いとをかしげなる人の、いたう弱りそこなはれて、あるかなきかの気色にて臥したまへるさま、いとらうたげに心苦しげなり。
御髪の乱れたる筋もなく、はらはらとかかれる枕のほど、ありがたきまで見ゆれば、年ごろ何ごとを飽かぬことありて思ひつらむと、あやしきまでうちまもられたまふ。
「院などに参りて、いととうまかでなむ。かやうにて、おぼつかなからず見たてまつらばうれしかるべきを、宮のつとおはするに、心地なくや、とつつみて過ぐしつるも苦しきを、
なほやうやう心強く思しなして、例の御座所にこそ。あまり若くもてなしたまへば、かたへは、かくもものしたまふぞ」など聞こえおきたまひて、
いときよげにうち装束きて出でたまふを、常よりは目とどめて見出だして臥したまへり。
(紫式部『源氏物語 第九帖 葵の巻』)
桐壺更衣や藤壺、紫の上らとともに、黒岩孝志の人格形成に多大な影響を与えた人物のうちの一人。
架空の人物とされてきた六条院光源氏(=黒岩孝志)と共に、その実は歴史上存在した実在の人物であり、
光源氏と葵の上の間の複雑な関係は源氏物語の作者・紫式部に同作の執筆を思い立たせた重大な要因の一つである。
そのため源氏物語に記述された彼女の来歴は、その多くが事実に基づいている。
父は桐壺帝(醍醐天皇)時代の左大臣、母は桐壺帝の妹の大宮。頭中将という同腹の兄弟がおり、血縁的には光源氏の従姉にあたる。
将来の東宮妃候補として育てられたものの、政治的な思惑を経て元服した光源氏の正妻(北の方)に収まることになる。
しかしそれぞれの事情も相まって夫婦仲は冷淡であり、光源氏が葵の上からの情愛に気付いたのは、
彼女が産褥熱によって死に至った(作中では死因は六条御息所の生霊に呪い殺されたことによるものだとされている)後のことであった。
後年、光源氏は権勢の絶頂に立つ中、情愛を注いだもう一人の正妻である紫の上を亡くしたのち、人の命の朝露の如き儚さを嘆き、
同時に自らの理想を追い求めた結果孤独と苦悩のうちに病没した葵の上と紫の上に対する己の罪に苦しむことになる。