけどな』
曖昧な光景には、これでも慣れているつもりだった。
いや、自意識が曖昧なだけ、かもしれない。
わたしの記憶は揺れて、すぐ混ざる。
ふたつの視点を持つとは、そういうことだ。
だから、その夢見心地の記憶も、解るつもりだった。
認知の世界。
だから、それを理解しよう、とは思わない。幻想のゆめとは、そういうもの。
ただ、受け入れた。
『こんにちは、■■■■■ちゃん……なんて言っても、届いてないのかな?
……おおかた、あっちは死にかけてるとみた。いつ死んでも美味しいもん、ミュージシャン。
でも、そうはいかないでしょ! ……約束、忘れてもらっちゃ困るもんね?』
意識は、溶け合って、届かない。
引っ張り上げよう……なんて殊勝なことは考えない。
生きようとする意思には多少スパルタで、刺激的なほうがきっとうまくいく。
『……ほら、教えて。
お人形さんみたいなあなた。
どうして……あんなになっちゃったの?』
きれい。少なくとも、見た目は。
幼い。とうぜん、年相応に。
……でも、その中身は違う。
あるいは、……自我の殻で覆う前の、幼さのまま。
名もなき音楽家の、そのはじまり。
はじまりを知れば……その終わらせ方が見えてくる。
──己の芸術。
死の解像度をあげるため。いちばん、彼女に相応しい、それを。
ただ、そのためだけに、混ざり、潜った。深い、深い、水底へ……。
■ノーフェイス >
足が向いたのはCDショップだ。現代では珍しい。
ディスプレイされてるデッキやプレイヤーは高くて、ほっぺが膨らむ。
自分専用のポータブルのやつがほしい。こっそり不良音楽が聴けるやつ。
お小遣いを貯めてはいるが……とうぶん先になりそう。
中流家庭より、すこし下。都会に住むには、ちょっと苦しい経済事情。
だから店内で流れてるラジオや映像で我慢する。
店長さんが優しいので、長居をゆるしてくれる。
ちょうど――そう、これこれ。これだ!高いところにある画面を見上げる。
「……『うんざりだ』」
ちいさく、つぶやく。
熱狂する観客のなか、格好良く歌い上げるおとこのひと。
歌詞は、「もううんざり」なんて繰り返す、情けないものなのに。
ふしぎと格好良くて、これが流れてると曲調といっしょにご機嫌になっちゃう。
スニーカーの底でリズムをとって、うねるベースに体を揺らす。
――その中心にいるのが、セックスシンボルなんて呼ばれてる人。
『あの子は?』
『……、―――――さんのとこの妹さん。
いろいろ大変な子で、学校行かせてやれてないんだとさ』
『ああ。……お姉さんは優秀なんだろう?大変だね』
『けっこう手を焼いてるんだってさ。近所の子とも喧嘩したって……』
「……………」
少女は、生まれつき耳がよすぎて、すこし体がほかのひとと違う病気だ。
だから居合わせたお客さんの小さい声も、全部聴こえる。
そのせいで、両親は小学校に通わせることをそうそうに諦めた。
家庭就学。生まれたての制度をたよっていた。
(……図書館いこう)
逃げるようにCDショップを出た。
自分は――いい。でも、家族が悪くおもわれるのはいやだ。
抱えていた箱をぎゅっと抱きしめる。すこし落ち着いた。
あそこの司書さんや職員さんは事情をわかってくれているし。
数少ない、少女にゆるされた居場所だといえた。
未だ咲かずして、未だ生きられていない少女が、
はじめて生命を手にし、来たる破滅への最初の一歩を踏み出す日。
■藤白 真夜 >
「できた!」
「まあ、すごい!
