(受講生を前に立つ。指示棒を伸ばしながら、では、と口を開く)
「手始めに――日恵野君か。
今日は受講してくれて有難う。
やはり描き慣れているだけのことはあるな。
鉛筆でそれぞれの色と質感とを描き出すのは、
デッサンを始めるにあたって最初の課題になる。
リンゴの赤は紙の上では黒いが、手を入れすぎればそれは『黒』だ。
その点日恵野君は心得ていて、この布とリンゴ……
同じ明度と異なる彩度とをよく捉えられている。
構図の安定感は申し分ない。
彼が気にしていたのは、恐らく空間感だろうかな。
足りないところを指摘するとすれば……、
このブロックか。これはモチーフの中で唯一硬い平面を持ち、
垂直に伸びる側面と敷かれた布とが交差して空間の流れを作っている。
そして、この絵の中でいちばん重い。
今回選んだモチーフは、表面的な質感は元より、
実のところ重量感もまたポイントであった」
(ホワイトボードに文字を書き連ねてゆく。
“布>リンゴ>ケトル>ブロック”)
「鉛筆で色を描き分けることは至難の業だが、
空気と重さを描くのはもっと難しい。
ともあれ、慣れぬ者にとっては目標たり得る絵だ。
彼自身も、この調子で伸びてゆけるといい。
以上だ。お疲れ様、日恵野君」