ほら、見て、お父さん。お父さんのよりきれいじゃない?」
弾むような誇らしげな声。
今よりもよほど、人としての喜びを知っている声。
素直に、真っ直ぐに。でも、母に似て少しだけやんちゃ。
父と母に褒められて、照れるようにふにゃりと笑む表情だけは、父に似た。
今の面影は、面と裏の何処にもない。……ちょうど、結節点のように。枝分かれする前の。
慣れない包丁を持って、でも丁寧に。幼いながらに、懸命に。
果たして、はじめてのモノを切り刻む行為は何一つ損ねることなく成功した。
だから、だろうか。
喜びに流行る躰で、小走りを。
我がことのように喜ぶ母へ駆け寄り……転げた。
それだけだ。
悲劇的な事故など、起きはしない。
包丁を落として、手の甲を切っただけ。
多少血は出て、あぶなかったね、と叱られて終わり。
それだけで終わる、はずだった。
これまでの短い人生で最大の驚愕と痛苦を与えられながらも、泣き虫だったはずの“わたし”は泣かなかった。
こういう時には弱々しくなる母の声も。
こういう時にだけ頼りになる父の声も。
届かない。
ただ、見ていた。
大したことはない、と安堵する家族の顔ではなく。
己の手から溢れ、広がり、……流れ行く血を。
だいすきな家族の愛に包まれながら、その意味を解りながら。
……わたしは、ただそれをみていた。
恐怖と、痛みと。
──崩折れるほどの。赤いいろに、目を奪われて。
それは、温かな思い出なんかじゃない。
もはや誰も識ることの無いわたしだけの咎と。
──甘美な初体験の、始まりの刻。
■ノーフェイス >
包丁の扱い。料理の味付け。家族の前で笑うコト。
(ボクだって……)
あれくらい、簡単にできた。いや――そうだ。
最初は褒めてもらえてたと思う。いつからそうではなくなったのだろう。
きっと真夜には――否、だれにも見せられない顔をしてしまっている。
真剣に、陰鬱に、淀んだ瞳で家族の肖像を眺めた。指が肌に食い込んでいた。
よりにもよってこんなものを見せつけるの?ボクに?
『…………ああ、』
明るく元気な母親と、穏やかで優しい父親。
それぞれ姉と妹に、気質が受け継がれている――
『こんなふうに、笑う子供だったんだ……?』
不敵で妖艶な笑みでも、泣きそうな笑みでもなく。
まっすぐ愛情を注がれたがゆえの――その体が傾ぐ。
『あ、ッ』
転びかけた姿を見て、思わず駆け寄った。
――腕をすり抜ける。当たり前だ。見せられているだけなんだから。
なにやってんだ、と自責しながら、乱れた髪を直しながら立ち上がって――
『…………真夜?』
固まって動かない姿を見下ろして――、……息を呑んだ。
魅入られているとわかった。我知らず、自分の頭髪にふれていた。
魔力の成長と第二次性徴にともなって染まった自分の魂のいろ。
『…………まさか』
いまから、なにが起こるのか。なんとなくの推測がついてしまった、いや。
推測の範囲内であってくれと、心のどこかで願う自分さえいた。
じっとりと汗ばむのがわかる。殺人鬼。好きなもの。よろこび……
一度味わってしまえば、際限なく欲しくなるモノ。
■藤白 真夜 >
『ふ~ん……え、これ、なに?
…………なんでこんな高いの?
安いのでもかわんないでしょ……』
記憶の主の目線と、わたしの感覚は重なった。
いやむしろ、わたしのほうが経験値は無いか。
今ですら世情に、……真っ当な世界に疎い身には、一昔前のはずのそこは十二分に目新しく映っていた。
飾られている品々を興味深げに覗き込んでは、すぐに飽きる。やたらと高い周辺機器のほうが面白いくらい。
流れてくる音楽だけが鮮明に聞こえても、立ち聞きで満足できる少女ほどに飢えても無い。
『……ふふ。こういうとこはもう似てるね。
音楽は、わたしにはわかんないけど』
楽しげに体を弾ませる少女を眺めながら、独り言ちた。
わからない。
音楽も、歌の良さも。
でも、その不平不満を歌い上げる旋律に身を委ねる意味は、わかるような気がした。
こそこそと届く、陰口。驚くほど鮮明な音の意味。
だってそりゃ、言いたくなる。
『……うんざり、ね……』
さしたる感情も浮かべぬまま、逃げていく少女の後ろ姿を見つめた。
その逃避すらも、幼き日の思い出として在るのだろうか。
わたしには……
『……こういうとこ、一度もいかなかったな』
どこにでもある偏見。どこにでもある憧れ。
己が歪だなどと本気で思ったことは一度も無いけれど、見せつけられるそれは思いの外鮮明で。
懐かしく、それでいて胸に刺さる郷愁を、感じていた。
……わたしにそんなものは、亡くなってしまったから。
■ノーフェイス >
少女は優れた人間を目指し、ひたすら努力していた。
思想の根幹は神の死を諳んじた男のえがく自立心であったが、
感性としてはシュタイナーの人智や、ブレイクの力強さに惹かれていた。
なぜかといえば、少女は神の愛なんて欲していなかったから。
遊びの相手がいなくなり、負かした男の子と喧嘩するほどにスポーツ堪能で、
この齢で難読書さえすらすらと読み解くほどに、聡明な知性を持ち合わせていた。
努力も結果もともなわないほかの子供が、自分より評価される理不尽を横目に。
努力を重ねるほど、周囲の見る目が恐怖に変じていくことには気付けなかった。
「……おそくなっちゃった」
図書館を出る。家族と視線もかわさなくなって久しい。
姉の顔を――どきどきして、くるしくて、だから見られなくなって。
自分から避けていたら、姉からも声をかけられなくなっていた。
だから、心配はされていないかもしれないが、帰らないと迷惑がかかる。
「……ん………」
夕焼けに染まる、■■■■の街。綺麗だ、と思う。……いまでも。
いつもの通りがやけに賑わしい。なにかの宗教の街宣だ。
……路地を通ろう。この街は治安がよいほうだ。子供ひとりでも、わりとどうにかなる。
「――――あっ」
■ノーフェイス >
むしろ近道になるその通りを進んで曲がると、なんともまあ――ガラ悪そうな少年たち。
間がわるい。でも避けるようにして端に寄れば、好奇の目では見られたが、大丈夫そう。
さすがに高校くらいの年齢の異性はこわいから。……ちょっと、憧れもする。
安心しているとその一団のなかで、ひときわ、大柄な少年と目があった。
悍ましきほどの美は――
――不気味の谷。
極めて精巧な人間に似せてつくられたものなどを視認したとき、
好感が谷のように急落し、恐怖や嫌悪へとすり替わる現象のこと。
『――なに見てんだ、このガキ』
――好感ではなく、生理的な嫌悪感や防衛反応を呼び起こすことがある。
その少年は少女の細い肩をかるく突き飛ばした。壁に背を打ち付けられる。
やめろって、などと軽く笑う少年たちは、そのまま通り過ぎようとする。
その衝撃でころりと、ほどけた腕のなかから落ちた、丁寧に包装されていたあの箱が、
地面に落下して――がしゃん。
中に包まれていた硝子が割れて砕ける音がした。
「―――――――」
見下ろす少女の顔から、表情が抜け落ちる――嵐の寸前のように。
■藤白 真夜 >
血が、流れている。
わたしの、手から。
──貴重で、大事な、いのちが。
痛み。驚き。恐れ。
だめだ。
このままでは、だめだ。
傷付いてしまう。わたしという存在が。
守らなければ。
────しにたくない。
想念が、恐怖が、その願いが異能を呼び起こす。
最初の願望。
わたしと一緒に産まれたその異能は、己に出来る全力を以て──自身を守りきった。
その対象に、……己の愛するものは含まれない。
異能は、暴走した。
留められない。幼さ故か、魅入られたが故か、暴れる異能の力故か。
手から赤い液体が溢れていく。
渦を巻き、波打ち、……しかし、鉄のように鋭く。
始めて知った刃を真似て、自らに触れる全てを。
ただ、護ろうとした。己自身を。……己自身、だけを。
やみくもに振り回されるそれは、逆巻く鉄の刃の渦に等しく。
案じて近づいてくれたモノを、己を脅かすモノと誤認して。
──痛みと恐怖に恐れるまま、切り裂いた。
赤い血潮が、広がっていく。嵐が、通った後のようだった。……あるいは、切り刻んだ後の、野菜くず。
その様を……ただ、見ていた。
魅入っていたはずの瞳は、見開かれた。確かな、怯えに。
それは、確かに事故であった証に。
それが、初めてだった。
はっきりと思い出したことは無かった気がする。これは、望んだものじゃない。思い返すなら、……未熟で、足りない。今の美学にあてはめたら、三流とまで言える。ただ、突飛なだけ。
でも……不思議と、心が痛むことはなかった。
だって、わたしは知っている。
この娘にとってこれは悲劇だった。もしかしたら、わたしにも。
でも、違う。
……もっと、違うものにしてくれた。
──他ならぬ、愛というものが。
■ノーフェイス >
『――――……』
ちょうど、そう――ミキサーか、あるいは。
レバーを引っ張ると、なかにいれたものがばらばらになる、調理器具。
只中に立たされたようであって、すべてが自分の体をすり抜けていく。
どうしようもないとわかっている。
この世界は、まるで映画でも観るようなもの。
であるがゆえ、だろうか。嵐の暴威のただなかにあって、どこまでも冷静だった。
『…………ッ』
ずき、と痛んだのは、あのとき貫かれた掌。
殺人鬼とつながった場所。
違う。――この痛みは、違う。
『パパとママを…………』
この人間にとっては、そうしたものだ。
なにより大切なひとたち。自分のはじまり。生まれてさいしょの宝物をくれたひとたち。
咎、というには――――あまりにも、多すぎる。
さっきまでの、妬ましいほどの幸福を思えば、いつかはあまりに遠すぎる。
三阿僧祇の劫を超えてなお、ありえざる解放を。
赦されるはずが、赦せるはずがない。
永劫の罪と罰、恋を封ずる呪いとするには――――
(…………ちがう…)
これで終わりじゃない。
これがすべてじゃない。
藤白真夜の実像はこれだけで終わるはずがなかった。
おそれるようにして、一歩、一歩……血溜まりのなかを歩む。
小さいこどもの体を回り込む、それだけで、ずいぶん時間がかかった。
見えるはずもない――はずだ。自分のことは。
その眼前にしゃがみ込み……事を起こし、終えてしまった顔を――覗き込んだ。
■藤白 真夜 >
『うわ……!?
なに、これ……? ……ニーチェ? すごいな……。
……この娘わたしより頭良いかも……。
…………なのになんであんなおっぱいだいすきなヤツになっちゃったの……』
わたしはすっかり、その娘と視線が重なっていた。
いや、もとよりその気質はあるか。身勝手な感情移入こそ、わたしにインスピレーションを齎した。そして厚みを得た情動をたやすく、いやだからこそ、破り捨てられる。
それが、わたしが他人に抱く感情だった。
『……出来すぎたんだね。
結局、健常者ってそうだからね。
区分を作りたがる。そうして、……出る杭は打たれる、ね』
わたしだって、ソッチがわだ。この娘の場合は、デキが良すぎるが故、だから大分違うけれど。
『……このコたちには、あなたが本当に人形に見えたんだね』
絡まれる少女を、色の無い瞳で見つめる。
感情は動かない。むしろ、どうだろう。
本当に恐怖を覚えたのはどちらなのか、わたしにはわからなかった。
暴力はわかりやすく恐怖を呼び起こす。わたしに言わせれば、あんまおもしろくないやつ。
でも……彼らの側は?
おぞましいまでの美を見た恐怖は、どんな味がしたのだろうか? わたしに言わせれば、そっちのほうがおもしろい衝動だ。
『……あ』
感情を追いたがる癖に耽っている間に、何かが砕ける音がした。
ずーっと、大切そうに抱えていたあの箱の。
『……ふふ。
……うんざり、だね?』
それが何かの記憶だということくらい、わかっている。
でも、それを慮るような機能はわたしには欠落している。
だからただ、少女を見つめた。
さあ、どうするの?
試したりしない。測りもしない。ただ、見せて……と。